Neetel Inside ニートノベル
表紙

@ccess to you.
先輩は、先輩のままで。(前)

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「お、お疲れ様です、咲良さくらさん」
 おそるおそるカウンター越しに声をかける。
 先輩はいつものように背筋を伸ばした美しい姿勢でキー入力していた作業の手を止めて、貸借用端末の画面から目線だけをちらりと僕に移した。
 ちらり。言葉にすれば柔らかそうで優しげな音のさわり。しかしながらその瞳に何やら殺伐めいた色を映している。
 嫌気か怒気か、はたまた殺気か。
 言うなれば今の僕は何かに睨まれた何とやらな状況。ただ、間違ってもそのまなざしは本学の生徒たちや教職員各位や一般の貸借客かたがたが入館してすぐに通過するこのカウンターという場所において、お披露目して良い類のものとは思えませんよ、とお伝えしたいところだ。
 今はとても言えないけれど。
「遅い、ばか京太きょうた
 5限の講義が終わって大急ぎでバイト先でもある我が大学の図書館に向かっていた最中、目下の危機的状況の度合いをある程度予想立ててはいたのだが、どうもかなりかんばしくない方へ下振れている様子。複数度の「ばか」をおかわりすると、先輩は作業を再開してしまった。
 仕草や声色に情けや容赦の香りはまるで感じられない。
 冷徹にして無味。
 図書館と言う場所に古来より漂う気持ちの良い静寂……とは、いささか異質の空虚な沈黙が不意に訪れて、じわじわと喉奥の水分を奪っていく。
 とりあえず、真摯にお詫び申し上げよう。
「咲良さん」
「……」
「すみません。出勤の時間を過ぎてしまったことは謝ります。ですが本件の詳細に関しまして、どうか僕に清く潔い弁明をさせて頂けはしないでしょうか」
「その回りくどい物言いは何よ。弁明? どうせただの言い訳でしょ」
「神様や仏様に誓って異なります」
「いいから早く準備してきなさい。夕方は忙しいって京太だって知ってるでしょ。仕事はもうとっくに始まってる」
 毛先を少し内に巻いたセミロングの黒髪をくるくる弄びながらやりとりする口調に変化はないが、先輩の奇麗な二重の瞳の間には深い溝がひとつ、またひとつと生じてきている。察するまでもなく機嫌の良い状態とは言えない。急ぎ真実を説いて、どんよりとした僕への印象を青空高く晴れやかなものに修正しなくてはならない。
「すぐ準備します。戻ったらお話を」
「はいはいわかったから」
「そういえば、今日コンタクトなんですね。いつもはメガネなのに」
「う、うるさい。お客さん来ちゃうから早く行きなさいってば……遅いのよ、ばか」
「すみません。急ぎます」
 そっぽを向かれてしっしっとあっち行けのジェスチャーをされながらではあるが、何とか重要事項説明の許可をねじ込んだ僕は先輩の横を抜けてカウンター裏の控室へ向かった。急いでリュックをロッカーにしまい、さっと身なりを整える。
「よし、今日が勝負だぞ」 
 言い聞かせるように声に出し、頬を両手でたたいて気合を入れる。
 僕は今日をとても楽しみにしていた。先輩と一緒に過ごすこの時間がいまの僕の日常のなかで最も心躍るからだ。何でもいいから先輩と話がしたい。趣味のこととか勉強のこと。今日一日のささいな喜怒哀楽をこの空間ごと共有できると思うと、ただそれだけでワクワクしてしまう。
 スタッフタグを胸に掛けたら回れ右。
 名作アニメ映画の主人公にも肩を並べる体感秒数で支度を終わらせて先輩の隣のイスにたどり着き、僕は一度深呼吸をしてから静かに腰を下ろした。
 夕方の最も混雑する時間帯。
 カウンター前の通路は目的を果たして退館しようとする人、課題やレポート作成のためにパソコンブースへ向かおうとする人、一般の利用者などが行き交っている。ただ幸いにして貸し出しや返却に来ているお客さんはおらず、今のところは周囲を気に掛けつつ先輩との会話を許される環境にある。
 先輩は入力作業を終えたようで、ブックカバーの掛かった持参の小説を読んでいた。
「読みながら聞いてください。あの、講義自体は時間通りに終わったんですけど、教室を出ようとしたら突然教授に呼び止められてですね、板書を消すように頼まれてしまってですね」
「嘘。板書消しなんて大して時間のかかるものじゃないじゃない」
 薄紅色をまとった先輩の唇が発する調子は丁寧だが、相変わらず冷ややかだ。
「あの、それは教授が2号大講義室の黒板全体に難しい数式を展開してですね、しかも筆圧強くチョークをはべらせていたものですから」
「ふうん、筆圧。筆圧ねえ」
 そう言うと先輩は読んでいたページに栞を挟んで静かに小説を閉じた。オフィスチェアを回して僕の方に体を向けてくる。
「本当ね」
「本当です」
 じっと見つめられて、思わず胸が高鳴る。でも目を逸らしては駄目だ。真実を自分で否定することになる。
 僕は先輩の目を見続けた。断じて嘘はない。決して少なくない講義生徒の中からわざわざこの僕を選んだあの老教授にこそ、遅刻の責任がある。
「京太の言い分はわかったわ。一応納得はしてあげる」
 しばらく真意を確かめるように見つめられていたが、何とか理解を得られたようで、先輩は表情を和らげた。
「でも普通、遅れそうなら電話一本掛けるくらいはするでしょ」
「全速力で学内を走りながら電話するのはまだ今の僕には出来ない芸当でした」
「ばーか」
 あきれたように先輩が笑う。やっと一安心。
「返却分の本、戻してきます」
「うん」
 ブックカートには既に20冊以上の返却書籍が入っていた。僕が来るまでに最初のピークが来ていたようだ。先輩一人で捌くのはいささか難儀だっただろう。本棚の側面にラベリングされた番号に沿って書籍を戻しながら遠巻きにカウンターの方を見やると、また一人貸出のお客さんが来ており、先輩がきびきびとした動きで対応していた。
 本当に素敵な、僕より2つ年上の、もうすぐ大学を卒業してしまう先輩。
 はっきり自覚したのはいつだっただろう。
 自分でも気がつかないうちに、ごく自然に。
 咲良先輩に、恋をしている。
 大学に入学して寮生活を始めた頃、たまたま階の案内掲示板に貼られたスタッフ募集のポスターを目にしたことがきっかけで、面接に受かってこの学生バイトをすることとなった。初日にコンビを組んだのが咲良先輩で、今でもその事を覚えている。
 今日みたいにきれいな姿勢で腰掛けて文庫本を読んでいた横顔を。
 時折やってくる利用者にしっかりと接客しながら、右も左もわからない僕に本の貸し方や返却の対応を実践を介して教えてくれた事を。
 男子高で部活に明け暮れて恋愛事に全く縁の無い生活を過ごしてきた自分にとって、先輩は初めて接する『大人の女性』だった。1メートル程しかないイス同士の距離感に、最初はただただ緊張していた。
 でも、先輩とシフトが重なるたびに色々な共通の話題が見つかってきて、少しずつ自然に話をすることが出来るようになった。同じロックバンドが好きだということがわかって、お互いに持っていないアルバムを交換したり、好きな曲について意見を言い合ったり……先輩と一緒の日はあっという間に閉館時間がきてしまう。
 バイトの間だけじゃ物足りない。もっと一緒に過ごしたい。
 いつしかそんな気持ちになっていた。

       

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