Neetel Inside 文芸新都
表紙

アンダンテ&スタッカート
第二十一話「歩くように、時に跳ねるように」

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 俺に妹がいたことを知ったのは、彼女が死を想ってからであった。
 彼女の方は僕がそうであることに気づいていたようだが、敢えてそれを言おうとしなかったのは、それによって俺がどうなるか、一体どんな反応をするかが怖かったのだと思う。それもその筈だ。あの時俺は彼女に強い好意をもって接していたし、彼女もどことなくそれに気付きながら、友人という域でひたすらに接し続けていた。
 ドラマのような出来事はまるでなかったし、実際その事実がもっと早く分かっていたならば、別離状態にある母のこと、時折名前を言い間違える父のことをもっと早く知れていたのならば、少しだけ違う立場にいれたかもしれない。
 明良にも、隣にいる彼女にも、そして狂気を共にしてきた親愛で憎い共犯者にも理解してもらうつもりはない。俺だけの、いや、俺と亜希子だけの小さな小さなくだらない思い出だ。

   ―アンダンテ&スタッカート―
   ―第二十一話―

「ユキヒト君って、漢字はないの?」
 単純な疑問から、亜希子はそう俺に近づいてきた。戸惑いながら、俺はあるにはあるけれども、とコンプレックスである高い声に顔をしかめながらも返答した。漢字で名を書くことを何故か止められていた。別におれ自身それほど名前に強い執着があるわけでもなく、ユキヒトという名はそこそこ一般的で落ち着いていて、むしろ良かったとすら思っていた。
 友人の名前に時々憧れることもあるのは確かだ。やはり漢字で名を書くとがっちりと収まるし、奇麗なのだ。小さい頃から字だけは綺麗だと褒められてきたからか、そこが少し心残りでもあった。明良といった名前等ぴたっと書きこなせれば映えるに違いない。
「教えてよ」
 亜希子は微笑むと、後ろ手に手を組み、俺に顔を近づける。俺は数歩引いてから視線を思わず逸らす。高校に入って最も可愛いと思った人物だ。突然声をかけられれば戸惑い、胸を高鳴らすのは仕方ないと思うのだ。
「うーん、でも何故かあまり知られてはいけないらしいんだ」
 その言葉に、亜希子は頬を膨らませる。
「お願い。ずっと気になっていたのよ」
 彼女はそう言ってしつこく食い下がる。しばらく押し合い引き合いが繰り返されたが、戸惑う俺と攻める彼女、勝敗はその時点で既に決まっているようなものであった。
――幸人
 亜希子はしばらくその名を見つめていた。何かおかしい名前ではないはずだ。幸せな人。良いじゃないか。単純且つシンプルな願いの込められたものだ。
「うん、シンプルで良いね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
 亜希子の言葉に俺は微笑む。どこか彼女の表情が寂しげなのは、果たして。
「宮下の名前も、結構好きだけどな」
 なんとなく言ってみたのだが、それから俺はしまったと口を閉じ、そうして熱を帯びていく自らの頬を隠したくて仕方なくなっていく。
 だが、そんな反応とは裏腹に彼女はとても嬉しそうに俺を見ると、でしょう、と言った。思うと、ここまで表情豊かな彼女の姿を見ることができたのはこれが初めてであったし、いつもの少し他と一線を引くような態度を思うと、その印象の違いに意外性を覚えざるを得ないといった部分はあった。
 人見知りであるのか、はたまた単純にお高くとまっているだけなのか。
 なんにせよ、馴染めば良い子であることは間違いないようであった。
「ねえ、折角だからあだ名で呼んでもいいかしら?」
「あだ名? 良いけれど、やけに積極的だね」
 少し皮肉もあったんだと思う。けれども彼女は悪戯な笑みを浮かべると「とても嬉しいのよ」と言って、それから俺のことをサチと呼んだのだ。
 その名に関して何も感じることはなかった。父からはたまにその名前で呼ばれていたし、親しみのある感覚で呼ぶものだから俺もすっかり順応していたのだ。
 今思えば、それはきっと唯一の兄を見つけることのできた喜びからくるものであったのだろう。

   ――――――

 暫くの間俺と亜希子の会話は定期的に行われた。大抵は彼女の方から勝手にやってきて、好きなだけ会話をしてから勝手に去っていく。初めは何か誘っているのだろうかと邪な感情を抱きもしていたのだが、その会話の時とてもリラックスしている自分がいることを感じ始めてからは、どうでもよくなっていた。ただ亜希子と会話する時間がこれからも続けばいい。そう思い続けていた。
 けれども、流石に高校での生活も終盤に向かい始めるとそれは中々難しくなり始め、三年の中期には定期的な会話も少なくなってはいた。
 だから、そう。どこかで繋がりがほしかったのだと思う。そんなことがなくても俺達はちゃんとつながっているのに、その時の俺はなんだかとても色々なことに焦っていたのだ。
 なんとなく購入したダイアリーブックを、彼女にプレゼントした。特に校外で会うことをしないし、多分缶ジュースとかそういうものを除けばそれが俺が唯一好意を込めて贈ったものだったと思う。
 それを渡したとき、亜希子はとても嬉しそうに笑ってから、また名前を聞いた時のようなさみしげな表情を浮かべ、それから手帳を開いて笑ったのだった。
「本当に、サチの字は丁寧よね」
――大したものではないが、君に贈る。 サチ
 それだけが取り柄なのだと、俺は笑いながら言った。
 彼女は大切に使うと、ずっと使い続けると言って日記を思い切り抱きしめてくれた。そんなに丁寧に扱うものでもないよ、と俺は笑っていったのだが、とてもうれしいから絶対に大切に扱うんだと彼女は言って聞かず、なんだかそれが俺には嬉しかった。
 好意を覚えている異性に喜ばれることは、とても嬉しいことだ。

 でも、その感覚を彼女に覚えることができたのは、これが最後であった。
 それから暫くして、亜希子は命を絶った。明良の目の前で飛び降りたのだ。

   ―――――

 葬式には父と共に参加し、白と黒でセッティングされた会場はなんだかリアリティを感じられなくて、そこだけが景色から浮き出ているようにさえ感じられた。俺と亜希子がとても親しかったことは誰も知らなかったと思うし、俺も知られてほしくなかった。
 多分これは独占欲というやつだ。
 ふと、俺の前に座った男に目がいく。思わず唇を噛み締め、拳を握る。
 目の前の男性の背中を、俺はよく知っていた。宮下亜希子の最期を看取った男だ。
「――明良」
 思わずもれた言葉にしまった、と口を閉じるが、もう遅かった。男は振り返ると俺を見て、それから目を伏せる。その一挙一動の行動がとても悔しくて、彼の立場にいない自分に苛立ちを感じてしまう。
 何故亜希子の死を自分が看取ることができなかったのか。何故彼女は俺を選んではくれなかったのか。
「大変、だったな」
 身を案じるような薄っぺらい言葉を絞り出すと、明良は少しだけ目を閉じ、それから微笑むのだった。まるで大丈夫だとでも言うかのように一度だけ頷くと、それから彼はふたたび前を向いた。
 それが、また俺の心の中をがりりと削る。悲劇の少年としての地位を確立した彼は今どんな気分なのだろうか。亜希子という存在に最も近かったという事実を手に入れて、どう思っているのだろうか。
 すべてが欲しいと思ったのに、手に入れられなかった俺は何故、自身の想いを隠蔽してまで彼の身を感じているのだろうか。
 すべてが理不尽で、全てが思い通りにいかないこの世界が、悔しかった。

「――」

 ふと、思い浮かんだ言葉に俺の思考が停止した。それはきっと、いや確実に否定し続けなければならない言葉だったのだろう。だが、俺はそれに納得してしまい、それから雪崩れ込むようにしてやってくる感情の波に吐き気を催した。
 静かに、本当に静かに俺は立ち上がると、会場を出てトイレへと向かい、それから誰もいないことを確認してから個室へと入った。
 吐き気は、途端に別の生物へと変貌し、俺の口から“笑う”というカタチとなって流れ出した。
 ただ身を捩るように、拳を握り締めて壁に叩きつけ、頭を?き毟り、笑い続けた。自らの思考のどうしようもなさに笑うしかなかった。多分誰かに見つかれば気をおかしくした人に見られるかもしれない。いや、もうおかしくなっていることは事実であるのだが。

――俺は宮下亜希子の死を悲しんではいない。

 死因を聞いてまず思ったこと、それは綺麗であったのだろうということだった。窓からはらりと風を孕んで揺れるスカートが、そこから覗く二本の白い足が、憂いを帯びた表情が。
 全てが、この世の何よりも奇麗だったのだろうと思ったのだ。

 暫く笑い転げていると、涙が溢れてきた。それは笑い続けたことによる呼吸の困難さや、腹部の苦しみからくるものなのか、それとも自らの滑稽さによる涙なのか、それがなんであるか詳しくは俺にもわからない。
 けれども、とても泣きたかった。ただ衝動にこの身を委ねさせていたかった。
 そして、最後に俺はとうとう嘔吐したのだ。それでおしまい。全てを吐き出せた気分がしたから、多分本当にそれで終わったのだろう。
 真っ白になった頭の中で浮かんだのは、たった一言だった。
「仕返しだ」

   ―――――

 宮下家の扉が開いたとき、宮下佳恵はひどく驚いた様子で、それからすぐさまに俺を締め出そうとし、俺は何がなんだかわからない状態で、それでも必死に食い下がり、その問答が続いた結果、彼女はとんでもない一言を繰り出した。
「あんたとはもう縁が切れてるのよ」
 それは多分、ヒステリックに陥っていたからこそ出た言葉だったのだろう。俺は呆然とし、そして咄嗟に出た言葉に宮下佳恵は口を押さえ、それから何かを諦めたように扉を開けた。
「入りなさい」

「何も、知らないの?」
 そう言われた時、俺はやっと何かを理解できた。どこかに母親がいることは知っていたし、少なくとも兄妹がいる可能性も否定はできないでいた。時折名前を言い間違える父はけして言い間違ってなどいなかったのだ。
「そうね、確かに貴方は私の子よ。でも、小さい頃だから多分覚えている筈はないと思うわ。とにかく、私はあなたの父親と別に生きる存在になりたかった。まるで生まれてから彼と道が交わることがなかったくらいに、ね……」
 そうやって語りに浸る宮下佳恵に、俺は別段何も感じることはなかった。強いて言えば本題に対して触れないで前置きを話し始めたことに対する憤りくらいだろうか。
「それで、亜希子と俺は、兄妹なんですか?」
 彼女は頷いた。そして、俺の本当の名を、父がいつも間違って呼んでいた言葉を、亜希子がつけたあだ名を。
「貴方は、宮下幸(みやしたこう)という名だった。夫はいつもサチと親しげに呼んでいたわね……。今も呼んでいるのかしら?」
 それが引き金だったのだ。全てを事に起こそうとした理由なのだ。
 亡霊になろう、全てを刈り取る存在として、ユキヒトではなくこの世にもういないサチになろう。
 俺が愛した妹に対する気持ちをカタチにするには、もうそれしかないと思ったのだ。

   ―――――

 屋上の風が強くなってきた。ほんの少し肌寒いその感覚に肌をぴりりとさせつつ、俺は笑う。
「満足かい?」
 そう問いかけると明良は小さく首を振った。
「なんだ、あとは何を話せばいい? 日記を見つけたことか? ストーカーを探し出して共犯をもちかけたことか? お前を少し早めに殺そうとしたことか?」
 彼はただ黙り、俺を見つめ続ける。その目が、その視線が俺の胸を締め付け、そして痛みを生み出していく。
 俺は、一体何に脅え、傷ついているのだろうか。
「俺は悔しかったんだ。お前といることを最期に選んだことが」
 ただひたすらに、思いつく限りの罵倒を音にしていく。その間明良と雪咲はただ俺を見つめ続け、何も言わずにその一言一言を受け止め続ける。俺は必死に叫び続ける。
 何か言ってくれ。
 こんなに弱い俺を罵ってくれ。軽蔑してくれ。
 妹の死さえ悲しめない俺を叱ってくれ。

 最早、何を叫んでいるのか、分らなくなっていた。目の前の最後の標的を見て、俺はただ痛む胸を掴み、血走った目を向け続けた。

「ユキヒト」

 不意に聞こえた言葉に、俺の言葉が止まった。
 明良は、一度目を瞑って、それから躊躇うようにして、口を開いた。

「宮下は、死んだよ」

 その時、何かから解放された気がした。
 流した涙が、やっと何かを認めて、飲み込めたのだと、そう言っていた。

 すっかり暗くなった屋上で、亡霊になりきれなかった男が、嗚咽を漏らしながら蹲っていた。

       

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Neetsha