Neetel Inside 文芸新都
表紙

あきらめろ
右手にはムスコを、左手にはキミを

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右利きの男はこの世にどれだけ存在するのだろうか。
いや、この場合右手でもいいし左手でもいい。
とにかく、多くの男の手はある瞬間においてのみ、この世で最も罪深く
そして汚らわしい物体に成り下がるのだ。


「………うっ……」
小さい小さい声にならない程の呻き声をあげて俺は一人で果てた。
ティッシュにまとわりついた白濁色の「それ」を目に入れないようにして
俺はティッシュを丸めるとゴミ箱に乱暴に投げ捨てた。

丸められたティッシュは不幸なことにゴミ箱に入らなかった。
ポトっとゴミ箱の脇に丸められたティッシュがゴミ箱の脇に落ちた。
自責の念がぐっと胸に込み上げてきた。


僕は精子を三度殺してしまったようだ。
一度目は激しく上下にしごいたムスコから無意味に吐き出して殺した。
二度目はティッシュに包んで、ぎゅうぎゅうに締め付けて殺した。
三度目はゴミ箱から転落させて殺した。


うん、今日も右手は使えないな。
俺はぼんやりとそんな事を考えながら、洗面所で入念に手を洗っていた。

AM10:16
自室のデジタル時計が今の時刻を表示した。

モコとの待ち合わせ時間まで後44分。
待ち合わせのカフェまで俺の家から歩いて15分くらい。
まだまだ十分に間に合う。だけど、モコは人を待つのがすごく嫌いだから、もう家を出なくては。

ハーフコートを羽織り俺は足早に家を後にした。


通勤ラッシュも終わり、駅前のカフェの客席は人がまばらだった。
こんな時間帯のブレンドの味は格別だ。
他愛もない客の雑談がまったくなくて、店内のBGMだけが控えめに耳をくすぐる。
本来、カフェはこうあるべきだ。
静かにそんな持論を頭の中で演説しながら俺は腕時計に目を移した。

AM11:03
そろそろ、モコはやってくるかな。きっと走って。
頬っぺたをほんのりと赤らめて、少しだけ息を乱して。
そして、申し訳なさそうな笑顔を浮かべて一言。「ごめんね」

AM11:11
暖房の効いたカフェの自動ドアから外の冷気が音もなく侵入してきた。モコが来た。
そして、開口一番モコは俺に向かって
「ごめんね」
やっぱりね。俺は笑顔を浮かべて
「大丈夫だよ。……それより……」
「えっ?なに?」
俺は笑いながら、モコの頭を指さした。


――左手で――


「髪。髪。…やばいよ…」
「えっ?えっ?」
モコはキョロキョロとしながら頭に手をやってどうにか自分のヘアスタイルの有様を確認する。
そして気が付く。
「ト、トイレ行ってくるね」
「ゆっくり、ブリブリしておいで~」
もーっと膨れっ面をしてモコはトイレに駆け込んでいった。

人もまばらな静かな店内が一気に明るくなったような気がした。
俺の一日がようやく始まるような気がした。

モコがトイレに行っている間に俺はモコが大好きなロイヤルミルクティーを頼んでおいた。
明るい笑顔で店員はティーカップを俺に差し出した。それを俺は受け取る。


――左手で――


「どう?」
「うん。うん。オッケー、オッケー」
トイレから帰ってきたモコは俺の対面席に座って
少しだけ、はにかんでからゆっくりと自分の目の前に置かれたティーカップを手に取り
ミルクティーを口に含んだ。
「今日はどこに行こうか?」
「そだね~」
ティーカップを両手で持って、モコはおちょぼ口でそう返事をした。
モコが考えている時はいつもこんな感じになる。癖というやつだ。
そして、お決まりのこのセリフ。
「歩きながら、考えようよ」
どこに行くのか。その目的も曖昧なままに、ただ街を散策する。
俺とモコの間ではこれがデートの楽しみ方の一つでもある。

「よし。じゃあ、とりあえず出るか」
「うん。じゃあ、ミルクティー代出すね。あたしの分」
そう言ってモコは、サードファクトリーのハンドバッグからコーチの財布を取り出す。
「あっ」
モコはジャラジャラと小銭をぶちまけてしまったようだ。
俺は足元に転がった小銭を拾ってやった。


――左手で――


そして、拾った10円玉と5円玉をモコに渡してやった。


――左手で――


「ありがとうございました」
カフェの店員の元気な挨拶に見送られながら俺とモコはカフェを出た。
街の風は冷たく、手がかじかみそうな勢いだ。

「うわぁ、さみーなぁー」
「うん、うん、さむい」
俺の右側を歩いていたモコが細い体躯を縮こまらせながら答える。
そして冷えた自分の左手を執拗に俺のジーンズのポケット付近にぶつけてくるのだ。
別に俺はそこまで鈍感じゃない。モコは暖かい俺の手を求めているのだ。
俺は素早くモコの右手に回り、優しくモコの手を握ってあげた。


――左手で――


「あったか~い」
とりあえず、モコは満足してくれたようだ。でもしばらくして。5分後くらいかな。

「あなた、今日、朝、来る前に一回してきたでしょう?」
「ん?なんのことかな?」
わかってる。わかってるって。言いたいことは。
「ごめん。モコ…」
「もう……」
ため息交じりにモコは下を向いてしまった。
そして


――右手で――


モコは俺の頭を軽く小突いた。


「今日のお昼ご飯は、あなたのおごりです!」
「はい、はい、わかりましたよ~」
別に俺は昼飯をおごる事に不満はない。
そりゃ、どう考えたって悪いのは俺なのだから。

俺は、それを噛み締めるがごとく、ハーフコートのポケットに突っ込まれた右手を
人知れず、爪が食い込むくらいにギュギュッと握りしめた。

       

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