Neetel Inside ニートノベル
表紙

HIGH JUMP
0日目

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 何がどうしてこんな事になった。

 深夜、有史人類史上最高に絡まったと言っても過言ではない思考を自室に持ち帰った俺は、ため息と共にベッドへ身を放り投げた。脳がどのくらい天才じみた瞬発力を発揮すれば現状を理解できるのか教えてもらいたい。アインシュタインさーん。ホーキングさーん。ちょっと俺と立場を入れ替えてはもらえませんか。若干本気でお願いしたい。

 4度目のため息の後、やっとの事で自分の体を動かす命令を思い出して枕元の目覚し時計に目をやると、長針と短針が真上を向いて重なり合っている。
 怒涛の急展開を見せた今日の終了と、新しい1日始まりのお知らせ。つまり、「俺がここにいる時間が残り1週間」となった……らしい。

 自分でも、何がなんだかわからない。そりゃあそうだ。いきなり”あんなもん”に巻き込まれたと思いきや、その”あんなもん”の当事者が俺でした。ホラこれが証拠ですスゴイデショ?さぁあと1週間、悔いのないように生きてね。というようなニュアンスの言葉を投げつけられ、そしてそれが非常に現実味を帯びていて拒絶出来そうにないっていうんだから。
 総理大臣とか、そういった偉いっぽい人はテレビの中に住んでると思ってて差し支えないだろ常識的に考えて。実物を見る機会が訪れる事なんぞこれから何回総理が変わったって一生あり得ないハズだと思ってた。いやいやそれよりも何よりも、今現在俺が置かれている状況の異常さは何だ。どうしたらこんな事を信じられる。というかそもそも…ああもう!

 混乱と共に脈拍が早まり、数時間前からハイスピードBPMで安定してしまっている。一向に平常時の体を取り戻せない。うつ伏せになって触れているベッドに共鳴して届く心音からも、自分が今、どのような精神状態にあるのかを如実に物語り過ぎていて泣けてくる。

 腕立て伏せよろしく体を持ち上げた反動を利用して小さく飛び上がり、空中で膝を曲げつつベッドの上に正座する。その後、多少なりとも効果があるようにと小さく祈りながら、深呼吸を繰り返す。鼻から吸われ、口から吐き出される空気の音だけが部屋に流れた。

 何度目かの二酸化炭素放出で、落ち着いた振りぐらいは出来るようになった頃合いを見計い、制服のネクタイを外しながら、もう昨日となった1日を思い返す。

 この世界とお別れをする事が確定した非常に理不尽な1日は、これからそんな事が起こるなんて一切想像出来ないような、いつも通りの、それはそれはフツー極まりない始まり方だった。


 「いってきます」

 誰もいない玄関に出発の挨拶を告げ、ドアの鍵を閉めて歩き出す。
 高校入学から半年が経過し、夏休みという夢のような休日ループも遠い記憶の彼方に追いやられた10月の空気はまだまだ夏の匂いを帯びていて、地域によってはそろそろ始まる木々の紅葉もこの辺りは随分と遅くなりそうな気配だ。中学まで住んでいた地元では、このぐらいの時期になると一部の木々が色づき始めていたので、1月ほど季節がズレているような不思議な感覚を受けながら、見慣れた通学路を進む。

 4月から1ヶ月使って行った学校までの最短ルート探索は功を奏せず、当たり前と言うべきか、借りたアパートを斡旋してくれた不動産屋が教えてくれた、学校まで延々と続く一本道が通学に最適だった。まっすぐ10分ほど歩くだけなので面白みは無いのだが、右折左折のどこに面白みを感じられるのかと自問自答したところで瞬時にして不満はほぼ無くなった。

 残りのちょっとした不満は、この高校は自転車通学が許可制で、学校から半径1キロ以内に住む生徒の自転車通学が禁止されている事だ。去年の春から施行されたらしいが、全校生徒数500人にも満たないのに自転車置き場が足りないっていうのは学校としてどうかと思う。加えて半径1キロ以内の生徒の自転車通学を禁止したら、今度は自転車置き場に余りが出てると言うんだから、もうちょっと考えて欲しいものだ。

 自宅前にある交差点がちょうど境界線で、道を挟んでギリギリ徒歩通学を強いられている俺としては、この状況を理不尽に思うのは当然だろう。
 律儀に徒歩で通学する俺を誰か褒めてくれないものか。そんで最終的には学校までの動く歩道をプレゼントしてくれると嬉しい。

 とにもかくにも続く高校生活。毎日のように歩き続けるのも体には良いのかも知れない。高校入学と共に紆余曲折を経て帰宅部に在籍することになり、ちょっと腐りつつも「帰宅部になると下校後にこんなに時間って余るものだったのか」なんて感動しつつ、おかげで毎日の通学以外に体を動かすことが非常に少なくなった俺にとって、登下校は体育の授業を除いた唯一の有酸素運動になりつつある。運動としては時間が短いので、効果の程はあまり期待できないにしても、だ。

 中学では陸上部に在籍し、走り高跳びなんぞをやっていたのだが、背の順では前から5番目以内を常時キープしていた俺である。自分の身長+10センチを跳ぶ事が出来ても――まだ体の成長時期に個人差がある中学時代にも関わらず――基本的に走り高跳びをやっている奴は一概に高身長だったので、俺の記録が大会で表彰される事は無かった。

 それでも俺は、あの種目が好きだった。歩幅に合わせた助走距離を設定して、自分の決めたリズムで、跳ねるような走りを目的の跳躍ポイントを見据えて細かく刻むように進めて行き、助走で稼いだ力を踏み切り足に溜め込んで一気に上方向に解き放つ。バーを越えるために背面で飛び上がると、視界に一面の空が映る。おそらくコンマ数秒。時間にしてはそんなものなのだろうが、その一瞬の為に、俺は何度も何度も跳び続け、疲れるとマットにゴロンと寝転んでまた空を見上げたものだった。
 あの一瞬の空と、マットの上から見る永続的な空は、同じ筈なのに明らかに色が違っていたように思えた。その違いが、一体何によるものかを知りたかったから、だからあれだけ走り高跳びに夢中になれたのかもしれない。

 なんて、ちょっと感傷的な気分が比較的簡単に、そして大いに味わえる、ある意味お得な競技だったので、高校に入学しても続ける気でいたのだ。

 腐ったのは入学直後、職員室に赴き、陸上部顧問の先生に入部届を手渡した時だ。
 入室直後に手近に見えた、何の教科を教えているのかすらまだわからない先生に、陸上部顧問の所在を確認したところ、職員室の奥でボサボサの白髪を軽く掻き毟りながら机に向かって熱心に物書きをしている初老の男性教師へと促された。

 事前にクラス全員に配られ、記入を済ませておいた入部届を手渡すと、男性教師は椅子に座ったまま訝しげな表情で話し始めた。
「君は……なんの種目をやりたいと思っているの?」
 入部届には希望する種目名までしっかりと記載してあったので、俺は不思議に思って聞き返した。
「走り高跳びですけど? 中学でもやってたんで、続けたいと思いまして」
「君……身長はいくつ?」
「160センチです」
「そう……。わかっていると思うが、君には向いてないよ。何か別の種目に変更しなさい。マラソンなんかはどうかね?」
 頭を掻きながら教師は続けて言った。
「とにかく……、走り高跳びを希望するなら君を陸上部に入部させるわけにはいかないな……。少し考えてきなさい」

 入部拒否に俺はかなり驚いた。でも、当然の反応だったのかも知れない。
 当時の俺の身体的特徴からすると、選ぶ競技を間違えていると言われても何も言い返せない。この高校は部活動に力を入れていると聞いていたし、陸上部の成績もかなり良いようだったから、ひょっとしたらそんな事になるんじゃないかなーなんて、ちょっと思っていた。軽くね。

 それにしてもこうもまさかこうもバッサリ切り捨てられるとは思っていなかった。不満と怒りが混在した表情を隠す事は出来なかったけれど、文句を言わずに引き下がった当時の自分を思い返すと不思議な気持ちになる。中学までの熱意はどこへやら。俺の高跳びに対する信念めいたものってのは心の芯に存在してたんじゃないのかね、と。大人の対応を身に付けたなんてのはあり得ないと自覚しているので、数日間、心に穴が空いたようにふわふわとした気分になったものだった。

 加えて俺にとっても陸上部顧問教師にとっても誤算だったのが、40日の夏期休暇を経た俺の身長が10センチほど伸びたことだろうか。だからと言って好成績が収められるようになったかと言われればそれはまた微妙なところなのだが、少なくともこの成長期がもう少しだけ早く訪れていたら、俺の高校生活はもうちょっと真面目なものになっていたのだろうと思う。熱心にひとつの事に打ち込む事は素晴らしいと思うし、その機会を逃したのは痛手だ。高跳びの他に執心できるものをまだ見つけられていない俺は、流れる日々を淡々と、大した起伏も無く過ごしていた。

 学校までの道のりに見える信号は3つ。いつも通り2つ目の信号に捕まり、赤く光る歩行者用信号を見つめていると、聞きなれた声が背後から届いた。

「お、陽介。おはゆーす」
「ゆるい挨拶だな。あ、池脇、今日も髪型が相当独創的な感じになってるぞ。前衛芸術か?」

 顔全体を使って眠気が表されている池脇を通学路で目にする機会は多い。高校からの付き合いだが、こいつが学校に到着までの残り5分を有効に使って「自称モテヘアー」まで持っていく頑張り具合は評価に値する。
 要するに起きるのが遅くて家で髪のセットが出来ないという事らしいのだが、ならギリギリまで頑張ってセットして学校までダッシュすれば良いんじゃないか。
「今日も俺のモテ計画がここから始まるわけだよ。5分後、お前は生まれ変わったモテヘアーを目撃する事になる!」
 ブレザーの内ポケットからヘアワックスを取り出し、男にしては少々長め、他校と比べて若干緩い我が校の校則をもってしても違反スレスレな髪を、手早く器用にセットし始める池脇を横目で眺めるのはなかなか面白いものだ。立てた髪を細かくねじっては離し、鏡も無いのにうまい事整えていく。
 が、しかし。髪型でモテるんだったら俺も頑張りたいが、いかんせんこいつの「自称モテヘアー」が校内で女生徒の心をガッチリ掴んだ瞬間を目撃した機会は皆無だ。
「毎朝ご苦労さん。そんでそのモテヘアー様は何で毎朝俺に声かけるんですか。この通学路にはたくさんの女性が歩いてるじゃないか」

 信号待ちをしているこの交差点の先から、通学生徒の数が増加する。こちらから歩いていくと、学校のすぐ先に駅も存在するので、男女年齢層問わず、様々な人で通りが埋め尽くされる。スーツ姿のサラリーマンの中に、同じくスーツを身に纏う妙齢の女性や、恐らく女子大生であろう私服姿が目に付く。
「男同士の友情も大切にするからな、俺は。ホラ、今日もきっと下駄箱にはラブレターが入ってたりするんだろうけど、そんで陽介の下駄箱には何も入ってないだろうけど、それでも俺達友達だからな! 友情は壊れないからな!」
「お前の下駄箱に入ってたのって、食べかけのアンパンぐらいしか見た事ないけどな。あとゼリー」
 あれは面白かった。
「思い出させるなよ……。アンパンはともかくゼリーは効いたぜ……。何で上履きの中に。つま先に伝わったあの言いようの無い感触……」

 眠気満載の顔から生気まで吸い取られ、完成前のモテヘアーを携えた池脇が、地面を見つめて動かなくなった。ゼリーは昨日の出来事で、大いに笑わせてもらったんだが、池脇も多分犯人が誰だかわかっているんだろう。信号が青に変わる前に、絶賛石化進行中の池脇をこっちの世界に呼び戻してやる事にする。
「秋川だろうな。きっと」
「だよな! 何なんだアイツは! あれか! 俺に惚れてるのか? そうか! ならしょうがない! お茶目なイタズラってやつか!」
 息を吹き返したかと思いきや、自説を自身満々に説きはじめた池脇の目には光が戻っていた。
「そうか、あれは愛情の裏返しってやつかー」
棒読みで返してやったのに、リアクションが無いまま池脇の暴走特急はレールを越えて突っ走っていく。

「きっとあれはラブレターを入れようとしたのにあまりの恥ずかしさに耐え切れなくなって、混乱してゼリーを入れちゃったんだな!」
 恥ずかしさに手紙を入れる事が叶わず、代わりにプラスチックのケースからゼリーを取り出して上履きの奥底に入れる奥ゆかしい女生徒、という新ジャンルが出来上がりつつあった。ねーよ。
 俺がツッコミを入れようとしたその時。

「私、好きな人の上履きにゼリーを入れる趣味は無いんだけどなー」

 またもや背後から響く声に俺と池脇は振り返る。
 肩より下に届く栗色の髪が、道路を横切る車が作り出した風にそよいでいる。両手を腰に当て、肩幅まで開いた両足の付け根近くで、短めのスカートが髪の流れと同方向に揺れていた。
 池脇と同じ中学出身である事もあり、俺とも話すようになった隣のクラスの委員長だ。
 クラス委員というと、今までの学校生活からは大人しそうなイメージを思い浮かべるが、秋川は全く逆のタイプだ。立ち振る舞いからも雰囲気からも活発さを感じさせられるし、水泳部に所属し、県大会で準優勝をしたとかで表彰されていた。種目は高飛び込みだという。すらりと伸びた肢体が煌びやかに水面に吸い込まれていく様は、さぞ絵になるだろう。

 それはそれとして、本日の秋川はいつも通り笑顔ではあるのだが、声に静かな怒りが含まれている気がするのは気のせいだろうか。

「お、秋川! お前なー、いくら俺の気を引きたいからって上履きゼリーは斬新過ぎるだろ?」
「あれは天誅! あんた、貸したノートどうしたのよ? 宿題写したらソッコーで返しなさいよ! 昨日返してくれなかったから大変だったんだからね?」
 ……あ。それは俺のせいだ。池脇から又借りして宿題を写させてもらって、返すのをすっかり忘れていた。ゼリー事件に大笑いしておいてなんだが、池脇にも秋川にも、ここは素直に謝っておくことにする。
「2人ともスマン。それ、俺だ。秋川のノート、俺が持ってる。池脇に借りたまますっかり忘れてた」
 頭を垂れておく。
「お前が犯人か! お前が忘れた頃に上履きにコーヒーゼリー入れてやるからな!もちろんクリームたっぷりかけてからだからな!」
「ちょっ、ゼリー入れたのは私でしょ? やるなら私に仕返ししなさいよ!」
「秋川は俺と付き合う事で許してやることにする。さあこのモテヘアーについて来い!」
 言うや否や、毛先をねじり回す池脇。
「ゴメン、それは流石に無理」
「ひでえ! ひでえよ! 流石にって何だよ! 陽介からも何か言ってやってくれよ! 喜んでコーヒー履くよ、とかさぁ!」

 池脇は一体どこに怒ってるんだ。両手で派手なジェスチャーをしてるが、その動きがどこに掛かっているのか全く読めない。
「とにかく今回のゼリー事件は俺が悪い。池脇、ゼリー奢るから許して。今度は左足に入れてやるから」
「いらねーよ!」
 池脇はこんなもんで良いので――気心が知れてるからって事だ、念のため――今度は秋川に向き直り、言葉を続ける。
「秋川も、俺のせいでごめんな。お詫びに学食おごるから……っていうのはどう?」
 ゼリーと学食じゃあ金額に幅があり過ぎると喚く池脇を無視しつつ秋川の返答を待っていると、ちょっと変わった提案を受けた。

「うーん……、じゃあさ、今日の放課後、ちょっと付き合ってよ。いい?」
 後ろ手に回した鞄をプラプラと動かしながら、秋川は下から覗き込むようにして俺を見上げている。
「把握した。こればっかりは俺が悪かったので何か奢らせてくれ」
「やったね! じゃあ放課後、教室に迎えに来てね! 待ってるから~」
 話し終える同時に信号が青に変わり、秋川は笑顔で横断歩道を走り抜けていった。

「……おい陽介。これってデートの誘いじゃないのか?」
「いや違うだろ。俺が一方的に搾取される約束を取り付けられたんだろ」
「それにしても秋川がねえ……。珍しいこともあったもんだな」
「まあとりあえず俺のせいで迷惑かけたしな。ってあれ? 今ノート渡せば良かった」
「あ、また信号変わる! 急げ陽介!」

 点滅し始めた青信号に急かされながら、ダッシュで横断歩道を渡りきると、あとは押しボタンの信号1つで学校にたどり着く。
 こうして始まったフツー極まりない1日の始まりは、考えてみるとほんのちょっとだけいつもと違っていたのかもしれない。でもそれにしたって、日常の延長線上に存在するのはやはり日常の筈で、
俺は、その当たり前がこれからも続いていくのだという根拠の無い確信を持ったまま、学校へと歩を進めた。
 

       

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