エピローグ 『とある母娘のいる、夕暮れ』

エピローグ


 ところどころ、補修した痕のある屋根だったり、急ごしらえで穴を塞いだ壁の家の前。
 もうこの家もヤバいかな……。
 そう思ったのは何回目だろうか。
 ふっ、と自嘲気味に鼻から抜ける笑いと共に、このくたびれた家の玄関を開ける。
 「ただいまー」
 返ってくる声がない。
 靴もないみたいだから、まだ娘は帰ってきていないらしい。
 じゃあ、急いで支度しなくっちゃ。
 今日は娘の誕生日である。
 私は、そこそこの無理をしつつ、豪華な食卓、というのをやってみている。
 「そこそこ……ねぇ」
 出来れば私だって、娘のためにドーンと大きなデコレーションケーキを買ったり、流行りのおもちゃをプレゼントしたりしたい。
 ただ、何事にも、限界、というものがあって、私の限界は、この、目の前の小さなロールケーキ、という現実。
 でも、今日はそれ以外にもかなり色々な料理を準備してある。
 私が腕に寄りをかけ、愛情を込めるべきはそこであるはずだ! そこであって欲しい……
 「ただいまー!」
 ドアを開ける音とともに、何かを期待しているような威勢のいい声。
 娘、未亜が帰ってきたようだ。
 「おかえりー」
 「あ!なに!もうすっごくいい匂いするよ!」
 帰ってきて、そのままの姿で台所まで飛んでくる未亜。
 それまで感じていた不安が、ガラガラと崩れていく。
 そのまま一緒に顔面の筋肉まで、崩れていってしまう私。
 「もう、カバン先におろしてきなさい、あと、うがいも」
 「えー!いいでしょ、さきにちょっと見せて!」
 朝の献立に引き続き、夜もスペシャルフルコースだ。
 「うわ、すごいねママ!! なんでもできるんだね!」
 「へへー、まかせなさい」
 まぁ、内容はさておき、品数は相当あるからかなり豪華に見えるだろう。
 特に夜は、未亜の好物を取りそろえている。
 愛する娘の誕生日のディナーとしては、完璧だ。
 だからだろうか、どこからか、くぐもった音が聞こえてくる……。

 グゥ~~……

 「あっ…」
 未亜の腹の虫のようだ。
 顔を赤くして、下を向いている。
 「お腹すいちゃった」
 「ママもよ。もう少しかかるから、先に…」
 「ねぇ、ママ?」
 「ん?」
 「……どうして、お腹ってなるの?」
 「それはね、未亜のお腹が元気な証拠なのよ。お腹の中の腸がね、頑張って頑張って、未亜が食べたものを押し出してるの。その時、食べたものの間に空気があると、ぐぅ~って音がでるの。」
 「へぇ~、そうなんだ。じゃあ、お腹が何かを伝えたくて、さけんでるわけじゃないんだね」
 「ふふ、なぁに、それ?」
 「なんとなく。今の、そんなふうに聞こえた気した」
 子供っておもしろい発想ね、と思いながらよそ見して話してたせいで、つい、……やってしまったのだ。
 「痛っ!」
 流しに置こうとした左手に、ピッ、と鋭い痛みが走った。
 反射的に手を退けてしまう。
 「どしたの?」
 「ん、なんか刺さった……」
 見てみると左の手のひらに、小さな小さな、卵の殻の欠片が一つ刺さっていて、少し血が出ていた。
 あれ、なんでこんなところに……? 晩は、たまご使ってないのに
 「あ!ママ!!」
 未亜の視線を追う。
 すると、その先には、な、流しに倒れた魚なんとか醤油の瓶が!!
 しかも、中身どぼどぼ垂れ流しちゃってる!!
 「やばっ!」
 慌てて取ったけど、もう中にはほとんど残っていなかった。
 「あちゃー……」
 卵の殻が刺さったとき、引いた肘で倒しちゃったんだ。
 うわぁ、高かったのに……。
 たまに、こういううっかりミスするんだよなぁ、私。
 ピッ、と卵の殻を取り、三角コーナーに捨てた。
 おのれー……卵め。
 ちゃんと朝ご飯の後、流し拭いといたのに、ほんと、なんであるのよっ!!
 おいしかったから許すけど。
 それより……替えもないしなぁ。
 しかたない、適当にスーパーで近そうなの買ってくるかっ。
 「未亜ー、ちょっと買い物いってこなきゃだから、待っててね」
 エプロンをほどきながら、エコバッグに手を伸ばす。
 「ええ!いいよ、ママ作っててよ、未亜行ってくるからっ!」
 「未亜は誕生日なんだから、待ってていいのよ。 ママ行ってくるからゆっくりしてても」
 「やだー!お手伝いしたいもん!未亜がいく!!」
 「……」
 「……」
 「ふふ、じゃあ……一緒にいこっか」
 「うん!」
 「先にカバン置いてきなさい」
 「はーい!!」
 狭い部屋の中をだーっ、と走っていく未亜。
 慌てん坊なところはきっと私に似たのね。
 玄関で靴を履く。
 ふと、私は、既に今日の仕事の疲れを忘れていた事に気付いた。
 いつからだろう、未亜の笑顔が私を笑顔にさせ、私の笑顔が未亜を笑顔にさせ、それがやがて、どちらともなくなっていった。
 その繰り返しだけで、仕事帰りの疲れなんて、もう感じさえしないのだ。
 私は未亜の事が、大好きだ。
 「好きで育てている」なんて、言葉にしたら悪く聞こえるかも知れないけど、一方で私はそれが、交わりあえない人と人が同じ時を共有する、一番単純な動機なのでは、と思える。
 愛しいから、何かしてあげたいと思う気持ち。
 愛情、って、そんなんでもいいのかな。
 「ママー!いこうぜー!!」
 「何ー!?ぜー、とかやめなさい」
 未亜を見ていると自分が間違っていない、と思える。
 私が想う分、未亜も私を想ってくれている。
 子供はそこのところ正直に返してくれるようで、まるで鏡を見ているように未亜の中に私が見える。
 そこに映る私は、笑顔なんだ。
 実際、生活はちょっと……かなり苦しい。
 でも……。
 「買い物~♪ おっかいっもの~♪ あ! そういえば今日ポイント5倍だよママ!」
 隣にいる、未亜の笑顔。
 「お、ラッキー! じゃ、いこっか」

 ガチャン。

 扉を開けると、夕暮れの、綺麗な綺麗な光が眩しく差し込んでくる。
 私は、繋いだ小さな手の中に、確かに、産まれてきた”未来”がある、……そんな気がするのだ。
sage