Neetel Inside 文芸新都
表紙

潮騒と幽霊
『第二十章 霧の中、灯りは滲んで』

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「さ、何を話す?難しいのはもう無しね。」
「うん、じゃあ、そうだな…」
彼は右手を口に当て視線をそらし、考えるふりをした。
実はさっきから綾子を見つめながら、彼はひとつの事を考えていた。
(この子に、何か伝えなきゃいけない気がする…)
その『何か』が何なのかはまったくわからないが、時間が経てば経つほど、その思いは強くなっていった。
(焦っちゃだめだ…まずは、彼女の事を聞いてみよう)
「君の話を、聞かせてくれよ。」
「あたしの話?」
綾子は小首を傾げ、意外そうな顔をした。
「うん。どうして、こんなところに一人できたの?」
「それは…」
一瞬考える素振りをしてから、綾子は彼の方に向き直る。
「お母さんがね、いなくなっちゃって。」
「お母さんが?」
「そう。ある日突然。」
「突然?」
「うん。」
「書置きとかは無かったの?それとも事故とか…」
「ううん。突然ね、何にも言わずにいなくなっちゃったんだ。」
「そっか…そんな様子はなかったの?」
「そんな様子?ああ、ええ、前日まではいつも通りのお母さんだったわ。」
「へえ…」
「お父さんともすっごく仲良しでね。お父さん、今もお母さんをさがしに行ってるの。思い当るところは、もうすっかりさがしちゃったんだけどね。」
綾子の話を聞きながら、顔に出さないように努めたが、彼は今までで一番の胸騒ぎを感じていた。
(僕は…この話を知ってる…?いや…それとも…)
いくつかの映像が頭をよぎる。
頭が痛い。
(もっと、話をしなきゃ…)
渇きを覚えた喉を気にしながら、彼は会話を続ける事にした。
「それで、海に?」
「そう。陳腐でしょ?思わず着いた時に笑っちゃったもん。」
「確かに、落ち込んだ時に海なんてベタだね。」
「ほんと。でも、思ったよりすっきりした。風が冷たいせいかな?」
「かもね。」
何気く話しながらも、彼の思考は乱れに乱れていた。
たくさんの情報が浮かんでは消える。
さっきまで闇雲に開けた引き出しから、今頃になって中身が飛び出してきたらしい。
名前や年齢。
身長に体重。
けれど思い出すのはそんな事ばかりで、現状を把握できるような事は不思議と何も思い出せなかった。
「月ってさ。」
「うん?」
綾子の言葉に彼は顔を上げる。
少しぼうっとしてしまっていた。
「月って、太陽の光を反射して、光ってるのよね?」
「ああ、そうだよ。他の星も、地球だってそうさ。」
「なのに、あんなにきれい。」
「なのに、って?」
「ううん、何となく言ってみただけ。」
「そっか…」
そう話す綾子は笑顔だったが、彼は何故かその笑顔を哀しく感じた。
『何か言わなきゃ』と強く思った。
「月は鏡じゃないからさ。」
「え?」
ふいの大声に、綾子が驚く。
けれど彼はそれに気付か無い。
「確かに月は太陽に照らされて輝いているけど、君がきれいって言う月の姿は、何かを映したものじゃ無い。それは、月本来の美しさなんだよ。」
「でも…月って近くで見るとでこぼこよ?」
「それでも。」
「それでも?」
「そう。」
言って彼はちらと綾子の表情を探った。
(良かった…)
リラックスした表情に少しほっとする。
「何か、思い出したりしない?」
「え…」
綾子の突然の質問に彼はドキッとする。
自分の現状を把握できていない以上、下手に何かを口にしたら、この『見知っているかもしれない少女』を傷つけてしまうのでは無いか、という恐れがあった。
「名前とか。年齢くらいはさ。」
(名前…)
さっきは思い出せなかった、自分の名前だ。
(夏野…草汰…)
しかし今それを口に出すのは怖かった。
この二人きりの時間を、失うわけにはいかない。
「ああ…そうだな…」
草汰はなるべく、当たり障りの無い事を話そうと考える。
(職業とか?えっと、僕の仕事は…)
色々思い出したと思ったが、自分の仕事はまだ思い出していなかったらしい。
「あ…」
「何?何か思い出した?」
「うん。」
(そういえば…僕はミュージシャンになりたかったんだ)
「教えて。何を思い出したの?」
(でも、本当に僕がミュージシャンになったのか?でも、最近も、すごく夢中でやっていた気が…)
「僕は…僕の職業は、音楽家だ。」
「オンガクカ?」
「そう、音楽家。」
『ミュージシャン』というのが違う気がして、思わず草汰はそうこたえたが、正直その響きには違和感があった。
(違ったかも…)
今更訂正もできず、草汰は照れくさくてうつむいた。
綾子は『音楽家』という言葉が非常に気になった様だが、草汰はしどろもどろこたえるしかなかった。

「海にいるのは人魚では無い。」
「え?」
そんな時、綾子が突然そう呟いた。
「知らない?中原中也。」
草汰は知らないと素直にこたえた。
「『海にいるのは人魚では無いのです、あれは、波ばかり』ちょっと間違ってるかも知れないけど。」
「それが?」
「うん?何かね、海見てたら思い出したんだ。」
「そっか…」
返す言葉も無く草汰は黙ってしまった。
静寂。
「ほんとね。」
それを破ったのはまた綾子だった。
「何が?」
「波、ばかり。人魚なんて、全然見えない。」
「まあ…ねえ…」
「幸せみたいね。」
「幸せ?」
「そう、幸せ。日常の波間に幸せって人魚をさがしても、いつも、波ばかり。」
「ああ…」
また、綾子は寂しそうな顔で笑った。
草汰の胸に、再び謎の使命感が沸き立つ。
「でも。」
思わず草汰は立ち上がった。
いつの間にか、体はすっかり動くようになっていた様だ。
綾子は驚いた顔をして草汰を見上げている。
「急にどうしたの?」
「ほら、こうやって見たら見つかるかもしれない。」
「何が?」
「人魚さ。」
綾子もよいしょと立ち上がる。
二人が見つめる海は、月明かりにきらきらと煌めいていた。
(人魚…)
正直、草汰は自分でも何を言っているのか、わから無かった。
しかし黙って海を見つめていた綾子は違ったらしい。
「…ほんとだ。」
「え?」
「いるかも、人魚。」
そう言って笑った綾子の表情は、草汰の心を満たした。
何かの贖罪の様な感覚だと思った。
「座ろっか。」
「うん、そうだね。」
二人で岩の上に腰をおろす。
(冷たい…)
その時ようやく草汰は、その岩の冷たさを感じた。
(僕は…まだ生きているのか?)
草汰は自分の鼓動を痛いくらいに感じた。

「今、何時かしらね。」
綾子の言葉に、草汰は無意識に手首へと目を落とす。
いつもつけているはずの腕時計がそこには無かった。
「さあ…僕は、ちょっとわからないけど…」
「そうよね。」
「帰りたくなった?」
「え?」
何気なく言った草汰の言葉に、綾子はひどく驚いた様だった。
眼を丸くして草汰を見つめる。
草汰は何だか照れくさくて視線をそらした。
「ほら、話をしてても、退屈だろうし、帰りたくなったかなって。」
「そんな事無いわ。けっこう楽しいもん。」
「そ、そう?」
「うん。こんなに人と話したの久しぶりだしね。」
「そうなの?」
「うん。お父さんもお母さんもいないし、誰に聞いたのか、友達もお母さんがいなくなっちゃったの知ってるみたいでさ、何か、変な距離感じるんだよね。」
(僕のせいなんだな…)
経緯はわからずとも、草汰には何故か確信があった。
綾子に寂しい思いをさせている元凶は、自分。
(早く、思い出さなきゃ)
しかしすべて思い出したところで、自分に何ができるのだろう?
草汰は怖くなって、今は考える事をやめ、話を続ける事にした。

会話はそれなりに弾み、綾子はずっと笑顔だった。
さっきはその笑顔に心が満たされたが、今度はひどい罪悪感が草汰を襲った。
「まださ、出会ってたぶん1時間か2時間くらいだけどさ。」
「うん?」
そんな草汰に、綾子はニコニコと話しかける。
「最初は、けっこう怖かったんだけどね。」
「怖かった?」
「当り前でしょ?でもね、今は不思議と大丈夫。」
綾子の言葉に、草汰は突然涙が出そうになる。
(ああ…僕は…)
草汰には、綾子を引き止める事に必死で、今まで気付いていない事があった。
「もう少し、おしゃべりしよっか。」
「…ありがとう。」
(僕は…怖かったんだ)
記憶が無いという不安、恐怖。
そんな事さえ、今まで自覚していなかったのかと草汰は自嘲する。
ふと空を見上げる。
月だ。
さっきから月を見ると、何かを思い出しそうになる。
自分がここにいるきっかけの様な…
「…って、ねえ。」
「え?」
綾子に呼ばれて草汰は視線を戻した。
「今、聞いてなかったでしょ?」
「あ、ごめん。なに?」
「もう言わない。」
「教えてよ。」
「いやよ、恥ずかしいもん。」
「恥ずかしい事?」
「ないしょ。」
そう言って頬を膨らませる綾子は、まだまだ小さな子供の様だ。
「…あたし、けっこう、寂しかったんだ。」
「え?」
「また聞いてなかった?」
怒った綾子の顔が、やっぱり子供みたいで微笑ましくて、草汰は聞こえないふりをした。
「…ないしょ。」
「もう!」
綾子はぷいっとそっぽを向いた。
(僕は…)
草汰はその横顔を、泣き笑いの表情で見つめた。
(僕は、最低の人間なんだな…)
涙が流れ無かったのが幸いだと、草汰は思った。

       

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