彼女は今日も、
まとめて読む
駅から徒歩15分の不動産屋の触れ込みは当然嘘で、僕の足でせいぜい20分。ワンルームの小さな部屋に僕らは向かっている。途中で寄ったコンビニで買ったいちごプリン(×2)の袋をぶらぶらと揺らしながら彼女は歩いている。僕の横を。遠いとか、車とか、何にも言わずに。時折吹く風に長い髪とカーディガンを揺らしながら歩いている。時折花を見ては笑って、犬を見ては驚いて、猫を見ては追いかけて。
「お邪魔しますー。本当に上がっていいのかな」
「あ、うん、でも本当に汚いし、そんなに気を使わなくていいよ」
築20年の汚いアパート。唯一気に入っているのは風呂とトイレが別なところと、壁が厚いところだけ。学生時代からの惰性でずっとここに暮らしている。
彼女は脱いだ靴をわざわざ玄関でしゃがみこんで端に寄せた。白くて、ヒールが低いサンダルだ。最近の言葉ではミュールというのかもしれない。華奢な作りで、小さなリボンが真ん中についている。
嫌われたい気持ちと嫌われたくない気持ち。その二つが混ざり合った結果がこれだ。空き缶などのゴミを捨て、掃除機をかけ、拭き掃除をした。何を期待したのか、布団を干したりもした。
でも僕はどう考えてもキモい。自他共に認めるキモさだ。それに彼女は早く気づくべきだと思った。いや、気づいてほしいと思った。後になって僕を大きく傷つけないために、今のうちに。
フィギュアに積もった埃をはらった。可動式のもののポージングを考えた。エロゲのパッケージをアイウエオ順に並べなおした。
そして今彼女は僕の部屋で、無言でそれを眺めている。
僕はそれをただ見つめている。罵倒の言葉、負の感情を待っている。
「これ動かせるっぽいね。触っていい?」
僕の期待はまず裏切られた。彼女は目を爛々と輝かせこっちを見た。
フィギュア・・・・女の子にはこれがリカちゃん人形と同等に見えるのかもしれない。その発想はなかった。
僕はこの間幼女を誘拐して逮捕された男の部屋の写真を見せたかった。あの犯人の部屋にたくさんあった美少女フィギュア。そしてそれを問題視するワイドショーの白髪のコメンテーター。決して僕の中でフィギュアと犯罪が結びついているわけではない。しかしそれでも、これはあまりに無用心ではないのか、と。君はニュースを見ないのか、と。
彼女は無言の僕を、了承したと受け取ったようで、フィギュアに手を伸ばした。
「この笑ってない子だけ椅子に座らせてるんだねぇ」
「駄目だ!」
彼女の手がびくつき、止まる。
「あ。ごめ…」
「…それは完成された構図だから、触っちゃ駄目だ!団長の手の位置、みくるの見えそうで見えない座り方、長門の目線。全部完成されてるんだよ!」
言っている事がめちゃくちゃだ。昨日の長門は団長に向かって手を広げるポーズをしていた。彼女がポーズを今日変えたって、また後で直せばいいだけの話だ。
でも僕はキモヲタであることを伝えたかった。何とか彼女の目を覚まさせたかった。
君は犯罪者予備軍のどうしようもない男を彼氏と言い張り、家にまで上がりこんでいる。これはもう普通ではない。今から僕が君をねじ伏せて猿轡をかませ、手を後ろで縛ったらどうするんだ。
早く、気づくんだ。
「なるほど、ねぇ。たしかに雰囲気が伝わってくるね」
駄目だった。
一瞬僕の大きな声で驚いただけで、表情は崩れていなかった。爛々とした目のまま、色々な角度からフィギュアを見ている。どうやら足りないらしい。これ位は最近の女の子にとって許容範囲なのかもしれない。たまたま昔の恋人の頭がおかしかっただけかもしれない。
「ほんっとうにきもちわるいんだけど」
頭の中で何度も鳴り響く。
これが、最近の女の子の許容範囲?
そんなの嘘だ。
あの日、次の日、会社中の女の子が僕を見て笑ってたじゃないか。
彼女は多分悪い夢を見ている。夢から覚めた彼女はきっと、あの時の恋人と同じ顔をする。
引きつった口元と蔑んだ目で、笑う。
「ねぇねぇ。奥田くん」
眺めるのに飽きた彼女が僕を見る。まっすぐとした目で。
「うん」
僕の声はかすれていた。やっとの事で声を絞り出した。
「奥田くんは、この中でどの子が好きなの」
「僕は…長門、その椅子に座っている子が好きなんだ」
「これかあ、ナガトっていうのか。うーん、この髪が長い子なら近いかもって思ったんだけどなあ」
突然彼女は思いついたように床においていた白い、変なぐねぐねした模様のついたブランド物と思わしきカバンから文庫本を取り出して、僕のパソコンデスクの椅子を引っ張り出して座った。
「…どう?」
「ど、どうって」
髪の毛をかきあげて後ろにやり、文庫本を適当に開いて見つめているうつくしい女の子。それ以外のなんと表現のしかたもない。だからといってそれを直接言っていいものかどうか悩むところだ。
「だめだね、私じゃ。髪の色も長さも駄目だね」
無表情を努めてポーズをとっていた彼女が少しだけ眉をひそめる。
「わたし、髪の毛切ったほうがいい?長いの嫌かな」
彼女が言葉を続けた。
本当に泣きたくなった。僕は泣きそうな顔をしていたかもしれない。
「大丈夫だよ。僕が…」
本棚の一番上で微笑む、緑色の足首まで伸びた髪型のフィギュアを指差して続けた。
「僕が一番好きなのは、鶴屋さんだから」
「そうかあ」
彼女は頬を膨らませ、椅子から立ち上がった。
「奥田くんの一番になれるよう頑張る。負けるのは悔しいなあ」
本棚の上の鶴屋さんを今度は観察し始める彼女を、僕はただ見ていることしかできなかった。
フィギュアを見る彼女を見る僕。
鶴屋さんは底なしの笑顔で、彼女は神妙な顔で、僕は泣きそうな顔をしている。
たくさんの中で、彼女の表情だけくるくると変わっていた。