Neetel Inside ニートノベル
表紙

銀色の魔王
三章 戦わない小休止

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三章 戦わない小休止


〝足りぬ〟
〝足りぬ〟
〝足りぬのだ〟
―わかっている。
〝足りぬのだ〟
―わかっているさ。
〝称えろ〟
―称えるさ。

―我らが王の目覚めをね。


 その日は、とてもよく晴れたいい日だった。
「僕は主張する!」
何故やら屋根で明守は、パジャマのままの姿で仁王立ちに叫んでいた。
「小遣いが欲しいぃぃっ!」
恥ずかしい奴だ。俺はふぅと息を吐いて、
「俺も主張するっ!小遣いをよこせぇぇ!」
と明守の横で叫んでいた。ちなみに、俺はちゃんと寝巻きからちんとした服に着替えている。ここ辺りが俺と秋森の違いだろう。あいつは恥知らずすぎる。
「要求は却下します。何故なら、兄さん達はあのビデオで三ヶ月分の小遣いを使い果たした事になるからです。何か異議はありますか?あるなら朝ご飯抜きだけど」
エプロン姿の大樹が、おたまを片手に下の庭から冷たく答えてきた。味噌汁のいい香りが、決意を固めたはずの俺達を揺らがせる。
「ぼ、僕はもう二十五!ちょっと大人なお年頃なんだ!一ヶ月小遣いなしじゃ、耐えられないんだよぉっ!」
明守はその誘惑に耐え、ぐっと拳を握り締めて言う。凄い勇気である。
「…明守兄さん、朝ご飯抜き」
なのに大樹は、血も涙も無くさらりと言いきったのだ。
「それに勘違いしてる。兄さん達二人共、一ヶ月じゃなくて、三ヶ月小遣い抜き」
そしてトドメ。明守はううっと涙ぐむ。確定。大樹は鬼だ。
「で、正貴兄さんはどうなの?」
そしてその鬼は、その視線をゆっくりと俺に向けた。俺は思わず一歩後ずさり、手に汗を握る。
「自分を見失わないで、まーくんっ!あたし、信じてる!貴方がお兄さんを裏切ったりなんてしない人だって!早く言って!〝僕はお兄さんと同意見だ〟って!」
いつか言った通り、詩織の家は俺の家のすぐ隣である。あのイベント好きの我が親愛なる友が、こんな狼森家での一大イベントを見逃そうはずもなく、当然といえば当然に詩織は大樹の横で手を握って目を潤ませていた。無論、俺が今どういう心境でどんな立場にたたされているかを、全部踏まえたうえでである。
「ああっ!?どうしたんだよ正貴ぃぃ!何でそこで黙っちゃうのさ!?さっき二人で交わした誓いの杯の味を忘れてしまったっていうの!?二人で今日は絶対に大樹に屈さないぞって!そう誓ったじゃないか!」
「そうよまーくん!あたし、見たくないわ!まーくんがお兄さんを裏切る姿なんてっ!」
明守が俺の腕をとって上下にふり、詩織は目を閉じてイヤイヤをする。俺は追い詰められた気分で、一連の騒動でも俺から目をそらす事のない大樹を見やった。
「……今日の朝ご飯は、秋刀魚の塩焼き」
大樹が、そこでぼそりと。秋刀魚は俺の大好物だった。更には、味噌汁の香りが俺の鼻をくすぐる。
「うっ………っ!」
俺は汗を掻いてうめく。周囲の視線が痛いほど俺につきささっているのがわかる。だって近所のおばさん達も見物に来ているのだ。俺達を指差してひそひそ話をしながら。
 しかし、問題はそこにはない。俺はそういうのは割と気にしないほうだから。
 ここで問題なのは、明守を裏切ればビデオが見れなくなる。(まだ三巻までしか見てないのだ)そして、大樹を裏切れば朝飯を食えないうえに、おそろしいプレッシャーをかけられる事になるという事。俺は脂汗を流してうめくしかなかった。だってどう考えても大樹のプレッシャーの方が怖いし、ビデオなんか明守の留守にいくらでも見れるのだが、横で泣く明守を見捨てるというのはさすがに良心が痛む。俺は大樹と違って血の通った人間なのだ。
「まったく、朝っぱらから何をしておるのやら……」
そんなおり、だった。その声が―救世主の声がしてくれたのは。
「わらわが訪れる際には、常にぬしらが屋根の上に登っているのは何かの嫌がらせなのか?」
そう言って人ごみを掻き分け現れたのは、神を後ろで束ねた、まだ若い御巫服姿の女性。どう見ても、玲奈さんだった。近くの鳴神神社の御巫さんの。
「あ、玲奈さん。いっつもいいタイミングで来るわよねー。ちょうど今、クライマックスを迎えてたところよ」
詩織が手を振って彼女に言う。クライマックスだったのか?しかし、これはチャンスとしか言い様がない。俺は皆の意識が玲奈さんに集中したその一瞬をぬって、ダッとかけて屋根から裏側の方に飛び降りた。さすがに多少足が痛かったが、気にせずそのままダッシュで表に駆ける。その間わずか一秒程。玲奈さんの出現に気を取られている下の皆は、おそらくまだ誰も俺が屋根から消えた事に気づいていない事だろう。我が人狼たる肉体の力を最大限に利用した荒業である。そして俺はだんっと表に出て、腰に手を当てて明守に向かい声を張り上げた。
「まったく、本当に人として情けないぞ明守っ!エロいビデオ買って小遣いカットされて、屋根の上で泣いて直訴か?恥を知れ!」
「ああっ!?何時の間にそっち側に移動を!?恐るべしだよ正貴ぃぃぃっ!」
「…恐るべしですむ問題ではないと思うのじゃが。何故にさっきまで屋根の上におったはずなのに、当然の様にわらわの横に立っておるのだ、ぬしは?」
玲奈さんがちょっと汗を垂らしつつ言う。が、しかしこのくらい、俺は多分人狼の血に目覚めていなくてもやってのけた自信はあるので、まあ問題はないはずだ。俺はふっと笑って指を立てた。
「何を言ってるんですか、玲奈さん。元々俺はここに居たじゃないですか」
「ああっ!どうやったのか知らないけど、今の危機の切り抜け方は百点満点よまーくんっ!色々な課題やポイントをしっかりおさえてる!まーくんがここまで成長してくれていたなんて、しおりんなんだか嬉しいわ!」
「…よくわからないけど、とりあえず正貴兄さんは朝ご飯抜き免除ね」
詩織も納得し、大樹も無表情にだが頷いてくれた。結果オーライだ。明守は泣いてたけど。
「……相変わらず訳のわからん思考をするものどもよの。まあ、よい。それよりいい加減、そこから降りてきたらどうなのじゃ、明守?近所の視線が痛くはないか?」
「ほっといてよ玲奈っ! 信じていた弟達に裏切られて僕は今傷心中なんだ!そんな僕の心なんて誰にもわかりはしないよ、きっと!」
「いやな、別にぬしがどうというのではなく、単にわらわが恥ずかしいだけなのじゃがな。何故にまだパジャマなのじゃ?」
「そ、そんな事言ったら玲奈だって袴姿じゃないかぁぁ!そっちの方が恥ずかしいよ!」
「わらわのこれは、仕事着じゃ。何も恥ずべきものではない」
「そんな事言って、どうせ下着とかまた付けてないんだろう!?どれだけそういうのが純真な男心を悩ませると思ってるんだ!僕があの無修正シリーズに手を出したのは、中に御巫さんものが含まれていたというのが一番の理由だったりするんだよ!?」
明守は地団駄を踏んで叫ぶ。その姿には高所恐怖症で、屋根に登る時怖くて泣いていた面影は一つもない。…もう周りが見えてないんだろう。近所のおばさん何かひそひそ言ってるぞ。
「わらわの家系に伝わる衣装は、この形式が正しい着付けの仕方なのじゃ。それに勝手に欲情されて文句を言われてもの。困る」
「いいもんっ!僕はずっと困ってるんだから、玲奈だって困るべきなんだ!そうに決まってるんだもん!」
「愚かな。神に仕えるわらわにその様な台詞を吐くのは、神に唾吐く行為に大差ないぞ」
いつもの様に喧嘩―というよりは、泣いて暴れる明守を玲奈さんがなだめる―のとはちょっと違うけど、まあそんな風な行為に二人が入っていったのを尻目に、詩織はふっと暖かい目をして口を開いた。
「いつ聞いても、愛しあう二人の愛の会話っていうのは、心温まるものよね」
俺はそれを聞いて静かに目を閉じてみせる。
「そうだね、詩織君。彼らを見ていると、まだまだ世界は捨てたもんじゃないと思えてくるよ」
「ええ。彼らの様な愛を歌う人々が、世界というもののレベルをかろうじて捨てきれないものに保っている」
「何が愛なのじゃ!?いつも言っておるが、わらわはあれの事など何とも―!」
明守と言い合いをしていた玲奈さんが、たまらず言ってくる。
「うわーん!玲奈の露出狂~!!」
「ええいっ!何をこの愚か者が…っ!」
しかし明守はもう俺達の声など聞こえてないので、構わず玲奈さんにまくしたてる。少し遅れて明守さんに向かい治る玲奈さん。そこで迷わず詩織は口を開く。
「ああ、やっぱり私達じゃ愛する二人の中には割って入れはしないのね」
「それはそうだよ詩織君。愛はすべてを凌駕する」
「ええいっ!横でごちゃごちゃと―」
「うわぁぁんっ!玲奈のいじめっ子~っ!おしりにほくろがあるくせにぃ~っ!」
「こ、こらっ!くだらん事を―」
 要は、口喧嘩の弱い明守に、助け舟を出してあげてる優しい俺と詩織だった。

 ちなみに、大樹だけは少し離れた場所で、酷く冷めた瞳で俺たちを見守ってはいた。

     

『昨日、またもや野生の獣に襲われたものと思われる遺体が、王森町の住宅街で見つかりました。遺体は喉元を一思いに引き裂かれており、その傷跡から、今までど同様の獣による犯行の可能性が高いものと思われています。今月に入ってすでに七人目というこの事態に、警察も警戒を強め―』
「へぇー、物騒ねぇ。王森町っていったら、確か結構近くなんじゃない?」
詩織が俺の秋刀魚をつつきながら、今テレビで流れたニュースに声をあげる。
「っていうより、もろに俺達が住んでる町だろ。自分が何処に住んでるかぐらい知っとけよ、おまえ」
俺は秋刀魚の皿を移動させながら眉をひそめる。ええい、人のおかずに手を出すな。
「そうじゃぞ。そんな事ではろくな大人にはなれん。アレの様にな」
玲奈さんは明守の分だったはずの朝食に端をつけながら、首で後ろをさした。そこには、みんなが朝食をつつく姿を一人だけうずくまって見ている明守の姿があった。
「いいもん。いいもん。どうせ僕は悪者だもんっ」
せっかく俺と詩織が助太刀してやったのに、完膚なきまでに言葉で叩きのめされ、おまけに大樹に朝食抜きを実行されてしまい、すべてを失った明守は涙目になって呟いている。
「……………」
大樹だけは無言で食事を続けている。横でテレビが最近の大型獣による連続殺害事件やらなんやらをうるさく流しているが、やはり興味はなさそうである。というより、こいつが何かに興味を持った事というのはあるのだろうか。謎だ。
「にしても、何でおまえまで俺の家で食事を食べてるんだ、詩織?まだ玲奈さんは、明守に勝利してその食事を奪取したって事で納得はいくんだけど」
「ああ、何を言うの、正貴ちゃん。私達は親友でしょう?持つものすべてを分け隔てなくわかちあってこそ、その友情は護られるものと思わない?」
「ああ、詩織君。ならばどうして、親友であるはずの君の家はあんなに馬鹿でかくてお城みたいなのに、当の僕の家はこんなに薄汚くて小さいというんだろうね」
「何を言うの正貴ちゃん。家の価値は大きさなんかで決まるものじゃない。住んでいる人のその家への思い、そして愛情によって初めて価値を持つものなのよ。そういった意味ではここは私の家より数十数倍素敵な場所」
「それは詭弁だよ詩織君。それに君は僕が言いたいことをわかってくれてはいないようだ。僕はつまりはこう言いたかっただけなんだよ。俺の秋刀魚に手をだすなこんちくしょう!、と」
「ならば私もこう言わせてもらうわ。私も秋刀魚結構好きなのよっ!ちょっとぐらいくれてもいいじゃないっ!、と」
「ぬ、ぬしら、相変わらず普段から変な者どもじゃのぅ……」
玲奈さんが少し汗をかいて言う。そこで俺と詩織は言葉を止め、ふっと表情を変えて玲菜さんに笑いかけた。
「そういえば聞くのを忘れていましたけど、今日は何の用ですか、玲菜さん?」
「この家に来たからには、この家の誰かに会いたかった訳なのよね?」
にこりと詩織が続ける。
「ま、まあ、別に用らしい用はないのじゃが。偶然近くを通ったものでの。ぬしらの顔でも、とな。別段誰かに特別な用事があった訳ではない」
「ふぅん。日曜日のこの時間に、偶然近くを通ったねぇ……」
詩織が意地悪な笑みを称える。玲菜さんは誤魔化すようにごほんと咳払いした。が、しかしこの程度で俺達は攻撃の手をゆるめない。変な奴呼ばわりされ、それに見合う復讐をしないでいられる程、俺達は人間ができてはいないのだ。
「そんな言い方は駄目だよ詩織君。愛する人に会いたいと、そう思うのは当然の事。ならばここを訪れるのに、彼女に理由が必要かい?」
「ええそうね。それ以上の理由は、決して存在しはしない」
俺達は頷き合う。無視を決め込んで秋刀魚の身を口に運んでいる玲菜さんの動きが、また少しぎごちなくなっているのを、俺達は見逃していない。
「……明守兄さんに会いに来たんですか?」
と、そこで俺達の言葉を受けた大樹が、さらりとそれを口にする。玲奈さんは思わず喉に口の中のものを詰まらせた。物凄くストレートで、遠回し派の俺達には決して真似できないその台詞がとってもナイスだ、狼森大樹。
「先週も来たばかりなのにね」
ともあれ、思わぬチャンスを逃すまい、と詩織はどんと攻めに入った。それを受け、俺もどどんと攻めてやる。
「それを知っている詩織君も、実はほとんど毎週我が家に押しかけて来ているんだけどね」
詩織を。
「ああ、まーくん。ちょっと隙をついて秋刀魚を食べたくらいで、そんなに声をとげつかせるのは大人気無いと思わない?」
「さあどうだろう。でも、そろそろ玲奈さんが喉に詰めてしまったものを飲みこむ頃だ。今からこの場の発言権は、彼女に移るんじゃないんだろうか詩織君」
 ごくん。
 俺が首を振る横で、顔を真っ赤にした玲奈さんが復活する。声が出せなかった原因を飲みこむ事で。彼女はどんっと机を叩いていつもの台詞を吐いた。
「誰があのような男にっ!わらわは鳴神銀明神に仕える御巫っ!下界の下等な男になど興味はこれっぽっちも持ってはおらぬと何度―」
「でもね、もう処女じゃないんだよ」
この手の話題になると途端に強くなる、明守が後ろでぴんと指を立てる。
「僕が五年前に、それを破ってしまったからね」
明守はそう言いながら、隙のできた玲奈さんからひょいっと秋刀魚を奪い取って頭からぼりぼり貪る。骨ごと食べる辺りがさすが明守。ていうか、秋刀魚って内臓苦くないか?
「あっ、明守ぃっ!」
「あっ、美味しい!これ、源さんとこの秋刀魚さんでしょ?新鮮さが一味違うよね!」
そして、すぐに食欲に考えがいくのもやっぱり明守。ある意味凄い頭脳をしている。横で激怒して今にも殴りかからんばかりの玲奈さんを、どうして綺麗さっぱり忘れて秋刀魚の新鮮さなんかに思考を移せるんだろう?そこら辺りが言い合いで何時も大敗する大きな理由だ我が兄よ。
「はぁ。でも尊敬してた御巫さんが、下界の男と汚れた関係を持ってたなんて、例え過去の事でもちょっとショックなしおりんだわ」
「僕もだよ詩織君。すでに御巫としての資格を失っているんじゃないかと思う今日この頃」
俺達は息を付き合い首を振る。実は玲奈さんが秋刀魚を残さないかとひそかに期待をしていたので、明守にしてやられた気分だったのだ。大樹は絶対食事を残さない奴だし。くそぅ。
「明守ぃぃっ!おのれはっ!おのれという奴はっ!」
恥ずかしさとか、そういうのをすべて明守に向け、玲奈さんが拳を握り締める。
「なんだよぉ!嘘は言ってないじゃないかぁ~!」
「やかましいっ!この愚か者めがっ!」
 どん。どどん。
 何か横で御巫さんタイフーンが炸裂している中、ふと大樹が気づいた様に口を開いた。
「先週と、ほとんど同じ展開だね」
「ああ。先週は〝ファーストキス〟がキーワードだったけどな」
「先々週は〝お医者さんごっこでわかりあった仲じゃないか〟だったわね」
詩織がお茶をすすりなから呟く。それを見て俺にも、と無言の瞳で訴えながら差し出した俺の手に、詩織は空の茶碗を無意味におき、更に無意味ににっこり微笑む。どうやら秋刀魚をほとんど分けてやらなかったのを根に持っているようだ。
「…結婚式は、いつかな?」
無言で御巫さんタイフーンを眺めていた大樹が、何気に呟く。
「あと二年に、五百円。まあ二人が正直になるには、そのくらいは必要ね。特に玲奈さんの方が」
「俺は大穴狙いであと半年。できちゃった結婚ってのも、ありえない事はないし」
「……正貴兄さんって、下品」
大樹が少し冷たい目をする。俺はごほんと咳ばらいした。
「大樹、正貴ぃぃっ!お兄ちゃんを助けてよぉ!何か本当に殺されそうだよぉ!」
明守の泣き声が御巫さんタイフーンの爆心地から響く。俺はぱんと手を打って立ちあがった。
「さて。二人の愛の共同作業の邪魔しちゃ悪いし。一応朝ご飯食わせるという恩も売ったし。ぱーっとみんなで詩織の金でどっか遊びに行くか」
「ああっ!?あんな少ししか秋刀魚を分けてくれなかったくせに、一体どうしてそんな台詞が吐けるのよ!?ちょっと恐るべしよまーくんっ!」
「僕、動物園に行きたい」
「相変わらず渋い趣味だな、大樹。まあいいか。そこで手を打とう」
「どうして貴方も行く気満万なの大ちゃん!?しかも動物園っていうのは少し凄すぎよ!?どうして貴方も男なら、そこで正直にソープランドとか言えないの!?それなら楽しそうだからいくらでもお金出すのにっ!」
「いやおまえ、さすがに中学生にその台詞は人道的にまずいだろ」
「ええっ!?今の本当!?ソープ行っていいの!?お金出してくれるの!?本当にいいのっ!?僕行きたいっ!」
「明守ぃぃっ!貴様という奴はっ!わらわだけじゃとっ!あの時のあれは嘘じゃったのか!?」
少しこちらよりになった御巫さんタイフーンを見やりながら、詩織がぽつりと漏らした。
「ちょっと妬けるわね」
「ああ」
俺は頷く。
「そうだね」
大樹も頷く。
「じゃ、僕後片付けするから。準備してて」
「うわぁぁぁん!また僕だけ仲間外れぇぇっ!一人で寂しくお家で待つのはいやなんだよぅ!寂しいんだよぉ!」
「やかましいっ!そんなに暇がいやなら神社の境内の掃除を手伝わせてやるわ!ほらきりきり歩けい!今日はそのくだらぬ煩悩が消える様に死ぬほどこきつかってやるわ!覚悟するがいい!」
「嫌だよぅ~!あの神社かび臭いんだもん!それに僕も動物園行きたいよぉ!」
「小学生かぬしはっ!二十五にもなるというのに、恥をしれい!」
泣いて玲奈さんに引っ張られて行く明守を見ながら、詩織がやっぱりぽつりと漏らした。
「あつあつね」
「式が楽しみだな」
「だね」
俺達は暖かい瞳で明守を見送りながら、頷き合っていた。
 ちなみに鳴神神社は、歴史あるだけにやたら広くて大きい事は言っておこうと思う。
 その境内の掃除などしようものなら、丸一日はかかるほどに。

     

「オーホッホッホ!さあ思う存分むさぼるがいい!そして私を崇め称えよ!何もあがらう事はない!すべてはこうして私の足元にひれ伏す運命なのだから!」
詩織さんは、手の甲を口に添えて形容しがたい声で高笑いしながら、お猿さんに煎餅をばらまいていた。当然檻の中のお猿さんは必死でそれを貪っていたし、高笑いする詩織を指差して何か言おうとした子供が、親に口を塞がれて連れて行かれる姿もちらほら見られた。
 ちなみに、檻の前には『餌を与えないでください』と書かれた立て札が立っている。
「なんだか、少し恥ずかしいね」
「大樹、こういう時は心の底からあの人が他人だと思い込むんだよ。そうすれば少しは気分は楽になるからね」
俺は優しく大樹の頭を撫ぜてやりながら、何気なく視線を在らぬ方向に向ける。周りで詩織を指差しひそひそ話をする人達の視線が、ちょっとばかり痛かったからだ。
「さあ、猿どもよ言うがよい!私は誰だ?我が名をその下等な口で口ずさめ!我こそは世界が誇る闇の王!その下等な目で我を見よ!この女王の勇姿をしかとその目に焼きつけよ!」
…そうか。詩織さんのあの口癖には、ちゃんと意味があったんだな。俺は最近になって知った彼女の秘密とその台詞を照らしあわせてそう納得しながら、明るい声で大樹に言った。
「ほら、きりんさんだ。素敵だなぁ」
「うん、そだね」
「我こそは―って正貴っ!あんたいい加減止めてよ!突っ込んでくれないと、止まるに止まれなくて困るじゃないのっ!あやうく最後まで言いそうにな―ってあんた!何そんなとこに逃げてんのよっ!?何!?その他人でありたいと願ってる様な後姿は!」
詩織がばっと後ろを振り向いて叫ぶ。振り向いた一瞬ですでに多少離れた地点へ非難済みの俺の姿を見つけてくれる辺り、ちょっと嫌な奴である。
「……大樹。象さんって、大きいなぁ」
なんにしても、俺は遠い目をして大樹の肩を抱えた。
「…そだね」
大樹はすぐに俺の意思を察してくれて、無表情に相槌をうった。
「ああ正貴!?それに大ちゃんまでっ!何で振り向かずに遠くなんか見るのよ!?ちょっとってば!」
 後ろで声を張り上げてまだ猿に餌をやってる詩織。振り向かないままでも、俺の人狼としての感覚(主に聴覚と嗅覚)がどれだけその様子が人の注目を集めているか告げてくれた。
 振り向いたら、仲間だと思われてしまうぞ。
 そう語る俺の目に、大樹も無言の眼差しで返す。
 それは嫌。
「ちょっと正貴っ!あんたがその気ならこっちにも考えが―って何よあんた!?はぁ!?警備員?何で私が話なんて聞かれなきゃなんないのよ!ちょっと猿と遊んでただけでしょ!?ちょっと放しなさいってば!あたしを誰だと思ってるのよ!?クイーン―じゃなくてっ!とにかく放しなさいって言ってるでしょ!?」
 詩織。一つだけ言わせてもらうなら、よく目を凝らして、君の目の前にある看板を見てみるべきだと思うぞ。
 何度もいうようだが、餌を与えないでくださいとはっきりと書いてあるから。
 俺は無言で、大樹と共に詩織との距離を広げていった。ひらたくいうと、逃避だった。

 むぎゅ。
 無言で大樹は俺の服を掴み、視線で商店街のアイス屋さんをさした。
 むんず。
 俺は無言で前を歩く詩織の腕をつかみ、やっぱり無言で大樹を指した。
 詩織は無言で振りかえると、俺の指指す方向を見、そこから更に大樹の視線の先へと視界を変化させ、無言で首を振る。
「ケチ女」
 横に。
「あたしは飼育員の人に三十分も〝猿の人への価値観と過大栄養による症状〟についてお話を聞いたばかりだもの…。どうしたって食欲はわいてこないの」
詩織はふぅと息を吐いて目をつむる。直訳すると、『何であたしがそんなもん買わなきゃなんないのよ。自分で買いなさいよこの馬鹿』というところだろうか。どうやら俺達が係員さんに捕まった詩織を見捨てて逃げた事に、まだ腹を立てているようだ。
「……チョコレート」
大樹が俺の服を掴んだままで、視線の先を変えずに言う。すなわちアイスを見たままで。
「ちょこれぇと」
俺も詩織さんの手を掴んだままで、指差す方向を大樹からアイス屋さんへ変えて言った。
「そうね。あたしもチョコ味がいいわ」
すると、詩織さんは何故だかそう頷いてくる。俺を見てにこりとしながら。
「食べたい」
「そうね。あたしも食べたいわ」
大樹と詩織が、何故だか俺に熱い視線を投げかける。
「…食欲がないんじゃなかったのか?」
「沸いたの。今の一瞬で」
詩織さんは、何故だか俺をアイス屋さんに押しながら言ってくる。怖い笑みを浮かべて。
 本気の目だった。
 かばっ。
 俺は迷わず詩織の手から抜け出すと、そのままダッシュで駆け出そうとし、
 どんっ。
 そして差し出された詩織さんの足につまづき、派手に転んだ。
「あら、どうしたの正貴くん?逃げようとでもしない限り、こんなところに出したあたしの足につまづくはずなんてないんだけれど?」
「はっはっは、誤解だよ詩織君。ちょっと眩暈がしてよろけただけさ」
と膝を立てる俺に、詩織は優しく手を差し出す。
「そうよねぇ。楽しい楽しいお出かけの最中だもの。逃げようなんてしないわよね」
そんな彼女の顔は、まるで〝逃すものか〟と言わんばかりに優しく微笑んでいた。
「しかし詩織君、もうお出かけは終わって、帰る途中なのじゃないかと思うんだがね。何せ僕らはついさっき、そのお出かけをしていた動物園から追い出されてしまったんだから。誰のせいとは言わないけれど」
俺はふぅと息を吐いて首を振り、冷や汗を掻きながら差し出された詩織の手を取る。
「そうよねぇ。あたしも途中であたしを見捨てて逃げ出した、誰かさんのせいで傷ついているなんて、例え口が裂けても言いはしない。ずっと心の底で思い続けはするけれど」
詩織は腕だけでむんずと俺を立ちあがらせる。その力はさすがに一月で日本を制圧した闇の王にふさわしいものだった。俺はたらりと汗をかく。だってその手は俺を立ちあがらせた後も、しっかり俺の手を拘束してくれたままだったのだから。
「ああ空を見上げてごらんよ詩織君。この目のくらむ様な天気の下、そんなくだらぬ思いは捨てるべきじゃないのかな?」
俺は自由な方の指で空を指して目を閉じる。無論掴まれた手が引っ張られるのに必死で耐えながら。
「ええ。これでお腹も満足すれば、きっとそれも忘れられる。だからこそ、私は貴方にあれを買ってもらいたい。それはきっとより強くしてくれるから。私達の友情というものを」
詩織は首を傾けてとびっきりの笑顔を見せる。無論俺を引くその手には、常人なら投げとばれそうなくらいのその力を込めたままで。
「ああ、そいつは素敵だ詩織君。でもね、ちょっと手に力を込めすぎだ。僕が少し涙目になっている事に、気づいてくれてもいいはずだろうその友情で」
「チョコレート味、三つください」
「…………」
「……………」
突然後ろで成ったその声に俺達はしばらく黙り込む。
「お金は、あの人たちのどっちかが、払うと思います」
そう言って俺達の方を指差す大樹。ああなんという事だ。結局はまだ戦いは続く事になるのらしい。なんでそこで〝あの目つきの悪い女の人が払います〟と言ってくれなかったんだい、我が親愛なる弟よ?お兄さんはちょっとだけ悲しいよ。
「詩織君」
すでに俺と同じ考えに辿り着き、再び腕を引く手に力を込めた我が親友に、俺は覚悟を決めて語りかけた。
「ここはジャンケンでどうだろう?それがもっとも後を引かないいい方法な気がするんだよ」
「あら奇遇。ちょうどあたしも考えていたところなの。きっと正貴なら、ここでそう言ってあたしが手を放した瞬間に、脱兎のごとく逃げ出すんじゃないかって」
「はっはっは、お見通しとは参ったな。しかし見てみたえ詩織君。アイス屋の店員さんが、少し困った顔をしているよ?そんな事を言ってる暇はないんじゃないかな?」
「ええそうね。だから早く代金を払いにいかなきゃ正貴ちゃん」
「…早くしないと、アイス溶けるよ」
力を均衡させあい震える俺らの横で、無感情に大樹がアイスを食べて言う。
「だそうよ、正貴ちゃん。早くお金を払いにいかなきゃ」
「ああ、わかったよ詩織君。逃げたりなんかしないから、その手を放してくれないかい?なんだか痣が出来てるんじゃないかと思うんだ」
「馬鹿な事言わないで。まーくんの意地汚さは私が一番よく知っている。そんな台詞を信じれる訳がないじゃない」
「……アイス、ちょっと解けてきたよ」
大樹の無感情な台詞で、更に詩織の怪力に力を加わる。しかし俺はここで引く訳にはいかなかった。今俺の財布に入っているのは千円きっかり。実はそれは俺の全財産であり、かつアイス代を払わされれば、半額になってしまうはかない運命を持ったそれでもあったからだ。今の俺にその出費はきつい。というよりいつでもきついけど。詩織さんがこんなに楽しそうに俺を追い詰めるのも、それがわかっているからであろう。鬼め。俺は目を閉じてかぶりを振った。
「ふっ、わかったよ詩織君。僕も少し腹をくくろう」
目を閉じたのには理由があった。俺は力を本気で出そうとすると、何故やら目の色が変わってしまうという、特異体質になってしまっているのだ。
「財布の重い輝かしい明日への逃走の為、僕はすべてをかけてでも君から逃げてみせる!」
俺はぎんっと爆発的に人狼の力を開放させ、詩織の手を振りほどく。そして俺はそのまま蒙ダッシュで駆け出した。
 正体を知られる危険をおかしてでも、俺はこの少しだけ暖かい懐を護りたのだ。だって俺はあのビデオ事件のせいで後三ヶ月も小遣い無しなのだ。誰がそんな俺を責められよう?
「くっ!さすがね正貴!お金の為ならこのあたしの全力さえも跳ね返すとは、さすがに我が古きからの盟友だわ!でも逃しは―って何よ大ちゃん!?なんであたしの手を掴むのよ?えっ?何で店員さんを指差して私を見るの!?何なの、その〝どうせ兄さんはお金なさそうだし払って〟とでもいいたげな顔は!?ああ待ちなさいってば正貴ぃぃっ!」
ナイスだ大樹。さすがに俺から今月の小遣いを奪った張本人。よく俺の事情を知ってくれてる。俺のあの人知を超えた力を、あんな理由で納得してくれる詩織さんにも百点満点を送りたい。
「しかし、待てと言われて待つような馬鹿はいないよ詩織君」
俺はひたすら走りながら、かぶりをふって囁いていた。

     

 家は、駄目だ。
 あの異様に計算高い女はきっと、家へのルートを塞ぐようなルートをとって俺を捜すだろうから。同じ理由で、それとは同じ方向の鳴神神社や、太郎の家も候補から消える事になる。
「裏をかいて学校でほとぼりが冷めるのを待つ、というのはどうだろうか。いや、相手は我が親愛なる盟友椎崎詩織殿。裏の裏まで読まれていると考えて間違いはないだろう」
俺は六感をフルに開放して警戒しながら、商店街を歩いていた。状況は簡単だった、詩織さんはとってもしつこくて執念深い。彼女から逃げ出した時点で、俺はすでに地の果てまでも追われるであろう運命を背負った事になるのだ。何で逃げたのかとか、そういう事はあんまり問題ではない。事実、もうなんで俺を追っているのかなんて、当の詩織さんはどうでもよくなっているだろう。俺もよく憶えてないし。ただ逃げられたのが悔しくて、俺を追い求める魔物と化しているだけのはず。あいつはそういう奴だと俺は信じている。
「さて。問題は―」
〝ぎぃぃぃぃぃぃぃっ!〟
 指を立てて誰へともなく問題提起をしかけた俺の耳に、ふいにそんな音が跳びこんでくる。ふとその声のした方向を見やれば、横の道路で今にもトラックさんに跳ねられそうな女の人に、更には必死でブレーキをかけるトラックの運転手さん。そして女の人の前を元気に駆ける元気なわんこの姿。
 ああこれは、きっと飼い犬が道路に飛び出したのを必死で追いかけた飼い主の女の人が、逆に出て来た車に跳ねられてしまうというパターンではないだろうか。そして犬は何故だか怪我一つ負うことはなく、救急車に運ばれる主人を?マークを浮かべて見る事になるんだ。
 頭の何処かでそう冷静に状況を分析しながら、俺は咄嗟にだんっと地面を蹴って飛び出していた。目が輝くのが自覚できる。俺はそのままその女の人と子犬を抱え、道路の向こう側へと飛び移る。
 たん。
 乾いた音を立てて着地する。と、後ろでどかんと派手な音があがる。トラックが止まろうとしてハンドルを切った結果、電柱に激突しそれを砕いた音だった。凄い破壊力。あんなのを食らえば間違いなく命はないだろう。―この女の人の方は。危ないところだった。
「大丈夫ですか?」
俺は何が起きたかわからずに、呆然としている手の中の女の人を優しく地面におろした。よく見ると俺と同じくらいの年の、かなり綺麗な人である。彼女は目をぱちくりさせて辺りを見まわす。
「わ、私……、道路で車に…もう駄目だってばれちゃうって……あれ?」
その人は困惑した様子で俺を見てくる。ちなみに犬公君は、先ほどからずっと俺に噛み付いたままだった。命を助けてあげたというのに、一体何がそんなに気にいらないというんだろうね。僕と君とは種族的に、親戚みたいなものであるというのにさ。
「ふっ、感謝していいですよ。俺が助けました」
「あ、貴方が……?え?え?えっ?」
俺は左手から噛みついたまま警戒した唸り声をあげる子犬さんをつるしながら、髪をかきあげてポーズをとった。彼女は何やら狐に包まれた様な顔で俺を見てきていた。正確には狼に助けられたんだけど。それにしても痛いぞ犬。いい加減に放せ犬。
 しかし、何だか辺りがわいわいがやがやとやかましくなってきた。どうやらさすがに今のはまずかったらしい。一瞬とはいえ、もろに人狼の力を見せてしまったのだ。十メートルぐらい飛んだし。どうやらかなり目立ってしまった様である。このままだと、捕まって正体を暴かれてぱっぱらぱーという事になりかねない。当然俺は〝怪奇・犬男〟とかいう見出しの見世物小屋に入りたいとは塵ほど思わない、普通の少年である訳で、当然といえば当然に逃げようと決心した。幸い顔はよく見られていないはずだ。このまま逃げてしまえば大丈夫のはずである。正体はばれない―
「………………」
そこで俺は、その助けた女性が半ば呆然ながらも、俺の顔をまじまじと見上げ続けている事に気づく。もう完全に俺の顔を覚えてしまっていてもおかしくないほどに。しかもよく見ると、この人学校で二、三度見た顔というか、もしかして隣のクラスの蔵岡恵美さんではないだろうか?確か詩織と結構仲がいいはずの人である。彼女がもし俺の事を覚えていて、人間ばなれした今の俺の事―ちなみに目が銀色に輝いている―を詩織君に話したりしたら、勘のいい詩織さんは一体どんな反応を示すだろうか?下手をすれば詩織さんに俺の正体が伝わりかねない現状に乾杯。ああ、世の中って狭い。
 がしっ。
 俺は無言で蔵岡さんを抱えると、抱えなくてもしっかり俺の手に歯でしがみついてくれている子犬さんも目で確認し、あらぬ方向を見て叫んだ。
「あっ、なんだあれはっ!?」
ひっかかってくれたのはその場に居た三分の一程にすぎなかったが、都合の言い事に蔵岡さんも引っかかって俺の差した方向に気をとられてくれたので、俺は抵抗もなく彼女を抱えたままで駆け出す事ができた。人ごみを掻き分け蒙ダッシュで駆ける。もう普通の人間には不可能なぐらいの速度で。
 ばさ。
 何か人ごみの中に玲奈さんが居て、そこで一瞬走る俺と完全に目が合って、呆然として荷物を落としていた様に思えたが、気のせいだと思いたい。というより気のせいであってくれ。お願いだ。
 ちなみに隣りの明守は、死ぬほどたくさん荷物を抱えさせられてひぃひぃ言っていた。何時もながら哀れな兄だ。
 そう言えばちょうど境内の掃除が終わる頃だ。そこで逃げ出そうとする明守に、玲菜さんが〝では、次は買出しに行くぞ。ちょうど御神酒が切れて困っておったのじゃ〟なんて言って腕を引っぱって引きずっていく、などという光景がありありと想像できてしまい、何故気のせいのはずの出来事に、こんなに筋書きが思い浮かび納得できてしまうのか、と泣きたいぐらいに不思議だった。
 一つ付け加えるなら、子犬君はまだ俺の手を噛んで唸っていた。


 とある、人気のない公園。
「実は、俺はこの星の人間ではない。ここから三十光年程離れた場所に在る、マイラ星からこの星の侵略の為やって来た、悪の宇宙人なのさ」
俺は腕をごきごきと変形させて、凶悪な笑みを浮かべていた。
「我らマイラの民は純粋たる戦闘民族。肉体をこの様に変化させ、貴様ら地球人などとは比べ物にならん力を有す事ができる」
ざん。俺はその腕の先だけを人狼に戻した左手を振り下ろし、その風圧が公園の砂場に五本の深い溝をつくる。唖然として声も出せないでいる蔵岡さんの顔を、俺はその狼と化した左手で掴んでにやりとする。
「だがな、我らはまだ今はこの星について何もわかっておらぬというのが現状だ。このままこの星を攻めるというのは、多少不確定な要素が多すぎると言わざるおえん。そこで我の様な先兵がこの星に潜入し、この星の戦闘力や技術力を調査している訳だ。無論、我の正体は地球人に知られる訳にはいかぬ。地球人どもに余計な警戒心をもたれてしまえば、それだけ侵略に支障が出る訳だからな」
蔵岡さんは声もない。俺は左手を引くと、にぃっと笑った。ちなみにまだ右手はお犬さんに噛まれたままなので、実は痛いのをちょっと無理しての笑いだった。
「我の言いたい事がわかるな?要するに、喋ってもらっては困る訳だよ。この我の事をな」
蔵岡さんはただ黙ってじっと俺を見つめている。俺は変化した左手を意味も無くごきごきと鳴らしながら続けた。
「つまりは、我の正体を知られたからには、貴様をただで返す訳にはいかぬという事だ」
 ごきん。
 俺がその手で無造作に殴りつけた近くの木が、音を立てて二つに割れる。俺はちょっと無理したので血が出ているその手を、狂気に満ちた顔でぺロリと舐めた。ああ、なんとなくこういうの一度やってみたかったんだ。今の俺の姿は間違い無く〝恐怖の宇宙人〟であるに違いあるまい。素敵に凄いぞ俺ってば。
「……私を、どうするつもりですか?」
蔵岡さんがじっと俺を見据えながら口を開く。その声は震えがともなっている。どうやら完全に俺の話を信じてくれているようだ。さすがにあの詩織と友達でいられる様な人である。話が早いというか、のりやすいというか。
「何、我は優しいので貴様がこの事を他言せぬと誓うのなら、殺しはせぬ。まあそれが誓えぬというのなら、足元のこれと同じ運命をたどってもらうがな」
と俺は折れた木を踏みつける。もう気分は完全に悪役である。なんだかこのまま突っ走ってしまいそうで自分が怖い。でも、右手はやっぱりお犬さんに噛まれたままなので痛かった。
 無論、劇嘘である。俺が宇宙人のはずもあろうはずが無い。自慢じゃないが生まれも育ちも純度百パーセント地球である。完全無欠に地球人だ。まあ、〝普通の〟まではつけられないところが少し悲しいところなのだが。
 とにかく、こうやって脅して口封じというのをなんとなく一度やってみたかったので、まあやってみてる訳である。するとこれが結構楽しいので、冗談で止めるはずだったのをこのままこれで押しきろうと考えを改めたりして。とにかく、まだ子犬さんは俺の右手を噛んではいる。ついでに唸っている。
「…そうですか。確かにおかしいとは思っていたんです。バディがそんなに敵意をあらわにするなんて、普通の地球人の場合にはあり得ないはずですから。先程の動きも、地球人の能力では実現不可能なはずのものでしたしね。最近この近辺で起きている大型獣による殺害事件というのも、やはり貴方達の仕業なんですね?マイラ星の工作員さん」
彼女はそう言って、一息ついて目線をさげる。俺は彼女の台詞を聞いて、右手にぶら下がったままうーうー唸っている子犬君が、どうやらバディと言う名前らしい事だけを瞬時に理解する。だから心で叫ぶ。痛いぞバディ。放せバディ。
「しかし、よりによって私にそれを話してしまうとはうかつでしたね」
 ばびゅん。
 俺は一瞬、硬直した。
 だっていきなり謎のレーザー光線が、俺のほっぺを焦がしてとんでいったのだ。
 そして恐る恐る視線を戻した先にあったのは、何故か銃らしきものを構えて俺を睨む倉岡さんの姿。
「手をあげなさい。ギャラクシー・ポリスです。貴方の話はすべて録音させてもらいました。罪状は未開の星への不法侵入と、その星の民への悪意を持った干渉。更には無差別虐殺の疑い、そして未開の星への侵略の意思。銀河刑法第九百五条にもっとって貴方を拘束します。反抗しても無駄です。たった今録音したデーターは本部に向けて送信しました。すでに本部の戦艦がこちらへ向かっているはずです。この星の貴方達を一掃する為に」
彼女は、何がなんだかよくわからないけれど、ちょっと警察手帳っぽいものを出して俺に言う。もう片方の手には銃っぽいものを持って俺に向けてさえいる。あれでさっき俺の頬を焦がしたやつを撃ったに違ない様に思えて。
「特級犯罪への未然防止法が適用される為、貴方に黙秘権は認められません。先程の話について本部で詳しく聞かせて貰う事になります。安心してください。銀河刑法第五条により、命だけは保証されますから」
そして何故だか、そう言う蔵岡さんは目が本気だった。

       

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Neetsha