Neetel Inside 文芸新都
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夏への扉
5日目 夢

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「書を捨てよ、町へ出よう」

天使が現れてから、5日目の朝陽が昇った。母親はもう仕事へ出ていって、この家には二人だけ。
今日も予定なんかなく、ひねもすのたり寝て過ごそうと思っていた。なのに、ドアがまた何か言い出したのだ。

「はぁ?」

読んでいた漫画から目を離して、彼女を見る。ドアはぶっきらぼうでいて、藪から棒に繰り返した。

「書を捨てよ、町へ出よう」

この台詞には聞き覚えがある。しばらく視線を左へ向けて考えると、もやもやしていた記憶が色づいて蘇ってくる。

「ああ、寺山修司か。どこでそんなこと覚えた?」
「本に書いてあった。その通りだと思う」

ドアの目線の先を追うと、本棚に一冊の本を見つけた。確か、いつかに母親が買ってくれたのだ。初めのほうしか読んでいないけれど。
寝転がっていたベッドから上体を起こして、ハチは彼女と刺し向かう。窓からは眩しい光が差し込む。朝が必死に朝を告げているんだ。

「表に出たって、俺が死ぬことにゃ代わりないんだろ」

ほとんど独り言のような声だったが、こんな狭い部屋。聞こえないはずもなくて、ドアはやっぱり表情を変えずに答えた。

「なにかのきっかけがあるかもしれない」
「そうかねぇ」

生返事をするだけで、再び漫画へ視線を戻す。だってまだ5日目。一ヶ月なんてずっと先なのだ、まだまだ煮詰まるには早い。ような気がする。たぶん。
漫画の中では、主人公が世界を守って戦っていた。この戦いが終わったら結婚しようだなんて、吐き気がするほどロマンチックな台詞を吐いている。そして死へ一直線。
どうせ死ぬのならば、なにかを成し遂げたい。そんな漠然としたことはずっと考えていた。けれど、なにを残すか、なにをすればいいのかは見つからない。
きっと、笑えないくらい笑っていない人生に、風穴をぶち開けるのは自分なんだ。なにかを始めなきゃ、きちんと終われないんだ。でも、なにかってなんだ。
ベッドの隣では、彼の頭を見下ろす少女がいる。ドアは天使。なにかがなにかってことを、知っているのかもしれない。しかしそれを、ハチは知らない。
ドアはしゃがみこんで、ハチの耳元でもう一度、囁いた。

「書を捨てよ、町へ出よう」
「あーあーわかったよ、うっせえな」

バンと漫画を閉じると、後ろ髪をぼりぼりとかいて溜め息を零す。まったく、漫画にさえ集中できない。
外へ出ても、なにも変わりやしないって、思う。ただハチだって、期待がないわけじゃあない。ドアの言うとおりに、きっかけはあるのかもしれない。
漫画を本棚に戻して、寝巻きを脱ぐ。ドアの頬がほんの少し、弛んだような気がした。たぶん。







太陽は血も涙も容赦さえもなく街を照り付け、紫外線は道路を焦がす。もうすぐ夏がくる。ハチの全部の終わりも来る。
携帯電話の液晶を見ると、デジタルがお昼前を示していた。道行く人たちはまばらで、小鳥が地面を突っついている。
ハチはシャツにジーンズという、なんとも味気のない格好で街路樹を歩いていた。彼の隣には、真っ黒なワンピースを着たドア。それしか服ないしね。

「……暑くないのか?」
「平気」

彼女の白い肌は、奇妙なくらい光を寄せ付けない。頬に汗でも浮き出てりゃあ可愛げがあるけれど、飄々とした表情は崩れていない。
ドアの提案によって外出したのだが、これと言った目的もなかった。パチンコ屋さんに行く気分でもないし、空腹も感じない。ないことしかない。
知らない虫が、知らない場所で鳴いている。木の枝は葉を鳴らして、風の子供たちが渡っていく。屋根の上のバイオリン弾きだって、こんな日には寝ちゃうだろうなって、思う。なんて。
しばらく無言で歩いていると、駅前の大きな噴水までやってきた。
水の飛沫がふざけたような虹を作って、ちょっとばかりの涼しさを演出している。みんなが集まってきてんじゃないかってくらい、たくさんの人がいた。
それぞれが銘々に、定食屋さんを探したり、忙しげに腕時計を気にしたり。いろんな時間を生きているんだ。
その中の一人。作業着を着たお婆さんが、緑のカートを押しながらゴミ拾いをしているのが見えた。ハチは無意識に、その姿を眺める。
お婆さんの顔に刻まれた皺からは、相応に歳を取っているように感じた。けれど、背筋はピンと張っていて、そこいらの若いやつよりもよっぽど覇気があるような。もちろんそれは、ハチよりも。

「どうかしたの」

お婆さんの姿から目を離せなかった彼の耳に、ドアの涼しい声が届きかかる。高架の上を列車が過ぎていき、無理に作られた風が、遅れて噴水の水面を揺らす。
その風に吹かれて、足元にジュースの空き缶が転がってきた。いつもなら無視しているのだろうけれど、目の前でゴミ掃除をされていては、気が引けてしまう。ハチは屈んで空き缶を拾うと、ドアを残してお婆さんの下へ向かった。

「あら、ありがとうね」

カコンと軽快な音を鳴らして、カートの中に空き缶が納まる。振り返ったお婆さんは、丁寧に頭を下げた。

「手伝うよ」
「いんや、いいよ。仕事だからね」
「暇なんだ。手伝わせてくれ」

どうせ、なんの予定もないのだ。家に帰っても漫画を読んで時間を潰すだけ。せっかく外に出たのだから、少しくらい汗をかいてもいいんじゃないか。そんな気持ちが加速して、思うよりも先に言葉が出る。いつの間にか隣に並んでいたドアを見ると、彼女は無表情で頷いた。
しばらく困惑したように唇を結んでいたお婆さんも、すぐにまたさっきの笑顔を零す。

「そうかい、それなら手伝ってもらおうかね」

天使の力を手に入れてから五日目。なんだかやっと、心臓が菱形に戻ったような気がした。たぶん。







地面を睨みながら、ゴミを拾って道を進む。その足取りはとてもゆっくりだってのに、ハチを知らない場所へと確実に連れて行く。若い人とすれ違うたびに、彼はゴミ拾いの手を止めていた。関係ないような顔をして、恥ずかしさをやり過ごしているのだ。それとは対照的に、ドアは律儀なまで、目に留まる全部のゴミを拾う。どっかの家のプランターを持ってきた時には、お婆さんも苦笑いだったけれど。

「そろそろ休憩しようか」

手伝いを始めてから一時間ほど経ったころ、お婆さんが言った。ちょうど、遊具の見える公園の前で、緑のカートを止める。

「なにか食べるかい。ご馳走するよ」
「いや、いいって」
「お給料の代わりだから。あんまり高いものは無理だけれどね」

皺くちゃの顔を弛めて微笑むお婆さん。ハチは「どうも」と呟いてから、後ろに立つドアを見る。すると彼女は白い腕をまっすぐ伸ばして、公園の中を指差した。

「あれがいい」

その先にあったのは、クレープの屋台。昼飯としては物足りない感じもするが、どうせ奢ってもらうのなら。確認するようにお婆さんへ視線を向けると、返事の代わりに大きく頷いてくれた。
お婆さんを先頭にして屋台の前に立って、それぞれにメニューを見る。クレープなんて久しぶりに食べるから、ちょっと迷っちゃうハチ。一方でドアはもう決まっているようで、二人が選び終えるのを待っている。彼女の隣でお婆さんは、人差し指を咥えて看板と睨めっこをしていた。キュート。
それから五分後。ベンチに腰を下ろした三人は、みんな違う味のクレープを持っていた。ちなみにお婆さんはチョコバナナを食べていて、「若い頃を思い出すねえ」なんて言っている。なに言ってる。
ベンチの右側で、ドアは器用に舌を伸ばしてクリームを舐め取る。なんだかいけない妄想をしちゃいそうだったので、ハチは慌てて目を離した。

「お兄ちゃん、歳はいくつだい?」

口の周りをハンカチで拭ってから、お婆さんが尋ねる。その声は皺枯れておらず、とても澄んで空気を渡る。

「21だよ」
「あら、そうすると……巳年でしょう?」
「そうだけど。なんでわかんの?」
「私とちょうど三回り違うからね」

ということは、彼女は57歳だろうか。ハチは暗算が苦手でわからなかったが、ドアは一瞬で理解できた。天使だからね。
眉間に皺を寄せる少年を見て、お婆さんはふふふと笑って続ける。

「お兄ちゃん、夢はあるかい?」

公園の前の道を、乱暴にバイクが駆け抜けた。低いエンジンの音は逃げ水を追いかけて、段々と薄れていく。
お婆さんの問いかけに、ハチは答えられなかった。ドアはもちろん何も言わないし、ただ蝉の鳴き声だけが耳をつく。そして、お婆さんはまた笑う。

「私にはある。みんなは笑うけれどね、夢があるんだよ。それはそれは素晴らしいもんだ。夢は素晴らしい。これだけは、信じていいことなんだよ」

彼女の双眸には、もはやハチもドアも、この公園にあるもの全部でさえも、捉えてはいなかった。蜃気楼を眺めているように、遠くに焦点を合わせて。時間さえも飛び越える、とても遠くに。

「ずっと、小さい頃から歌を歌うのが好きだった。演歌もオペラも、みんな大好きだった。いつか私も人前に立って、全力で歌いたいと思っていたんだ」

なんか聞いてもいないのに話し出したお婆さん。でも本当に聞いていない人はいない。ハチだって、ドアだって。口を挟まずに耳を傾ける。まあ聞きたくなくても聞こえちゃうけども。

「それで、今まで夢を追ってきた。今でもそうだし、今からもそうだと思う。こんな歳になって、歌手になりたいって。笑ってしまうだろう?」

彼女はきっと、夢を諦めるタイミングを逃してしまったんだ。生活に首を絞められても、年齢が足枷になっても、夢を追わなければいけなくなったんだ。
そうしないと、彼女の生きた理由がなくなってしまう。今までなんのために生きてきたのか、その意味がなくなってしまう。

「でもね、ここまで来ちゃったんだよ。だから、今さら無かったことになんて、できないんだよ」

生温い風が渡って、ドアの長いポニーテールを靡かせる。雲が引きちぎれて、やがて別の雲とくっ付いて大きくなる。クジラみたいには見えないけれど、本気出したら乗れそうだ。

「夢を見るってことは、本当に怖いことだ。人生ぜんぶ、夢を追いかけるだけで終わってしまうかもしれない。やがて挫折したり、ほかに大事なものができてしまうかもしれない。けれどその時、今まで夢を追いかけ続けてきたんだ、なんていきさつは、なんの肥やしにもならない。わたしはね、この世で一番大きな賭けは、夢を見ることだと思うんだよ。上手い具合に成功したって、そのさき生きていくだけのものにはならないかもしれない。死んでからやっと認められるかもしれない。わからないことだらけで、本当、まいってしまうよ。でもね、わたしはそんなものに魅入られてしまったんだ。まったく、損な人生だよ」

お婆さんはまるで感情も入れずに、公園の向こうを眺めていた。その目にはなにも映っていなくて、とろんと曇って見える。それにしても話長いなって、ハチは思う。ドアはまだクレープ舐めてるよ。
視界の隅っこで、ジャングルジムに登った子供たちが騒ぎはじめた。そっちの方が気になっちゃって、膝を伸ばすハチ。それを見て、お婆さんは顔にいっぱいの皺を作って微笑んだ。

「お兄ちゃん。若いんだから、暇だとか言ってちゃいけないよ」

よっこいしょ、と声を零し、お婆さんが腰を上げる。それはドアがやっとクレープを食べ終えたのと同じタイミングだった。

「歳なんてすぐに取る。夢があるんなら、すぐにでも追いかけないと。無いんなら探さないといけないよ」

どうして彼女は、こんなことを言うのだろうか。ハチのことも、ドアのことも。なんにも知らないくせに、どうして言えるのだろうか。年の功がなんだ。夢のひとつも叶えられていないくせに、どうしてそんな目で二人を見られるのだろうか。
ドアがどんな顔をして、どんなことを思って、彼女の話を聞いているのか、ハチは知らない。拳をぎゅっと握り、それから奥歯も噛み締めて。お婆さんと瞳を合わせる。ドアもゆっくり立ち上がる。

「年を取ると説教臭くなっていけないね。すっかり長居してしまった」
「あ、いや」
「そろそろ仕事に戻るよ。二人とも、手伝ってくれてありがとうね」

そう言うと、お婆さんはカートに手を伸ばした。じゃりじゃりと土を巻き込みながら、その影は去っていく。彼女の背中にハチは見入る。
残された二人は何も言わず、やがて公園の中は子供の笑い声だけが溢れた。ドアから見えるハチの頬は、なぜか少し強張っているように感じた。







いつもとは違う道を通って、家に向かう。その家路はとても新鮮で、初めて見る夕暮れの街並みが漫ろに二人を囲む。
お婆さんと別れてから、もう三つ目の角を曲がった。そろそろ見覚えのある景色が広がっていく。

「生まれてきた意味のないやつなんていない、なんてよ。誰が言ったんだろうな」

ドアの少し前を歩くハチが、アスファルトを眺めて言った。蝉の抜け殻と、干乾びたミミズと。ガムの亡骸と、タバコの吸殻と。全部が後ろに流れていく。

「あんな歳にもなって、まだ夢を追ってんだ。俺が生まれる何十年も前から」

柿色の空がどんどん朱に染まり、それから紫色に変わった。ちょっと早めに出てきちゃった月が、照れくさそうに光っている。
ドアはなにも言わない。ハチの心のもやもやを、きっと彼女はわかってくれないのだ。だから、ため息を吐いて誤魔化すことしかできないんだ。
あのお婆さんの言葉が、その声のまんま、頭の中に木霊した。歌手になりたいという夢を追って、まだ叶えられずに、生きるために仕事をしていたお婆さん。シドビシャスだって21歳で死んだし、スーザンボイルだって47歳で花を咲かせたし。それなのに50を超えたお婆さんが、半生を過ぎてなにができる。

「あの婆さんの、生まれてきた意味ってなんなんだろう」
「叶わない夢を見るために、生まれたのかもしれない」

黒い影を細く伸ばして、呟くようなドアの声がハチの心臓を掴んだ。慌てたように、繰り返して伸縮を急ぐ胸。
ハチの足が止まる。喉が息の仕方を忘れてしまったみたいに、意識しないと呼吸ができない。それほど、彼女の言葉は不自然で、一番聞きたくのないものだったのだ。
道を進まないハチの隣に、ドアの小さな肩が並ぶ。視線だけを動かして少年を見ると、彼女は全部を理解してしまった。

「もしかして、」

ドアの瞳が、真っ黒の瞳が、ハチを突き刺すように見つめる。

「きみ、力を使ったの?」







5日目
「夢」



【残り26日】



       

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