Neetel Inside 文芸新都
表紙

_Ghost_
美しき排泄物

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芸術などと呼ばわれる分野においては、精緻微細を極めた先にある、超越的な部分にこそ真髄とやらがあるらしく。
俺の如き門外漢には及びもつかぬような様式、形式、感覚、定義、歴史の積み重ねの上に、一見して頓珍漢とも取れる一大芸術作品とやらが出来上がるらしい。
モデルの原型を留めぬどころか作者(故人)の平衡感覚を疑うような作品がなぜ持て囃されるのか、などというどうでもいい話題はさておいて。

心をキャンパスに描くとして、果たしてどれだけの人間がそれを忠実に、完全に再現できるのだろうか?

己の心は己にしか理解されない。どれだけ言葉巧みに説明したとして、きっと百の一つも伝わらない。同じくして伝える相手も彼自身にしかわからぬ心という受容器官を有している訳だから、こちらが期待した反応とは真逆の所感を抱かれることだって、ある。
言葉も絵も、音も味だって、肌と肌の触れ合いですら人は、己の百の一つも正確に確実に誠実に、伝えおおせることなんてできやしない。
誰も分り合えない、理解し合えない、いつだって誰だって誰かを疑うことから解放されることはない。
故に、己の感じた心の証を二割増して、三割増して、四割五割と際限なく。

少しでも多く、どこかのだれかなんかじゃなくて、ただきみだけに。

正しく正確に、誠実に篤実に伝わるよう願って信じて。



描くその絵は、徐々に着実に歪んでゆく。揺れてゆく。何ものでもなくなってゆく、なのにそれはぼくの心なのだ。
ただ、ぼくの感じているものとは少し違うだけ、ちょっと大げさなだけ。だってきみたちは鈍感だから、すこしでも強烈にしないと正しく伝わらないのだから。
だから、ぼくは。






だから、きみは。






______to you____________________________________






「それでねっ だから、私には加納さんに対する害意なんてものは微塵もないことは、いままでの説明で事足りたと思うけれどもさらに続けるとねっ」
「ああ、うん、うん、ああ、うん」
まあ、あれだ。不愉快だ。
現状をあえて説明しようか? だって俺手持無沙汰だし。
山田後輩が加納後輩に対して一生懸命釈明のプレゼンをしている、俺は暇。
加納後輩も加納後輩で、俺というものが真隣に待機していることを知りつつ、山田後輩への相槌のみに専一している模様。
結果、必死な山田後輩とそれに一生懸命に付き合う加納後輩と、既に故人でぼっちな俺、という不愉快極まる構図が出来上がる次第。
おいおい冗談じゃありませんぜって感じではあるが、ここで俺が無闇矢鱈と加納後輩に対して茶々を入れてもおそらく彼女をイラつかせるだけの効果しか得られないだろうし。
そもそも山田後輩に対してはコンタクトすら取れないし。
かといって、じゃあお二人の話が終わるまでどっかそこらへんで時間でも潰してきますね、なんて爽やかボーイに徹するには人生経験が不足している。
なので。
仕方がないので俺は加納後輩を見つめることにした。
他に何の目的もない、ただただ加納後輩を見つめるだけ。
その瞳には、情熱もない、活力もない、目的もない。ただ只管に見つめる。一種の機械だ。
見つめる行動に意味はない。意義もなく理念もなく。ナイナイ尽しでただ見つめる。

うん。

己の心をまっ更にして彼女を観察し、ひとりごちる。

うん、そうだ。
美しいと思ったのだ、この顔を、己は美しいと思った。

いまは、そうでもない。そりゃあ、そうだ。思い入れとか先入観とか前情報とか、そういう雑味を全部抜きにして遠眼鏡に遠眼鏡を重ねるような不要領さでもって見つめているから。
美しいと思ったことがある、という前提条件すらも廃して視覚情報をただ脳髄に埋め込める。記憶に埋め込める。
これを、美しいと思ったのだ、と。埋め込める。
なんだか自分だけの、秘密の宝物ができたみたいで途端に気恥しくなってくる。
なんだこれ、ちょっと変な気分だ。
でもそれは仕方のない反応なのだな、と思わないでもない。俺の如きボンクラが、美、などという一種高尚な領域へと足を踏み入れた初めての経験なのだから。

美。

一文字にして眺めると途端にゲシュタルト崩壊する。
而して彼女を眺めれば同様の現象が起きる道理もなく。
真実、不可思議なものである。
審美眼という単語になぞらえるならば、美とは眼に依存する。
眼はそのものを形容する単語に対しては早々に崩壊を来たし、本質そのものには従順である。
言葉、だとか文字、だとか、そういったものの小賢しさが浮き彫りになる最もな例ではなかろうか。
どの様に修飾しようと、どのように形容しようと、どのように賛美しようと、どのように絶賛しようと。

現物には迫れない。

結果、言葉は九割五分、嘘と知れる。文章もまた然り。
絵は? 写真は? 彫刻は? おれは? きみは?
きっと、全部纏めて九割五分。
真実その場に立ち会って、そこへ到る経緯も状況も了解し、当事者の立場に屹然と名乗りを上げて。
言葉よりも深い言葉に触れ。文章よりも明瞭な会話を交わし。
絵など及びもつかぬ現実を生き、写真を紙切れ鼻紙だと失笑する経験を積み、彫刻なんざいっそ資源の無駄と息捲いたおれと、きみがいる。

そんな美を、忘れないように、大事に。
俺は、加納後輩をただ見つめるのだ。




まごうことなき、糞。糞である。排泄の喜びを加味すれば糞以下ではなかろうか?
ああ、愚かで哀れで小さな俺、俺。

美という慶びに触れて、糞と断ずる心持はこれいかに?
真実だ、本質だ、現物だ、唯一だ、不世出だと、どんなに息撒いたって。
絶対にそれが無価値になる日はやってくる。塵屑、塵芥、取るに足らぬ灰の塊になる日が必ずやってくる。
世間がそうと断定することもあれば、自分がそうと断定することもある。
どちらにせよ、どちらかにそうと断定されれば気持ちは冷える。
冷えたらどんなに云い繕ったって、それは糞。
だから、おれはいつかきっと糞になる前提の彼女を美とのたまう自身が愚かしくてたまらない。
俺さえ変わらなければ? おれだけはきっといつまでも? 他の誰が何と云おうとも、この気持、この感動が薄れる日は来ない?
いいや、来る。遠からず近からず、来る。絶対に。
来たとき、来たで、来たように。
最もらしい常套句をふんだんにうそぶきながら、これこれこういうわけで当方は、と自分か周囲を誤魔化し煙に巻き巻き。
セーフティなんだ、美しいと思うことってな、どこまでいっても安全地帯。
ただの心の処方箋。
廃れてささくれ立った心とかってものを慰める、どこにも存在しない、けれども存在すると妄信して生まれる誰の心にもある迷い。



美など無い。



有得ない、とでもいえばいいか?
十人十色を納得させる絶対の美がどうのこうの、なんて下らんことは言うまいよ。
いつか損なわれることを確約された、美などと呼ばわれる諸現象、諸事象、諸実存、諸幻想。
全部ひっくるめて。
糞なのさ。
美は幻想で、覆らないものであって。糞は実在して、一時、それを美と誤認したとして翻れば糞だと。

ああああああ!

だからっそういうっ、何か一丁前に斜に構えて厭世的な視線で向かい風に真っ向から抗ってるぜって感じの姿勢もまた糞なんであって。
糞だ、糞。全部纏めて包めて粗大ゴミ。
なんかもう、真顔で美とか言っちゃう時点で太巻き一本糞。
ああ、こいつぁご立派なごイチモツだあね。
けっ、と。毒づいて糞もまた肥やしになるのだと知る。




結局、何をしても人間、糞なのだから。そういう達観じみて子供じみた嘆息もまた糞で、さりとてこういう風に自分を俯瞰して否定できてますよ的姿勢も糞で。
自分を掘り返しても糞で、自分を埋め戻しても糞。
何をしても糞。そういう諦観を気取った態度も含め。諦観を気取った自分を批判する自分も糞で、それを更に批判する自分も糞で、更に糞で糞で糞で。


美は糞で、糞は美で。
ここに綺麗なイコールが出来上がる。
OK。わかった。考えることが糞なんだ。同時に考えないことも糞。
何をしても糞で、何をしなくとも糞なのだから。
だったら、嬉しい気持ちを信じよう。それが糞でも、もう俺は構わない。
その糞を、体いっぱいに喜ぼう。




「君は最高の糞だっ! 加納後輩!!!!!!!!!!!」



歓喜の気づきとともに叫んだ。当然、塩を撒かれたのだった。




















       

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