ずっと遠くで救急車のサイレンが鳴っている。夕食と就寝の間、だいたい入浴や晩酌の時間といったところであろうか。部屋で作業しているこの時間帯に、よく耳にするように感じる。
 ペンを動かしていた手を止めると、カーテンの端を中央に向かってわずかにずらして暗い窓の外へと上体を向けた。音の小ささからして近所では無い事が振り向く前から明白だったが、俺は普段そうするように音のする方角を向かずにいられなかった。微妙に気になってしまうのだ。
 暗闇に邪魔をされ、視界はすぐに漆黒に染められてしまった。いつも通りだ。
「鳴ってるね」ため息をつくなり、ささやくような小さな声を投げかけられる。
「はい。いつもこの音を聞くと何か漠然とした不安に駆られてしまうんですよね」
 声に応えながら回転椅子にもたれた体を再び左へと回して反転させると、勉強を続ける姿勢を崩さずに、しかし先輩も自分と同じように窓の外へ瞳を向けていた。
「わかる気がするわ」
 先輩の髪は既に乾ききっていて、いつものさらさらしたロングを肩から腰の方へとしだれさせていた。憂いを帯びた瞳、端正な顔立ち。しばらく俺は先輩の横顔から目線を動かせず、結果的に見入ってしまっていたのだが、やがて再びこちらに振り返る動作を見せたので慌てて目を逸らした。
「あ、あーあーふたりして同じ格好でまあ……」
「ふふっ。ふたりとも英語の文法にバッサリ斬られちゃったみたいね」
「ゴールを決めてなんたらかんたら偉そうに言ってたのはどこのどいつだっての」
 テーブルを見ると恵姉と寺岡先輩が長机に突っ伏し、一様に穏やかな寝顔を浮かべていた。振り返って初めてふたりが規則的な呼吸音をさせていることに気づいたのだった。完全に先刻までとは立場が入れ替わっている。
「渡瀬くんこそどうしたの? あんなに眠そうだったのに」
「コーヒーが効いてくれたみたいです。もう全然眠くなくなっちゃいました」
 思いのほか漢字の書き取りに四苦八苦してしまったが、ようやくノートにそれなりの黒弾幕を纏わせることができた。覚える分にもあまり苦労することなく進み、意外なほど俺は集中できていた事になるわけだが、その理由を説明するのに足る要素といえばそれしか考えられなかった。無理矢理流し込んだ甲斐もあるというものだ。
「……にしても」
「ん?」
「どうしたのって問いかけはいかがなものでしょうね。俺はただ普通に漢字と向き合っていただけですけどね」
「あは、ごめんごめん。でもコーヒーさまさまってのは間違いないでしょう?」
「そーですね。ちぇっ」
 不貞腐れて皮肉をこぼすと、草原先輩は口に手を当てて笑うのをこらえる仕草を見せた。声を上げてふたりを起こさないように配慮してのことだろうが、俺にとってはむしろ妙な表情を浮かべて無言で悶える先輩の反応のほうがたまらなく滑稽にうつった。
「あはっ」
「ん、何? なんで笑った?」
「いえ、別に大したことじゃ」
「じゃあ笑うな。今変な顔してたからでしょ! わかってんのよ!」
「ご名答です、ふふっ」
「また!」
 どうにもおかしくて小さく笑っていると、恵姉お気に入りの黄色い基調のパジャマの袖から少しだけはみ出し加減の腕を振り上げて、先輩が消しゴムをこちらへ投げつけてきた。綺麗な顔が真っ赤だ。それがまた可笑しさをこみ上げさせる。
 他愛もない囁き合いだった。けれど、先輩と話すのはとても楽しい。時間を忘れるようだ。
 今、俺は目の前にいる人に恋をしているのだろうか。それともその数歩手前なのだろうか。
 この関係を、どう定義していくのが一番自然なのだろうか――。
「ね、渡瀬くん」
 胸のうちに問いかけるように考えをめぐらせていると、いつの間にか真剣な表情を浮かべた先輩がこちらを見つめていた。
「確か恵ちゃんの部屋にもベランダってあったわよね?」
「え、ええ。ありますけど」
 質問の意味がわからないまま曖昧にうなずくと、先輩はペンを教科書の間に置いて静かに立ち上がった。ちらと顔から足の方に視線を移すと、上着を見ていて予想していた通り、足もパジャマからはみ出し加減であることを確認できた。若干のつんつるてんっぷりだ。
 先輩はそのままドアの方へと歩みを進めていく。
「あの、トイレなら階段を降りて右です」
「それは知ってる。さっき行ったから。いいからほら、功一くんも立って」
 ドアをそっと押し開けると、先輩はこちらにふりかえって右手をクイクイと数度ひらひらさせた。そのジェスチャーから「あっちいけ」か「ついてこい」という2つの意思表示が予想出来るが、たぶんここでは後者の方で間違いないはずだ。