Neetel Inside 文芸新都
表紙

いっぱいの光を脳に
空腹が故に出会う。 Hunger is stronger than decency

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 口に含んでいたペットボトルのお茶を理恵に向かって思い切り吐きだした。でもこれは理恵が悪い。「小説家になりたいだなんて、小説を初めて読んだ小学生みたいなこと言うのね」と私のことを馬鹿にしたからだ。ただ私は何もそんな理恵の言葉にブチキレてお茶を吐き出したわけではなくただ怒りのポーズとしてお茶を吐き出しただけ。理恵とは小学校からの付き合いだがこいつは他人に何をされても怒らない。笑わない。泣かない。だから必然的に理恵に対する私の態度も直情的と言うかいささか過剰な動きを伴うようになった。理恵は、顔面もメガネも食べていた理恵ママの手作り弁当もびしょびしょになったが、何も言わず眉ひとつ動かさずポケットティッシュを取り出すだけだった。
 改めて頭がおかしいと思う。

「ねぇ、彩子にとって面白い小説ってどんな小説?」理恵はびしょびしょのお弁当を食べながら言う。
「そうだね。舞城王太郎の『煙か土か食い物』かな」
「違う。あなたにとって面白い小説っていうのは、一言で表すとどういう小説なの?」
 面白い小説か。どういう小説だろう。面白い小説を挙げろと言われれば挙げられるがそれがどういう小説なのかと言うと「?」。どうせ理恵との会話にテンポなんてないので私はゆっくり考える。
 そもそも面白さといったってひとつじゃなくて笑い、泣き、興奮、感動、驚き、共感、安らぎその他諸々全部面白さに含まれるのだ。『煙か土か食い物』も『ある閉ざされた雪の山荘で』も『われ笑う、ゆえにわれあり』も『神は沈黙せず』も『夢の樹がつなげたなら』も『独白するユニバーサル横メルカトル』も『ミザリー』も『ももこのいきもの図鑑』も『ブラック・ジョーク大全』も面白かったが全部面白さは別物で抱いた感情に共通点なんてないように思える。単純に「笑える小説」とか「泣ける小説」とか言っても面白い小説の全てではなく一言で表したことにはならないのだ。だから一言で答えを出すなら「心揺さぶられる小説」とか「感動する小説」とか抽象的な表現を用いればいいように思えるが、問題は全く心が揺さぶられたり感動したりしないでも面白い小説というのはあることだ。やはりそういう感情系の単語では面白い小説を一言で表せない。では「続きが読みたくなる小説」とか「最後まで読んでしまう小説」とか、行動系の単語を当てはめればいいかとも思うが、中には面白くない小説でも続きが気になったり間違って最後まで読んでしまうこともある。いや、続きが気になったり最後まで読んでしまったりしてる時点でそれは面白い小説といえるのだろうか?分からん。

「分からん」と私は答える。
「そう。ねぇあなた、小説書いたことあるの?」
 ない。
「あるよ。今朝、一作完成させたとこ」
「ふぅん。今度読ませてね」
「今度と言わず、今すぐ読ませてあげるっすよ」

 私は指先をお茶でぬらして、学校の汚らしい机に文字を書く。『私は』と。
理恵はそれを見つめる。眉ひとつ動かさない。

「これが私の処女作。タイトルは『凍える森に我が心は舞い降り、安息へ』」
「タイトルのほうが本編より長いのね」
「そんな感想しか持てないとは。やっぱり文学的センスが合わないよね私達」なんつって、さすがに今のはジョークで、文章なんて国語の作文の時間にしか書いたことがないと言うのが恥ずかしくて咄嗟に考え付いたその場しのぎだが、理恵と私の小説の趣味が合わないということは確かだ。理恵は私の好きな舞城王太郎を「読んでいて疲れる。生々しい比喩表現が吐き気を催す」と言ったし私は理恵の好きな赤川次郎を「単調すぎて飽きる。読んでいると仕事をしてるような気持ちになる」と言った。理恵は他人に何をされても泣かないくせに、授業中に隠れて赤川次郎の「ふたり」を読んでわんわんと号泣したという過去を持っている。頭がおかしいと思う。

 私は突然お腹がすく。
「ちょっと学食でパン買ってくるからお金貸して」と言って私は手の平を差し出す。理恵はそこに五百円を置いてくれる。そういえば小学校三年生の時に私がポテトチップスを買うためにお金を借りて以来私は理恵に一度もお金を返していない。催促しない理恵も悪いのだ。こいつの親は両親とも教師で、安定して裕福な家庭だからお金に頓着がないのかもしれない。

 私は奇異の目で見られながら廊下を歩く。来客用のスリッパですぱこんすぱこんと威風堂々歩いているスウェットがいたらそりゃ誰だって奇異の目で見るだろう。私は気にしない。気にしないどころかお前らこそどうなんだ、という気持ちで私は歩く。そうやって皆で同じ格好して同じこと勉強して同じような内容の感想文を書いてる場合なのか。顔も同じみたいになってるぞお前ら。
 でも、と私は思い返す。でもそれが悪いって訳じゃない。皆で足並みそろえて同じようにやって同じような人間達になって社会に役立つことだってそれはそれでまずまず素晴らしいことなのだ。私だって別にそれが嫌で学校を辞めるわけではない。ただ単に私が生きたいように生きるためにはそれらのことは必要ないってだけだ。誰かが正しくて誰かが間違っているというわけではない。お前らだって正しいよ。せいぜいこれからもそうやって正しく頑張って。

 学食の手前の廊下で私の担任でもある、いや"元"担任か。もうこいつに私を受け持つ力などない。そんな力なき国語の木村と出くわした。
「佐々木、お前まだそんな格好してたのかあ」と木村は惣菜パンを5、6個小脇に抱えながら言う。
「先生って教科書以外で小説とか読んだりします?」と急に私は問いかける。
 こんなふうに言うと私は教師を馬鹿にしてる世間知らずのアホ女子高生のように見えるかも知れないがクラスの中では私は木村を馬鹿にしてないほうだ。私はただ純粋に木村は教科書に載ってる以外の小説を読むことなく国語の教師になったのかもしれないと気になって、この際だから聞いてみたのだ。
「うん。色々読んでるよ」
「先生にとって面白い小説ってどんな小説ですか」
「リアリティのある小説だな」意外なことに木村は即答する。こう聞かれたらこう返す、と用意していたのだろうか。
 リアリティ。木村が言うと阿呆みたいに聞こえるが意外と簡単ではない言葉だ。現実離れした出来事が起きなければそれはリアリティのある小説かというとけしてそんなことはなく、現実離れした出来事が起きる小説であればあるほどリアリティがあればあるほど面白い話になるのだと思う。?。簡単ではない。

 reality 【名詞】
 1.実際にある、または起きるということ。
 2.現実のこと、もの。実際に起きる。存在するもの、こと。
 3.迫真性、現実への近さ、リアリティー。

「迫真性」というのが恐らく大事な要素だ。リアリティがふんだんに含まれていてなおつまらない作品というのもあるのだろうか。リアリティを全く含んでいなくても面白い作品というのはどういうものだろうか。エッセイ的な作品にしても大抵はリアリティを大量に含んでいるからね。リアリティという言葉だけで面白い小説の全てを表現しているとは当然言えないが木村の答えはちゃんと私の心に残った。
 力なき木村の放った小さな小さな砂の塊は、私の中の清潔で透明な水溜りにかろうじで塊のまま届き、控えめな水音と波紋を残し溶けて混ざった。文学的表現。

「ためになりました。先生」
「授業中にそういうこと言えよお前」
「あ、近々私の名前を本屋さんで見かけることになると思うんで宜しくお願いします。サインなら焼きそばパン一個で承るっすよ」
 木村はきょとんとした顔で「?」。こいつにあんまり長い台詞を喋りかけると喋り終わった時点で台詞の最初のほうを忘れてしまうので言葉が通じないのだ。なんつって。
「何でもないっす。そんじゃばいばい」さらば木村。小さい小さい木村。体は大きいけどな。これからも正しい空間の中で正しさを量産し続けるがいい。


 私は学食でパンを買おうとするが、もうまともなパンは残っていなかった。カタツムリの味がすると評判の「頭脳パン」と生臭さが売りの「ブルーチーズパン」しかない。多分、木村が最後に買っていったせいだ。馬鹿。私はもう学校にいるのが面倒くさくなってきたので家に帰ることにする。どうせ姉はもう仕事に行っていて家にはいないはずだから大丈夫だ。

       

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