Neetel Inside 文芸新都
表紙

潮騒と幽霊
『第十九章 世界は君を独りにはさせない』

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その時、彼に理解できていたのは『自分が今海にいる』という事と、『自分はもうすでに死んでしまったのだ』という事だけであった。
体は相変わらず言う事を聞かず、立ち上がる事も出来ない。
ぼんやりと岩の上に腰を下ろし、己の膝を見つめていた。

「…大丈夫ですか?」

だから自分に対してかけられた言葉にも最初気付かなかった。
「あの…大丈夫ですか?」
「…え?」
さっきより強めの言葉に、彼はようやく、ずっと上げられずにいた顔を上げた。
そこには、一人の少女が心配そうな顔で立っていた。
(あれ…この子…)
靄がかかったような彼の思考の中に、何かがひらめいて消えていく。
(この子を…知ってる?)
少女は高校生か中学生くらいで、制服の上にコートを羽織っている。
短めの髪が風になびいていて、切れ長の目には不安の色を滲ませていた。
(何か、見覚えが…)
「あ…あの、どうかしましたか?」
「え…あ…いや、僕は…」
彼は慌てて濡れた髪を右手でかき上げた。
もうすっかり、体の呪縛は解けたようだ。
「怪我、してるようですけど…どうされました?」
「ああ、いや、うん大丈夫だよ。それより、き、君の方こそこんな所でどうしたの?一人?」
「え?あ、あたしは…別に…」
色々な事が彼の脳裏を過ぎていった。
しかし何もまとまらない。
彼はすっかり混乱していた。
(まずいな…何て言ったら…くそっ!)
なるべく表情には出さず彼は今自分が何をするべきかを考えた。
頭はだんだんと働き始めている。
(とにかく、今この子を放しちゃいけない…気がする)
「あのさ…」
「…はい?」
気まずい沈黙を破った彼の言葉に、少女は明らかに身構えた。
「よかったら、少し、話し相手になってくれないかな?」
「え?あの、あたし…ですか?」
「う、うん。少しでいいからさ。」
「えっと…」
(しまった…困らせてしまった…)
唐突な彼の提案に、少女は完全に警戒していた。
心の中で何度も舌打ちをしながら、彼は次の言葉を探した。
しかし、まだ本調子で無い頭が答えをはじき出す前に、少女は一歩後ろへと下がり始めていた。
「あの…それより病院に行った方が…」
「あ…うん…そうだね。ごめん…」
少女の言葉に何も返せず、彼は俯いてしまった。
未だ思い出せずにいる『自分』のヒントが、指から零れ落ちるのを感じた。
「あの…」
そんな彼に、さらに二歩ほど後ろへ下がった少女が怯えた様子で声をかけた。
「あの…何かあったんですか?」
彼は顔をあげ、再び少女の方を向く。
体は完全に逃げているが、眼は彼の事を真っ直ぐに見つめていた。
「え?あ…いや、どうも、海に落ちてしまったみたいでね。」
(…そうか、僕は海に落ちたんだっけ)
無意識に自分で答えてから、彼は自分が海に落ちたのだという事を思い出した。
もしかしたら、他にも何かを思い出しているのかも知れない。
「どこから?」
「どこ…?…高い、高いとこから、かな。」
「高いところから落ちたんですか?」
「え?うん、そう、高いところからね。」

ざ………ざ………

波の音がやけにうるさく感じる。
何か話さなくてはと、彼は必死に話題を探した。
「あ、あのさ。君の、名前は?」
「名前…ですか?」
(いきなり名前はまずかったか?)
少女は困った様に視線を逸らした。
彼はまた内心舌打ちをした。
「アヤ…綾子です。」
「アヤ…ちゃんか。」
(綾…子…?知ってる…その名前の子を僕は知ってるぞ)
少女の名前を聞いた瞬間、彼の頭の中に強い光が差し込んだ。
それは一瞬の事だったが、確かに彼は何かを思い出しそうになった。
(何か…何かとても大切な名前だったような…)
「あの…あたしの名前が、どうかしましたか?」
急に黙り込んだ彼を、少女は心配そうに見つめていた。
慌てて彼は笑顔を作る。
「え?いや、何となく聞いたことがある気がしてね。」
「よくある、名前ですから。」
「そう…そうだね。」
(違う、そうじゃない)
彼は確信していた。
(僕はこの子を知ってる)
「あの…」
「え?」
「あの、あなたは?」
「僕?僕の、名前?」
「はい。」
『自分の名前』こんな単純な問いに彼は絶句した。
(僕の名前…)
いくつか頭に名前が浮かんでは消えていく。
しかしどれも自分の名前では無い。
それだけはわかった。
(名前…名前…)
必死に名前を思い出そうとする彼の脳裏に、突然ひとつの名前が浮かんだ。
(ゆ…ゆ…いや、これは僕の名前じゃない。でも…)
その名前は、少女が自分の名前を名乗った時、何故か最初に浮かんだ名前だった。
「あの…」
少女に促されて彼は、とっさに違う名前をこたえた。
「…幽霊。」
「え?」
「僕は…幽霊だ。」
(違う、こんなの名前じゃない…)
思わず口に出してしまった『名前』に、少女は予想通りの反応をした。
「え…?幽霊、ですか?」
「うん。」
綾子は彼との距離をまた一歩遠くした。
「あの…それが、あの、お名前ですか?」
「いや…名前ってわけじゃないけど…」
「生きて…ますよね。」
哀れむ様に言う綾子を見て、彼は完全にパニックになってしまった。
「い、いや、そんな事はないぞ。僕は、立派な幽霊さ。」
そんな彼の言葉に、綾子は突然笑い出した。
それを見て彼は余計むきになる。
「な、何が可笑しい。」
「ごめんなさい。でも、あんまり真剣に言うものだから…」
「あ、信じてないな。僕は本当に幽霊なんだぞ。」
(こんな事を言いたいんじゃないのに…)
気持ちと裏腹に、彼の頭はどんどん熱くなっていく。
その様子に、綾子も苛立っているようだ
「あなた…感じ悪い。そもそも何よ、どうしてそんなに幽霊だって言い張るのよ。」
「え?…いや、それは…」
綾子の言葉に我に帰る。
(別に言い張るつもりは…でも、僕は…もう)
「ほら。」
「ほらって何だよ。」
黙ってしまった彼を、ちょっと勝ち誇った様な眼で綾子は見ていた。
「理由なんて無いんでしょ?」
「そんな…事は無いさ。」
「そうなの?」
(僕は…もう、死んで…)
「実は…記憶が無いんだ。」
「え?」
彼の告白に、綾子はかなり驚いている様だった。
思わず一歩、彼の方へと近づく。
「どうしてここにいるのか、僕が何者で、どうやって生きてきたのか、何も思い出せないんだ…」
「大変じゃない!!なら早く病院に…」
「いや、ちょっと待って。」
(今病院は…)
このチャンスを、綾子との時間を手放すまいと彼は必死に病院へ行く事を拒んだ。
今綾子と離れたら、一生後悔する様な気がした。
「どうして?記憶が無いなんて大変よ。頭を強く打ったのかも…」
「いいんだ。」
「どうしてよ。」
綾子は本当に心配そうに彼を見つめた。
その瞳に、彼の心は何故かひどく痛んだ。
しかし、ここで諦める訳にはいかない。
「君と話していると、何か、思い出せそうな気がするんだ。」
「話ならここじゃ無くてもできるじゃない。」
「ここが、いいんだ。」
「でも…」
「頼むよ。」
食い下がる彼に、綾子は黙り込んだ。
(やっぱり、無理だよな…)
彼がそう挫けそうになった時、綾子は突然、彼の方へと近づいてきた。
「わかったわ。でも、ちょっとだけよ?」
綾子はそう言って、彼の横に腰を下ろした。
「ほんとに、少しだけよ?何か思い出したら、すぐ病院に行くんだよ?」
「ありがとう。」
(助かった…)
思わずそう思った彼の顔を、綾子が覗き込む。
「寒くないの?」
「え?」
言われるまで気にもしていなかったが、綾子の服装からすると今は冬らしい。
しかし、彼は寒さを感じる事が出来なかった。
「あ…うん、不思議と、大丈夫。」
「本当?」
(やっぱり…本当に死んでしまったんだな…)
『わかっていた事』ではあったが、改めて自分の状況を思い彼は自嘲した。
「…本当に幽霊なのかもね。」
「どうして?」
心を読まれたような気がして驚く。
「あたしは…寒いわ。」
綾子はそう言ってコートの襟を立てた。
「ねえ、幽霊さん。」
「なに?」
「記憶が無いから、幽霊なの?」
「え?」
問いの意味がわからず、彼は綾子を見つめた。
綾子はぼんやりと前を見つめている。
「何となくだけどあたし、幽霊って『過去の塊』みたいなイメージ。」
「過去の塊?」
「そう。だって、死んじゃったら、未来が無いもの。」
(未来…)
彼は心の中で『未来』という言葉を反芻した。
それは、おそらくもう彼にはやってこないものだった。
「さ、難しい話はやめて、お話しましょうよ。お話、するんでしょ?」
「あ、ああ、そうだね。難しい話はやめよう。」
(そうだ、今は会話を楽しもう。自分を…自分を見つけるためにも)
そう誓い見つめた海はオレンジ色に燃えていた。
それはまるで、この世で無い様な光景に見えた。

       

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