Neetel Inside ニートノベル
表紙

自分流自己満足短編集
古い漫画から

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とにかく、



今の私には耐えねばならない。






ここ二ヶ月ずっとある現象が私を悩ませている。

夫は今、会社の大きなプロジェクト立ち上げで忙しい。
娘の裕子は某名門高校推薦入試中。残すは三日後の親子面接のみ。
こんな大切な時期に波紋をたてる訳にはいかないのだ。
私は裕子の受験と夫の仕事のためにもとにかく耐えなければならない。


そんな私が抱えている奇妙な現象。それは……


――それは全ての顔が、同じ顔に見えるのだ。
ここのところ二カ月ずっと。

家で飼っている猫のポロも、同じく家で飼っている金魚もだ。
テレビに映るタレントも、全部同じ男の顔なのだ。

その男の顔の特徴を挙げるのならば40代過ぎで、髪の毛の生え際は後退し、適度に伸びた髭があるという具合だ。

しかし私にはこの男には全く見覚えがない
いったい誰なのか?
記憶を辿って深く思考してみてもさっぱりわからない。
この男はいったい誰?


痛っ……
この事を考えると決まってひどい頭痛が起きる。

二か月前私はひき逃げにあったらしい。
だけど事故の事は全然覚えていない。
この奇妙な頭痛もちょうど二か月前からだ。

きっと顔の男と何か関係があるはずだわ。
でも、何も思い出せない。

いいのよ……
とにかくあと三日。裕子の面接が済むまでガマンよ。
今は夫にも裕子にも余計な心配はかけられないのだから。

そう、あと三日……
面接まで……。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *  





「ダメ! ポロ! テーブルの上に乗るな!」


裕子が朝食の並ぶテーブルの上にあがる猫のポロを手で追い払いながら言う。


「ったくウザイよ。あっちに行けポロ!」


ポロは観念したかのように裕子の言葉通りに「にゃあ」と一声鳴きながらフローリングの床へと音をたてて降りた。


「裕子、そんな言葉は面接の時にでるぞ」

「心配しない。あたしそんな迂闊じゃないし」

「そんなのはすぐにバレるぞ。面接官も馬鹿じゃないんだ。それに近頃はテストより面接の方が重要らしいぞ?」


私は野菜をフライパンで炒めた物を大皿に移し、それをテーブルへと運びながら裕子と夫の何気ない会話を聞いていた。
普通の日常。とまでは行かないが顔がみな中年男性の顔という以外いたって普通の朝食の時間だ。


「ゲッ、マジっすか!?」

「ほら、またそんな言葉」


裕子はへらへら笑いながら「ごめんごめん」と謝るのを聞きながら、私はいつもの椅子に座り自分の箸を取った。
さきほど作った野菜炒めをパクつきながらいると今度は裕子が私たちに対して問う。


「あたしのことよりパパやママはちゃんと面接にこれるんでしょうねっ?」


夫は「なんだそんなこと」と言葉を続ける。


「そんなのお前が心配しなくても大丈夫だ。父さんなら半年前からあけてあるぞ」

「お、お母さんもその日はパート休んだから大丈夫よ」

「ほら、父さんと母さんより問題はお前の言葉遣いだぞ?」

「だから大丈夫っていってるんじゃんー」


裕子はバツが悪そうに目線をテレビに移す。



娘や夫、ペットの顔がこの中年の男でなければ何一つ変わりない、どこにでもある様な日常だ。
そう。皆の顔が見知らぬ男ではなければ……。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



「あなた、気をつけてね」

「ああ、行ってくるよ」


朝食を食べ終わり身支度を済ませた夫を玄関まで見送る。
しかし夫はふとこちらに振り返った。


「和美、大丈夫か? なんか顔色悪いぞ?」

「え、ええ、平気よ、ちょっと頭痛がするだけだから」


すると裕子がポロを抱き上げながらこちらに歩み寄って来る。


「ママはまだ、轢き逃げされた時に打った頭が痛むんでしょ?」


私は曖昧に「ええ、まあね。」返した。何度も言うように余計な心配をかける訳にはいかない。


「……分った。帰りに薬局とかで頭痛止めの薬でも買ってくるから安静にしてろよ?」

「あなた、私の事だったら別に大丈夫だから……」


夫は顎に手を当てて何か考えている様子。裕子の事をちらと見た気もした。


「あ、あなた?」

「ああ、いやなんでもない。とにかく頭痛が酷いんだったら今日は寝てろよ?」

「それはさっき言ったでしょ。それよりあなた、何時までもここにいたら電車乗り遅れるわよ?」


私は玄関の壁に吊られている時計を指差す。


「そうだな。それじゃ行ってくるよ」

「いってらっしゃい。」


私は夫を見送った。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




午後三時。
夕飯の材料が足りなかったので私は近所のスーパーへ足を運ぶ。

叩き売りされる魚。
菓子のパッケージに印刷されたキャラクター。
雑誌の表紙の芸能人や歌手。
そして多くの客や定員。

すべてが同じ顔。あの中年の男の顔。
流石に少しは慣れたがこれが人ごみや行列などになるとやはり不気味なものだった。



痛む頭を制して私は店員へ1000円札を2枚渡す。


ここまでの二か月、着ている服や声、態度などで大体誰なのかを推測してやってこれた。
たまに間違えて「どうかしたの?」と聞かれた時もあったが、そこは何時ものように曖昧に誤魔化してきたのだ。
取りあえず今のままなら何とかなる。
面接まであと三日。あと三日だ。
それが済んだら病院へ行こう。
きっとそれで大丈夫だ。



「アラ、今井さんじゃない。」


買い物が済んで帰宅途中、レジ袋をぶら下げて歩いていると突然後ろから声を掛けられ、私はハッとする。


「今井さんもこちらのスーパーに?車はどうされたの?」

此方の事情もお構いなしに話しかけてくる中年の男の顔の人物。
困るのはこういう時だ。さて誰だっけ。


「今ちょっと、車検に出しているんですよ」


えーと……――


「あら、そうなの」


――……そうだ。


「やっぱり車があると色々と便利よね。私も免許取ろうかしらー」


この声は近所に住んでいる川辺さんだ。ちょっと変わっているって評判の人。
いつも同じエプロンを着けていて買物の時まで着けている。
最近ご主人と上手く行ってないらしくケンカの声がうちの家までまる聞こえていた。


「そんなんですか、オホホホホ……」

「ええ、そうなんですってー」

川辺さんと適当な世間話をしているその時だった。


「あら……?」


不意に私は腰に振動を感じた。
そういえばズボンのポケットに携帯電話を入れておいたんだったっけ。


「すいません。ちょっと失礼……」

「はいどうぞ。お構いなく」


川辺さんに一言詫びながら携帯電話を取り出す。
どうやらきていたのは電話ではなくメールのようだ。


――本文を見て私はぎょっとした。

「 今お前を見ている。
  もう逃がさない、
  かならず殺す!  」


送り主は身に覚えのないメールアドレスだ。


「何……これ……?」


辺りを見渡してもそれらしい人物は見当たらず歩道を淡々と歩いて行く人ばかり。


「どうされたの? 迷惑メール?」


いやだわ…………


「最近多くて困るわよねェ」


…………。


「新しい機種でもすぐにくるのよね」

「どうされたの? 真っ青よ? 顔色」

「えっ? あら、そうかしら。ホホホホ」

「具合が悪いのならもうお帰りになさって結構ですよ? 私の相手も疲れるでしょうに」

「い、いやそんな事ないんですが…………えーと…………、じゃあ、お言葉に甘えて私はこれで」

「はい、お体大事になさってくださいねェ」

「ご心配どうもです」


軽く川辺さんに向かって礼をして私はその場を後にした。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




ため息をつきながら自宅の帰宅路をただ歩く。
『顔』の事もそうだが、先ほど送られてきたメールも気がかりだ。

私がここまで恨まれる事をした?
いや、していない。

ここまでされる事を私はした覚えがまずない。

……そうだ。
多分無差別に送られたチェーンメールみたいな奴だろう。

きっとそうだ…………。

そう自分に言い聞かせながらも、気付いたらもう家の前。
玄関門を開けて郵便ポストの中を覗いても何もない。


「あら?」 


ふと玄関のドアノブを見ると、『何か』が掛っている。
黒いビニール袋に入れられた『何か』


「何かしら……こんな所に……?」


ビニール袋の下の部分には液体状の物が入っているらしく少し膨らんでいる。
私は用心深くビニール袋をドアノブから外し中身を恐る恐る確認した。

「ヒッ!?」

まず目に入ったのは小さい中年の男性の顔。
しかしただのそれではなく、その顔は血に染まって到る所が刃物かなにかで切り刻んだ様に生々しく傷が付いていた。
どうやら何かの動物らしく前後の足はずたずたにされ、腹部からも内蔵などをひっぺがえされていた。
私はこの動物に見覚えがあった。
しかしそれはなるべく考えたくない最悪の案。
まさか……

「……ま、まさか……これ、ポロ?……そんな……!」

震える足。
周りに広がる嫌な匂い。
メールの内容が私の頭をぐるぐる周る。


「メールといい、これといい……一体だれがこんなことを……」


目の前が真っ白になった途端に背後から微かな人影。
中年の男性の顔がそこにはあった。


一体誰なのかも定めず私は無我夢中に鞄で『ソイツ』を殴る。
正直効いているのか分らないが私は少しやけになっていて、自分でも何をしているのか全然わからなかったが、私は鞄で力一杯振るった。


「い、イヤあああーッ!!! もう、イヤああ!!」


ただ持っていた少し小さめの鞄でがんがんと殴ってやったのだ。
その鞄は『ソイツ』の顔にクリーンヒットし、玄関の前で呻く。


「なにすんのよッ! ママ!?」


追い出すようにもう一発と思った矢先にその行動を制する一言。

…………え?


「ゆ、裕子? 裕子なの……?」

「ぁあ、あ、当たり前でしょ!? なんなのよ急に! 私って見て分からなかったの!?」


裕子は軽く痣になった右目の下を擦りながらヒステリックに言った。
私は実の娘を殴ったの?
殴った? 私が?


「ああ、……あぁ」

「ちょっとママ!?どうしたの!?」

「…………ご」


私の体は震えていた。


「…………ごめんなさい」




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




「轢き逃げ?」


ポロの件で通報して訪れてきた警察に私は迫った。
来るなり、「あー。ひどいなこれは。」とか言いながら黒いビニール袋は同行していたもう一人の警察官がパトカーに積んでいった。
そしてもう一人の話を聞いてくれていた警察官に私は自分の謎を問いてみた。

「そう、轢き逃げです」

「ほう……それでどういうことですか? 轢き逃げって」

「で、ですから、二カ月前に私は轢き逃げにあったんです。それで犯人が私の口を封じようと……。それで」


警察官は「待っていて下さい」と言い残しパトカーに付いている無線で何らかの遣り取りをした後、先ほどポロの死骸を積んだもう一人の警察官にバツが悪そうな顔を残しながらなまこちらへと戻ってきた。


「ど、どうでしたか?」

「いや、妙ですね。うちの担当するこの辺の地域ではここ一年轢き逃げは疎か、そんな交通事故は一切起きていませんよ」

「そんな……夫が確かに届けをだしたって……」

「そんなこと言ってもね奥さん……届け出は出てないって――」

リビングで泣いていたはずの裕子の姿がそこにあった。
目を大きく腫らして今だ流れる涙を拭い、


「そんなこと……そんなことどうでもいいわよッ!! それよりも早くポロを殺した犯人を捕まえてよ!!」


――と警察官に向かって怒鳴った。
警察官はというと「やれやれ」といった表情で、もう一人の警察官と顔を合わせた。


「まぁ、ともかくこの辺の地域のパトロール等をまず増やしますよ。轢き逃げの件は交通課に確認をとっておきますから、また何かあったら連絡してください」

「なっ……、それだけ?」

「なんです?」

「それだけなんですか!? 猫が殺されたって言うことは、犯人は家に入ってきたんですよ!? もっとちゃんと調べておくとか――」

「奥さん、まずは落ち着いて下さいよ。奥さんは犯人の顔を見たんですか?」

「え……」


顔……?


「とにかくもう少し様子を見ないことには」


顔。


「それでは、また日をあらためて」


警察官二人は玄関から出て行った。

顔……顔…………顔……
顔……?


「痛っ……!」


だめ……深く考えると頭が…………
いったい何?

なんなの…………?



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




私は今日あったことを、ありのまま夫に話した。

『殺す』と記されたメールの事。
ポロが殺された事。
そして、事故について届が出されていなかった事。


「ねぇ、どういうことなの!? 私は轢き逃げにあったんじゃないのッ!?」


裕子は頬杖を付きテレビの方を向き、夫はただ煙草を吸っていた。

「お願い。ちゃんと説明して」

「…………」


夫は口を開こうとはしない。
目をつむり煙草を吸ったまま動じなかった。


「一体二ヶ月前に何があったのよ!?」

「ママ、大声ださないでよ」

「あなた、黙ってないでなんとか言ってちょうだいッ!」

「…………」


静かなこの部屋で私の大声と、流れるテレビの音だけが響いた。
そして裕子は分かりやすく大きなため息をつく。


「あーあ、駄目だ。こりゃ絶対面接で落ちるな」


その一言に私のイライラは頂点に達した。
気がついたら私は裕子の頬を平手打ちしていたのだった。


「いっ、一体誰の為にガマンしてると思ってるのよッ!!!」

「――なにすんだよッ!!」


裕子は頬を抑え涙目になりながらも怒鳴り返す。


「五月蠅い! 子供は黙ってなさいッ!」


そう私も負けじと怒鳴ったとたん夫が静かに私に近寄って来たのだ。


パチンっ


突然私は顔に鈍い痛みを感じた。


「いい加減にしないか、みっともない」


夫が私に平手打ちをしたのだ。

どうして私ばかり?
どうして私だけが耐えなければいけないの?
どうして?


鎮まる室内。
テレビの音だけが淡々と流れる。
裕子も私と夫を唖然として見ている。
その静まったこの場所に私は居たたまれなくなりその場から逃げた。

後ろから夫の声が聞こえたが今の私には何を言っているのか言葉を聞き取れなかった。

リビングから一番近い部屋。裕子の部屋。
その部屋に逃げ込み私は鍵をかけた。

ワンテンポ遅れて二つの足音が私の耳に入る。
それは部屋の前で止まり今度はドアを叩き出した。


「おい! 開けろッ!!」

「ママ! 私の部屋よ!!?」


ガンガンと叩かれるドア。
瞼を閉じ耳を両手でぐっと塞ぐ。
しかし声と音は虚しくも耳に入ってくる。


「和美ッ!!」


「ママ!? ママっ!」

もう駄目……
ごめんなさい、あなた……裕子…………

目を開けると無造作に転がる雑誌、窓際に置かれた何かのキャラクターのぬいぐるみや、壁に何枚も貼りつけられた人気タレントのポスターが視線に入った。
その全てがあの男の顔だ。
あの見覚えのない中年の顔。

あ……顔が、こっちを、私を『見て』いる…………?

顔……顔…………顔……顔……
い、いや……見ないで…………。


「も、……もう、いやあああぁぁああぁぁぁああーっ!!」



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




「ねぇパパ……」

「なんだ」

「え、えーと、あの事、……ママに本当の事話したら?」

「裕子……」

「私もう耐えられないよ」

「…………そうだな」



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


チチチチチ

何処からか小鳥の囀る鳴き声が聞こえた。
目を開けるともう窓から射す光は強くなっていた。


「あ……」


朝だわ……

あの後私は気付かない間に寝てしまったのだろう。
ふらつく頭を抑えながら半身を起し私はしばらくぼーっとしていた。
すると足音が一つ近づいてきてこの部屋の前で止まった。


「和美、行ってくるよ。テーブルに朝飯作っておいたからちゃんと食べろよ」


返事もせず、ドアごしで見えている筈もないのに私はただ眼を閉じ深くうなずいた。

少したった後、私は裕子の部屋から出てリビングへと向かう。
リビング中央のテーブルには目玉焼きやサラダにラップが掛けられていてその隣には何やら紙が置いてあった。


『お前だけの体じゃないんだからそんな無理をするな。今日は家にいて休んでろ。』


ごめんなさい、あなた……裕子…………

その時いきなり家のチャイムが鳴った。
私は一瞬ドキリとした。

慌てて玄関口に急ぐもその間にもやかましくチャイムは鳴り続ける。


「……一体誰?」


不審な思いもあった為、用心深くドアに付けられた小窓覗く。
案の定子窓に映っていたのは中年の男性の顔。
手にはなにやら少し大きめの発砲スチロールの箱が握られていた。

この人、誰かしら……。
あ、…………あのエプロン。

「こんにちは」

川辺さんだ。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




川辺さんは発砲スチロールの箱から大きな鯛を取り出しまな板の上にどんと、置いた。


「田舎から送られてきたのよ。どう? 大きいでしょ」

「え、ええとっても」


そう言いながら川辺さんは台所の戸棚から包丁を取り出す。


「ところで今井さん、こういう魚の捌きかたってわかります?」

「いえ、全然……」

「それなら、良かったら私がやりましょうか?」

「う、うれしいわ、助かります。結構難しいんですよねー」

「いいえとんでもない」


ダンと音がして川辺さんは魚の頭を切り落した。転がる男の顔。


「こんなのジッとしているだけ簡単よ」


まな板の上から男の頭が落ちる。


「動き回っていたお宅の猫の時と比べたら……」


え?

思うや否や川辺さんは私の方を向き包丁を持っている手を私に振り下ろす。
反射的に顔を覆う私の手。
気づけば右腕はパックリとわれていて、夥しいほどの赤黒い血が流れている。
やがてそれは一滴、また一滴と床に落ちた。


「なに避けてんのよ」


包丁に付いた私の血を払いながら……。
そして私を少しずつ部屋の角に追い詰めながら言う。

痛む腕を押え混乱する。
あの川辺さんが! どうして!?


「ど……どういうこと!? どうしてなの!」


じりじりと近寄って来る川辺さん


「どうして? 教えてほしい?」

「あっ!」


追い詰める川辺さんに気を取られて私はテーブルの脚に自分の足を引っ掛けて、大きく尻もちを付いてしまった。

「それはね……あなたがあの夜、轢き殺した男は私の不倫相手だったからよ」

「な、何を……」

「あの夜私たちはね……駆け落ちするはずだったの……。それなのに、それなのに……!」


川辺さんの包丁を持った手がワナワナと震える。


「……これでも待ってあげたのよ? あなた達が自首するのを。でももう限界よ」


包丁を両手に持ち替えて振りかぶる。


「あなた達は何もなかったかの様に暮らしているんだもの。近所から聞こえてくるあなた達の笑い声……許せない」


振り下ろされる刹那。
私は思い出した。

あの夜……そう、二ヶ月前のあの夜……。

あの中年男性の顔……あれは――

――あの顔は、『私が轢き殺した男』の顔だ。


その瞬間川辺さんの顔はあの男の顔ではなく元の目元に深い皺がある川辺さんの顔に戻っていた。


「死ねッ!!」

「ひっ!」

私は歯を食いしばり来るであろう包丁の刃先に怯え目をギュッと目を瞑った。

ゴンっ

目を瞑っているとなにか重く鈍い音が聞こえた。
私の体に痛みは、……無い。
不思議に思い目を開けるとすぐ横に頭が少し陥没している川辺さんが目を真丸に開いて倒れている。
その少しへこんだ頭からは血が流れていて辺りに不快な鉄の匂いを放っていた。


「ま、ママっ……」


中華鍋を両手で抱え荒い呼吸で立っている裕子がそこにいた。その顔は見慣れた男の顔ではもうない。


「ゆ、……裕子!」

「ママぁ……わ、私っ……!」


震える裕子の体を私は自然と抱き締める。

「いいの。いいのよ」

「ママっ!ママ!」

裕子を強く抱きしめ宥めながら私は言った。


「裕子、お母さんね……思い出したの。私が…………――」


――私が轢き逃げ犯だったんだわ。

二カ月前私があの男を運転ミスで撥ねてしまったんだ。
そして私はショックで運転席で気を失ってしまったんだろう。
あとのことは、

夫と娘が全て始末してくれたんだわ。

今ようやくすべて思い出すことで顔が普通に見えるようになったのね……。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



ザクッ ザクッ

「ヤダもう、虫よけスプレー全然きかない!」

「あと残るかも知れないな」


夜の山奥に響くシャベルと土の音。


「そういえば昔スズメバチに刺された事があったなあ。あれは痛かった」

「もう、まーた刺された」

「あなた……裕子、ごめんなさい。私のせいで……」

「……いいんだよ」

「あ、あなた」


それを私は懐中電灯で照らす。


「スズメバチに二度刺されると死ぬかも知れないんだってな。裕子、知ってたか?」

「知らないわよそんなの。あー痒くなってきた、ムカツク」


ザッ ザッ ザッ ザッ


「ごめんね裕子……ごめんねあなた」

「ふぅ、だからパパはあんまり山には入りたくないんだ」

「あっ! 顔も刺されてるー!! もーっ!!」


あのエプロンは土に隠れて見えなくなった。




「たしか北はこっちだよな。」


夫が指をさす。


「それがどうしたのパパ」

「いや、偶然だがちゃんと北枕になってるなって思ってな」


夜が全てを包んだ。




* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *





それでは最後の質問です。

「ハイ」


あなた方御家族の一番自慢できる事はなんですか?

「えーと…………――








――…………家族愛です」






-fin-

       

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