Neetel Inside 文芸新都
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三題噺コンテスト会場
No.22/“それ・あれ・ここ”の理解/俺

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 夏の香りが鼻を刺激する。少し温いと感じる風が、縁側で晩酌をする私の頬を撫ぜる。その風に揺られ、風鈴が雅な音をこの平屋全体へと染み渡らせている。……ああ、夏だ。
 遠くの空をさまざまな色光で飾っている花火を横目に、私は熱燗の入ったお猪口を空にする。普段小難しいことに頭を使っているが、なあに、盆休みともなればこうした風情なくつろぎかたもするものだ。……そうだな、彼女がいつものように顔を出せば、この平穏も一瞬にして崩れ、遥かなる三千世界を思わせる思考の堂々巡りが始まるのだろう。だが、それはありえない。彼女ならば今頃、あの花火の真下で催されている祭りで、男の一人や二人を引っ掛けていることだろう。ああ、違いないとも。……またもお猪口を空にする。
 久々のゆったりとした休日。このまま縁側で風邪を引く可能性を考慮せずに眠ってしまうのも悪くはない。そんな自堕落な考えに身を浸そうとしていた時、不意に広間のほうで古めかしい電話特有の呼び出し音が鳴った。こんな時間に誰なんだと、少々の苛立ちを隠しきれずに我が家伝統の黒電話、その受話器を手に取れば、なんてことはない、スピーカーの向こうには彼女がいた。――おやおや君だったのかね、なんともこんないい夜に君の声を聞けるだなんて、シナプスたちが記憶を掘り起こそうと興奮しているよ、と。我ながら色気もクソもない言葉で出迎えれば、返事はない。その代わり、数瞬の間を置いて何やら激しい息遣いが耳を刺激した。さらに数秒、私は理解に苦しむ。可能性としては……夏の祭りだ、彼女も一人の女、悪質な男に捕まれば青姦の一つや二つやってしまうだろう。さらに男が特殊な性癖を持っていれば、行為に及びながら知人への電話を強要することくらいやってのけるだろう。いやはや、なんとも若い。少々妬ける気持ちを無視して、そう結論付ける。
 私が一人で激しい息遣いを聞きながら納得していると、なにやらがさごそと音がする。どうにも激しい、私としてはそろそろ睡魔との逢引と洒落込みたいのだが、ああ、彼女の声がする。――先生、どうですか? と、彼女は一言。どうにもこうにも、私としては色々と弁えているつもりであり、“それ”や“あれ”についてああだこうだ言う気は毛頭無い。そういったことを伝えると、またもや沈黙。何か間違ったことを言っただろうかと、小首を傾げて何十秒。その内エクトプラズムまで吐き出しそうな重く深い溜め息が、スピーカーの奥から漏れ出てきた。――何を勘違いしておられるのかわかりませんが、私はこの犬を先生のお宅に連れて行ってもいいですかと聞いたのですよ? もしかして、酔っていらっしゃるのですか? 捲し立てる彼女に制止の言葉を投げかけて、私は少々混乱気味の頭を左右に振る。なるほど、確かに電話の第一声がそんなことを言っていたような気がする。私は酔っているのか。――君の言うとおり、私は酔っているようだよ。それでもいいのならば、今からでも来なさい、と。その言葉に彼女は満足したのか、今から行きますと一言残し、通話を終了した。瞬時に耳を刺激するのは、祭りの締めである30号玉が破裂霧散する音。……祭りが終わるようだ。急に焦燥感にも似た寂しさに襲われた私は、いそいそと先程まで居た縁側まで戻り、すっかり温くなってしまった熱燗を徳利ごと飲み干す。こんなにも素敵な夜なのだ、素面でいるほうが勿体無いだろうと。――そんなことを考えている内に、私の頭は睡魔とベッドインしたようだった。
 気付けば私は気持ち涼しくなった夜風に当たりながら、何やら暖かいものを膝に乗せていた。どうやら私は寝ていたようで、隣で熱燗を呷っている彼女に疑問すら沸かず、呆けながら深淵色の空を見上げる。――あら、起きたんですか先生。まさか本当に酔っていただなんて、珍しいこともあるもんですね。皮肉好きな彼女の言葉に曖昧な返事を返しながら、彼女の傍に置いてある熱燗を徳利ごと奪う。……先生、さすがに怒りますよ、と彼女が既に怒りの眼差しを向けながら言う。さすがの私もそれには反応せざるを得なく、この香り、味、舌触り、間違いなく私が今日という日に飲んでいた物だ、と、言い返してやる。だが、彼女は“こんなにも素敵な祭りの夜に熱燗一口分けもしないほど小さいお方だったんですか”なんてことを視線を逸らしつつ言うのだから、膝の上の暖かいものをどけて立ち上がろうとし――気付く。子犬だ。
「どうでしょう、先生。一人身で寂しいでしょうし、ここは子犬と熱燗を交換とするのは」
「だがね、私は甲斐性無しの文無しで、暇無しときた。子犬を世話することなんてとてもじゃないが出来ないだろう。だが、君が毎日来てくれるのならば出来そうな気がする」
「あら、プロポーズですか?」
「そうともとれる」
 頬を染める彼女を見て、私のそれやあれやここは今こそ彼女になったのだと理解に至った。

       

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