Neetel Inside 文芸新都
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 サウスが軍を引いた。コモン関所の兵糧を焼かれたのだ。あのまま留まっていれば、食糧難で兵を飢えさせる事になる。そう考えれば、退却は当然の事だった。俺達はそのサウスに追撃をかけたかったのだが、それは出来なかった。満身創痍だったのだ。味方の兵のほとんどは負傷していたし、ピドナは厳しく囲まれていたせいで、軍全体の士気も落ちていた。
 今回の戦は勝敗で言えば、引き分けだろう。軍と軍のぶつかり合いで言えば、メッサーナは負けという事になってしまうが、戦という観点で見れば引き分けである。こちらは兵馬を多く失った代わりに、官軍は兵糧を失った。
 しばらくはお互いに戦での傷を癒すために、戦線は膠着状態になるだろう。つまり、当分の間は戦がない、という事である。
 俺はサウスに負けた。これは軍ではなく、俺個人の話だ。つまり、将軍としての力量差で負けた。これを補う術は今のところは見つかっていない。身につけるべき軍学は身に付けたし、机上ではヨハンを相手に論じ合っても良い勝負が出来た。こうなれば、あとは経験しかない。
 しかし、そうは思っていても、同じ相手に二度も負けたという悔しさは抗い難かった。だから、俺はそんな思いを吹っ切るために、山を登っていた。あの、シグナスの槍兵隊と共に登った山だ。あの景色を眺めれば、自然と気が落ち着く。俺の好きな場所だった。そういう場所は今までに無かったので、この感覚も新鮮だった。
 地元の住民によると、この山の名はタフターン山というらしい。名前の由来は知らないが、昔から険しさで有名だという話だった。
 天気は曇り空だった。季節は冬から春に変わりかけているが、まだ気温は肌寒い。
「曇り、か」
 独り言だった。単騎で山を登っているのだ。従者の何人かが護衛で付いていく、と申し出てきたが、それは断った。独りの時間が欲しかったからだ。
「曇りならば、俺の好きな景色になっているかな」
 頂上で見れる景色である。晴れの日は多くの山々が一望できるが、曇りや霧の濃い日になると、その山々が見えなくなる。そして、一つの山だけが視界に残るのだ。俺はこの景色が好きだった。
 頂上に辿り着いた。そこには、一つの人影があった。馬上で、景色を眺めているようだ。
 俺は馬を進めた。人影は、シグナスだった。
「先客が居たとはな」
「ロアーヌか」
 シグナスは振り返る事もせずに、呟くように言った。俺はシグナスと馬を並べた。次いで、景色の方に目をやる。俺の予想通り、一つの山以外は霧に遮られて、見えなくなっていた。
「ウィルが死んだよ、ロアーヌ」
 か細い声で、シグナスが言った。
 ウィルはシグナス槍兵隊の副官だった。俺は軍務上でしか言葉を交わした事は無かったが、悪い印象は持っていない。真面目で、命令された事はきちんとやり通す。そういう印象が強い男だった。
 そのウィルが、決死隊の隊長に立候補した。そして、死んだ。これについては、仕方がないと割り切るしかないだろう。戦なのだ。誰にでも、死というものは有り得る。ただ、シグナスはウィルが決死隊に立候補するのを反対していた。それは切実な感じで、軽い口論にもなりかけたが、結局ウィルがそれを聞き入れる事は無かった。
 部下を失うという事は、辛い事だ。俺もある程度は割り切っているが、精神的な負担はどうしても背負ってしまう。これを表に出すかどうかは別としても、シグナスの気持ちは分かるつもりだった。
「最後の最後まで、俺はあいつとは話さなかった」
 シグナスが天を見上げる。
「何でだろうな。自分の中で、変な意地でも張ってたのかもな。ウィルは、俺の言う事にはいつも従順だった。だが、あの時だけ強硬だったのだ。それが気に食わなかったのかな」
 仮に俺がシグナスの立場なら、ウィルの背中を押しただろう。ウィルは自分の欠点を知っていた。そして、直そうとしていた。これはウィル自身が言っていた事で、決死隊に立候補したのも欠点を克服するためだったのだ。つまり、自分を変えたかった。言い換えれば、成長したかったのだ。ならば、上官としてやるべき事は背中を押す事だ。俺はそう考える。だが、シグナスは違った。もっと別の所で、死のリスクを背負わない所で、克服させたい。シグナスはそういう考えだったのだろう。
「なんで、俺は声をかけてやらなかったんだ」
 シグナスの声が震えた。
「あいつは強くもないし、抜きん出た能力を持ってるわけでもなかった。どこか臆病で、果敢さがない男だったのだ。それなのに、上官である俺は声もかけずに、無視しちまった。あいつは、とてつもなく不安だっただろう」
「シグナス」
「俺はウィルの気持ちを、全く理解していなかった」
「それでも任務は果たしたのだ。決死隊五十名の内、三十八名は無事に帰還してきた。これは驚異的な生存率だ」
 この生存者の数だけを見れば、兵糧庫襲撃は大成功を収めたと言っていい。そして、成功へと導いたのは隊長のウィルだった。
「割り切るべきなのは分かってるんだがな。悔やんでも悔やみきれんのが事実だ」
「ウィルは雄々しく死んだのだ。逃げ遅れた兵の代わりに、その命を散らせた」
 ウィルは一人の少年兵を救うために、ただ一人で敵中へと飛び込んだという話だった。この少年兵を無視していれば。そう言う者も居たが、全ては仮の話である。大事なのは、そこに至るまでの経緯だ。何故、ウィルは少年兵を見捨てなかったのか。いや、見捨てる事が出来なかったのか。
 ウィルはシグナスの精神をしっかりと受け継いでいたのだ。シグナスは味方を見捨てるという事は極力やらない。救える確率が僅かでも残っていれば、そこに飛び込む。だから、ウィルも少年兵を見捨てる事はしなかった。俺は、そう思っていた。
「あいつの槍の腕では」
「それは言うべき事ではない、シグナス。ウィルはお前になりたかったのだ」
 シグナスが鼻で笑った。
「俺も、サウスに借りが出来たのかもしれんな」
「あの男は強い。一筋縄では借りは返せんぞ」
「分かっているさ」
 それで、会話は終わった。しばらくは互いに景色へと目をこらし、風の音だけを聞いていた。
「終わる命もあれば、始まる命もある」
 不意にシグナスが言った。
「サラが子を産んだのだ、ロアーヌ」
 そう言ったシグナスの表情は、悲しみと喜びが混在しているように見えた。
「男児か?」
「あぁ」
「槍のシグナスの子か、将来が楽しみだな」
 俺がそう言うと、シグナスは表情を変えずに、ただ口元を緩めた。
 ウィルの死の悲しみは、時と共に薄れて行くだろう。そして、子の成長の喜びは、時と共に増していく。
 風が、肌を優しく撫でていた。

       

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