2.兎



2-1.何か聞こえる。

「お父さんが好きだったんだね」
誰かにそう尋ねられて落ち葉に埋まったまま頷いた。
起き上がって顔に付いた緑虫を払い落したが、目の前には肉棒が生えているだけで他に誰も居なかった。
僕はまた歩き出した。


闇は行くほどに濃くなり、ついに足元まで見えなくなった。
心の太陽をずっと見つめている性で目が闇に慣れるということもなかったから、壁に手を突いてゆっくり進んだ。
小腹がすいたのできのこを食べた。きのこの味がした。僕はマヨネーズを切望した。

「マヨネーズ、マヨネーズが空から降ってきますように。そのためなら僕は何だってしよう」

森はどこまでも続き終わりなど無いように思えて僕は疲労に飲み込まれた。
疲労はこの森のように大きな口を開けて僕が落ちてくるのをいまかいまかと待ち望んでいる。それは生き物のようにうねりながら生暖かい空気を吹き付けた。
森は違った。森はただ無機質に続き僕がいることなどまるで関係がないように振舞っていた。
不気味だと思っていた肉棒や奇妙な植物はただそこに生えているだけで侵入者である僕を迎えも拒みもしなかった。
恐怖を与えていたのが自分自身だったことに気づくと僕はこの森が頼もしい兄弟か何かのように思えた。
僕が疲労によって引き込まれそうになったとき「大丈夫だ。こっちへおいで」と、やさしく見守ってくれる兄弟のようで、誘われるまま足を動かした。

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2-2.光に気が付いて僕は恐ろしくなった。

自分の手足も見えなかった暗闇がいつの間にか消えて森の細部までが浮かんできた。
目がなれたのではなく、太陽の光がどこからか洩れているのだ。そのことは第2巻41ページの図1-1を見ればすぐにわかっていただけると思う。
森は進むほどに明るくなり、光の原因がこの先にあることを知った。

入り口だ。森の入り口があるのだ。
僕に庭にあったような入り口がこの壁のどこかにいくつも存在していることは想像が出来る。
その入り口から差し込んだ光が森を明るく照らしているのだ。森に入ったときすぐなにも見えない暗闇が現れたことを考えると、入り口はそれほど遠くない場所にあるらしい。

僕は調子にのって壁から2メートル34センチも離れた場所を歩いていて、
蘇った視界を堪能しながら足元の肉棒を避ける事に夢中で目の前の死体に気づかなかった。

耳が奇妙なほど長くて驚いた「耳長い!」兎の死体が小さな樹に吊るされていた。
僕は驚いて叫んで立ち止まりそれきり言葉は出なかった。樹は身動きが取れないほど近くにあったし僕は進むことも戻ることも忘れていた。
兎は動いているように見えた。手を伸ばして僕に語りかける幻覚だった。「戻るんだ。この先に行っちゃいけない」
幻覚の声を知っていた。肉棒につまづいて転んだ僕に声を掛けたあの兎だ。

「幻なら消えてしまえ!それとも僕のこの肉棒で貫いてやろうか!」

幻覚には慣れていた。僕は4歳のときからよく幻覚を見た。「戻るんだ。戻らなくちゃならない」
兎はまだ何か言ってて僕は助けようと兎を地面に下ろそうとしたけど手が滑って落下した。
地面から生えた何本もの肉棒がその身体を貫くと身体の下から少しずつ少しずつ青い血が染み出て土を伝わって僕のスニーカーを汚した。
兎は死にそうだったけど違う僕は助けようとしたんだ。「戻ってやるべきことをやるんだ」
兎はそう言って動かなくなった。多分もう二度と動かないだろう。
身体から突き出た何本もの肉棒がその血できらきら輝いた。死体はとても小さくて頼りなく見えた。
それはさっきまで生きていたことをまるで忘れて僕には森の一部に思えた。
気味の悪い植物や気味の悪いキノコと同じ気味の悪いただの死体に思えてならなかった。
だから4歳のときから周りで跳んだり跳ねたりしながら一緒にポルカを踊った僕の幻覚を抱きしめることが出来なかった。
僕の肉棒ではなく誰のか知れない何本もの肉棒に貫かれて死んだことや彼が吊るされていたのではなくただ木登りしていただけだったことが僕を苦しめて
彼に許しを請うことを拒んだわけじゃないただ怖かった。ただ怖くて怖くて恐ろしくてその場所から離れたくて僕は兎に触れないで逃げ出した。
でも僕は助けようとしたんだ。

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2-3.走って走って壁の割れ目で立ち止まった。

兎の血がスニーカーについてスニーカーについた血が土や枯葉に混ざった泥団子を僕に食べさせようとするかのように青い青い血は薄汚れて僕は汚れた服に目をやった。
僕は何をしているんだろうと考えた。
森の中で一300円とライターだけもった僕に何が出来るって云うのだろう。逃げてるだけじゃないのか?

「戻ってやるべきことをやるんだ」兎はそういって死んだ。
戻るって何処に?
やるべきことを?それって何?
しなければならないことをしなければならないわかっている。僕にはやるべきことがある。

森の入り口から外を見た。僕のいたところとは違う、もっと大きい街だ。
この街に僕の兄が住んでる。僕と違うところで育った1歳違いの兄で、僕は兄に会って話さなきゃならない。
兄の家は赤い屋根で赤いポストが置いてある。この森を出て左に曲がると目の前にある。
それに僕は兄の肉棒が見てみたいと思った。生まれてから一度も僕は彼の肉棒を見たことがなかった。
兄の肉棒を見ること、それは僕にとって避けることの出来無い使命、目的のように感じられた。
それに比べて、僕は何のために森へ入ったのだろう・・・・?果たして僕は本当に森へ向かうつもりだったのだろうか。
それとも何かのはずみでついうっかり?

たくさんの人が歩いているけど誰一人僕やこの割れ目のことに興味がないみたいで僕は異邦人のような気持ちになった。
彼らはきっと僕の肉棒にも僕と僕の兄にも僕の父にも僕の幻覚にもドッペルゲンガーにも山菜や僕の母にも、何の興味も無いのだと思った。
服についた涙を拭くとその部分だけ泥が落ちて綺麗になった。

シャワーを浴びよう。兄に会ってシャワーを借りて身体と肉棒を綺麗にして新しいシャンプーを買って新しい服を買ってそれからライターはどこかへ捨ててしまおう。
目の前の店にはいろとりどりの綺麗な瓶がディスプレイされていたエリクサーと書かれた商品には死後30分以内なら100%蘇生できますという説明書きがあって、
兎に効果があるのかわからないけど300円だった。



そうだ。
僕にはやらなきゃならないことがある。戻らなきゃ。戻るって何処へ?


ポケットの300円を握り締めたまま僕は森へ戻った。

街には本当にたくさんの人がいたけど誰も僕に気付かなかった。

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2-4.エリクサーは偽物だった。兄は死んだ。僕に似合う服は全て燃えた。

それでよかった。僕にはやるべきことがあって、それが終わるまで僕はそれをしなきゃいけない。
それはあれでしかもあれがあれでそれだし、そのそれはそれというよりそれのあれなんだ。

それでよかった。

地面から生えるきのこや肉棒は僕の思い出や夢に見えたけど踏み越えて歩いた。
どうせすぐ何も見えなくなる。暗闇が僕を包んでくれる。そして兎はゾンビとなって蘇り僕を殺すだろう。

不安が消えて心は小さな森に満たされた。いつだって森に帰ってこれる。

森の泉が僕を撫でるように笑った。涙が乾いた。僕の鼻水は大地へ沈み栄養となってやがて木が生える。
風が木を育てて森を生むまでに僕はゾンビに殺されてゾンビになっているはずだから、もう立ち止まらなくていい。

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sage