Neetel Inside ニートノベル
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この身体はキモチイイ……!
in4.憂慮天網1

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 谷垣禎子(タニガキ サダコ)は比較的早くに登校する。彼女は生徒の中でも、遠距離から電車で通学していて、普段はおよそ八時を少し回ったくらいに学校に到着する。一本電車を遅らせると、元々少ない電車の本数に加え、乗り換えの関係もあって、始業時刻にギリギリになってしまう。気性が真面目なタニガキは、毎朝遅刻の叱責を怖れて登校したくはなく、そのような時間に学校の門をくぐっているのだった。ただでさえ遠距離からの通学で早く起きなければならないのに、またさらに早く起床を求められるものだから、タニガキ本人はそれはそれは不満であった。

 さて、タニガキには嫌いなものが二つある。

 自分の名前と孤独だ。二つには因果がある。

 サダコという名前が嫌いだった。理由は安易、有名な幽霊の名前と同じだからだ。小学校の頃には、男子に散々からかわれた。それだけでも子供には十分な苦痛だったが、さらに子供の悪意は加熱し、それは高学年でイジメに発展した。それが、とてもタチの悪いものだった。

 教科書に落書きされることはなかった。上履きを隠されることも、水をかけられることも、誰かにバカにされることもなかった。ただ、誰からも話しかけられなかった。話しかけても、ほとんど無視されるような、希薄な返事しかもらえなかった。完全な無視だったら――分かりやすいイジメであれば――誰かに訴えることが出来たのかもしれない。けれども、もう十分に社会性のついた子供達は、そんな甘やかな真似をしなかった。「アイツと十秒以上話すと呪われる」そんな根も葉もない言葉を浸透させ、皆が何となくその雰囲気に従った。誰もが空気を読んだ。結果、その陰惨なイジメは、誰からも糾弾されることなく、そしてタニガキは誰からも救済の手を差し伸べられない状況に置かれた。

 タニガキは自分が悪いのだと思った。きっと自分に非があるのだと思った。それを無くせば、自分は仲間という輪に戻れると思った。けれど、いくら考えても答えなど出なかった。当然だ。あるはずはないのだから。タニガキは『ただなんとなく』イジメのターゲットにされただけだ。しいて言うなら名前と、ちょっと大人しい性格が災いしただけだ。それだけだった。でもそれだけで、純真な小学生は、幽霊になった。誰からも話しかけられない、誰からも相手にされない。ただそこに在るだけの浮遊体。そういう存在にされた。孤独だった。家で一人でいるより、学校で教室にいる方がずっと孤独だった。

 孤独というは、集団の中に初めて存在するのだと、タニガキはその幼さで悟った。

 悲しくて、悔しくて、辛くて、苦しくて、タニガキは泣いた。

 胸がズキズキ痛むという意味を、身体で覚えた。それまで文章上の表現でしかなかったことが、急に身近なものになった。それを覚える頃に、彼女は空っぽの心で、何も感じなくても涙が流れることを知った。心が壊れる前に、身体が壊れたのだろうかと、タニガキは遠くから眺めるように自分のことを観察した。

 さすがに見かねた両親はタニガキを休学させ、中学受験を勧めた。幸いにしてタニガキは聡い子供で、また勉強に没頭することで、その他のことを全て忘れようと努力した。結果、彼女は私立の名門女子校に通うことになった。

 そこで加藤コウという貴重な友人を得るに至るが、その話はここでは省く。

 とにかく、タニガキは一人が嫌いだった。というよりも、誰かがいる中で、自分が一人でいる状況が嫌いだった。それは例えば、早すぎる朝の教室に、自分のグループ以外の人間がいる中、自分だけが話の輪に入れず、一人本を読んでいる、そんな状況だ。

 タニガキは朝早くに登校しても、自分の教室には向かわず、まっすぐに図書館に行く。高校に進学する前のクラスでは、教室には誰もおらず、すぐに自分のグループの人間が登校してくるので、そんな習慣はタニガキにはなかった。

 現在のクラスには、タニガキよりも早く登校する、風変わりな二人組がいるのだった。

 一人は鳩山ユキ。前年度の中等部生徒会長であり、近寄りがたいほど秀麗な容姿をしている。誰ともなく話しているのを見かけるが、特に誰かと仲が良くおしゃべりをしている所はみたことがない。大体雑務に追われているか、誰かと事務的な会話をしているか、さもなくば本を読んでいる、少々変わった人物だった。少なくとも、中等部までのタニガキのイメージでは、ユキのイメージはそうだった。

 そしてこのユキと朝早くから一緒に登校して話しているのが、高校からの編入生、小泉ジュンだ。彼女もこれまた凛とした美人で、ユキと二人で囁いているだけで、やたら艶のある画になる人物だった。このジュンという人間もタニガキからすれば、相当に近づき難い存在だった。彼女は醒めたように冷淡な印象があって、気怠げな仕草さえ、どこか威圧されるような気がした。よくよく話してみると意外に優しらしいという噂も聞いていたが、そこまで話題が続かないタニガキは、とにかく苦手だった。

 その二人が教室に陣取っているので、タニガキはやむなく図書館で、他のグループのメンバーが来るまで時間を潰すのだ。彼女たちだけならばまだ良いが、教室にはリューコやらイチやらのグループが比較的早く到着するので、タニガキは居づらくて仕方がないのだった。

 今日もタニガキは図書館を目指した。二階建ての図書館は、いつもと変わらず朝の静寂を保っている。司書に挨拶をし、彼女は二階の学習スペースに向かった。とはいえ、朝から勉強などするつもりは毛頭ない。座れる場所で落ち着いて本が読みたかっただけだ。

 学習用に個別に仕切られた席に荷物を置いて、タニガキはようやく、先に一人の先客がいることに気が付いた。時刻はまだ八時を少し回ったところ。一階の貸し出しが中心となるフロアならばともかく、こんな朝早くに人がいるのは、極めて珍しいことだった。タニガキよりも少し離れた学習スペースに据わるその人物の顔は、仕切りに覆われて見ることは叶わない。

 何となく気になって、どんな人なのかぼうっと眺めていると、タニガキは不意に声をかけられた。

「おはよう」

 低く澄んだ声だった。大きくないのに、良く通る、どこか冷たい声。その人物は、ぱちりと大きな瞳でタニガキを見つめていた。人形のように綺麗な顔の造形は、毎日教室で見かける。

「あ、おはよ。めずらしい……ね。小泉さん」

 タニガキは内心驚きと狼狽を感じていたが、なんとかそれを愛想笑いで覆い隠して、返事をした。会いたくなくて、わざと図書館まで来て避けていた人物に出会ってしまったのだから、タニガキの落胆たるや、想像に難くない。

 けれど別にジュンに引け目があるわけでもない。反射的に失敗を犯したような心地になっていたのを修正し、タニガキはジュンに向き直った。

「うん。ユキが調子悪いからって、今日は図書館なんだ。タニさんは毎日来てるの?」
「だいたい毎日かな。ユキさん、大丈夫?」
「ちょっと気分が悪いだけみたい。人と話すと疲れるから、こっちでやり過ごすって」

 ジュンにあだ名で呼ばれ、タニガキは少し戸惑った。前に少し話しをした時も、何気なくそう呼ばれた気がする。自分はあだ名で呼ばれているのに、彼女のことを名字で呼ぶのは、遠ざけているとも取られかねない。次になんと呼ぶべきか、会話の間に考える。

「ジュンちゃんは付き添い?」

 結局、彼女が一番多くの人から呼ばれている呼び名を口にした。先に「小泉さん」と言ってしまった分、不自然さは否めないが、致し方ないだろう。

「ううん。教室に話す人もいないから、図書館で本でも読もうかと思って」

 ジュンは「夜は短し歩けよ乙女」と書かれた文庫本を片手に見せた。タニガキも読んだことのあるものだった。軽妙で饒舌な文体が、小気味良く物語りを展開したことを覚えている。

「それ、面白いよね」

 そう思ったら、つい口に出していた。別にジュンと会話を続けたいわけでもないのに。タニガキは少しだけ後悔した。

「うん。私も好きかな。言葉遣いが好き」

 ふっとジュンが表情を柔らかくなったを見て、タニガキは驚いた。今まで仮面みたいな無表情しか印象になかったから、彼女の柔らかな顔つきは、別人のように思えたのだ。理知的で温厚そうな顔は、まるでロボットが人間味を持ったみたいな衝撃を与える。人に対して人間味があるというのも失礼な話だとは理解しながら、タニガキはその解釈がすっぽりと腑に落ちたのを感じた。

 そう思うと、さき程挨拶された時も、いつもほどは無表情ではなかったように思える。

「なんか、ジュンちゃんはちょっと印象変わったかも」
「そうかな? そうかも」

 タニガキが言った言葉に、ジュンは少し考えて小さく頷いていた。

「なにかあったの?」
「うーんと……色々と落ち着かないことがあったんだけど、そうやく少しずつ心の整理が着いてきた、ような気がする」

 ジュンがどうやら複雑な家庭事情でユキの家に住んでいることを、タニガキは友人の加藤コウから聞いていた。天涯孤独の身になり、気心も知れる友人もいない中、新しい学校生活を始めることになれば、余裕もなくなる。今までのジュンは周りのことに気を払えるほど、心にゆとりがなかったかもしれないと、タニガキは思った。だとすれば、今の彼女はむしろ自然体に近づいているのだろうか。

「そうなんだ。色々と大変みたいだね」
「そうかもしれない」

 彼女は苦笑するように笑った。華やかで可憐な笑みだと思った。

「さてと、じゃあまたね。タニさん本いっぱい読んでるみたいだから、オススメとかあったら教えてよ」
「うん、じゃあまたそのうち」

 ジュンがユキの隣の席まで行くの見て、タニガキはようやく図書館の席に着いた。彼女に勧める本はどれにしようかと、軽く悩みながら。

 タニガキは驚いていた。あまり接触がなかったことも大きな要因だけど、手品みたいに人物の印象が変わった。

 橋本リューコとはまた違った意味で、ジュンという人間のカリスマを感じた。ジュンと話しているとなんだか清々しい。彼女のことに興味が湧く。ちょっと話しだけなのに、自分のお薦めの本を真剣に考えてしまうくらいには。

 タニガキは鞄からとりだした本を開きながら、ふと考える。それは彼女の所属するグループが構想する、水面下の生徒会選挙の動向だ。

 モリが歪ませたクラスのメンバーの中で、小泉ジュンはほぼ唯一の白紙的な存在だった。二週間の学校生活の中で、ユキとジュンは特に気にすべき存在ではないと思われていた。けれど、タニガキは漠然とした気配を感じていた。その予測はまだ憂慮すべき余地があるということを。

 ユキとは全く違う魅力を持つジュンが、彼女に付き従っている。その影響の度合いを、再考する必要があるかもしれない。

 少し遠くで、ジュンとユキが楽しそうに囁きあているのが聞こえる。静かな図書館は、そんな声すらタニガキに届けてみせる。どちらも教室で聞いたことがないような、弾む調子の声に思えた。

 タニガキは手許の本に目を落としながら、早くコウが来ないかと時計を仰ぎ見た。

       

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