Neetel Inside 文芸新都
表紙

悪魔物語
1話「灰魔のカメラ」

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 ドンドンドカドカと、どこかでドアが叩かれている。
 その音によって俺の意識は暗く深い海底からゆっくりと浮上し、なんとか目を開ける域まで達した頃にはノックは止まっていた。おそらく誰かが来たのだろう。あの乱暴なノックの音に聞き覚えがあるような気もする。部屋のカーテンを全て閉め切っているので目を開けても視界は海底のように薄暗い。耳を澄ますと、微かに階下から話し声が聞こえる。仰向けになってチラリと時計を見てみると針は正午過ぎを指していた。起床予定時刻、実に3時間のオーバー。30分から1時間程の寝坊なら焦る気も起きるかもしれないが、ここまで来るともうどうでもよくなってくる。
「って訳にはいかねーよなぁ、はぁ…」
 ゆっくりと上体を起こし、1ラウンド程睡魔と格闘して、ようやく下へ降りる気になった。深海から意識をサルベージする際に海藻がこびり付いてしまったかと思うほど体が重い。
 のろのろと階段を降り、1階のリビングへ入ると誰かがソファーに腰掛けていた。いや、あのシミだらけの全力で禿げきった後頭部に心当たりはあるが、寝起きで話しかけるのは非常にダルい。
 無視して冷蔵庫へと歩を進めると、案の定舌打ちが聞こえた。…あーくそ、しんどい。
「ようジジイ、ウチに来るなんて珍しいじゃねーか。今日は何の用だ?」
「…ムカデに頼まれてたものがあってな、近くに来たついでに届けただけじゃ」
 振り向きもせずにジジイは答えた。こういう年寄りは「命令以外で悪魔に自分から話しかけてはいけない」というポリシーというかプライドを持っている癖に、無視されるのを異常に嫌う。会話してもお互い疲れるだけなのにな。
「ヤトト!」
 俺が入ってきたドアから声がした。目を向けると、俺のご主人様がクッキーの入った箱を抱えて仁王立ちしている。
「おはようさん。腹減ったからメシくれ」
「おはようございます。ヤトト、今朝の花壇の世話をサボりましたね?明日はちゃんと起きてくださいよ」
 偉大なるご主人様は呆れながら俺の横をすり抜け、ジジイにクッキーを差し出した。そして向かいのソファーに座ってお茶の準備を始めた。あれ、俺のメシは?
「棚にパンとハムがあります。物足りない時は冷蔵庫に卵焼きがあります」
 トポトポとジジイのカップに紅茶を注ぎながら主人は言った。へいへいと気の無い返事を返すが、主人のこういう面倒見の良さに触れると少し嬉しかったりする。指示通りスライスされた食パンを取りだし、皿に乗せる。さて、どうトッピングしたものか。
「……ムカデ、お前の嫌いな話かも分からないが」
「はい、なんでしょうか?」
 ジジイの視線を感じつつ、薄く切られたハムをパンに乗せる。どうやら俺の話らしい。
「この悪魔と、いつまでこうしているつもりだ?」
 重苦しいジジイの声。かなり失礼な物言いだが、怒りの感情は微塵も湧かない。だが主人がどう答えるかは興味アリだ。冷蔵庫を漁りながら聞き耳を立てる。
「ウリヤさん」
 一拍置いて、主人が静かな口調で返す。
「ヤトトは今は人間です。人格が悪魔だとしても、身寄りの無い子供を見捨てるほど私は冷たくありません。もしヤトトが自立できるようになれば、この家を出るのかもしれませんが…」
 と一旦言葉を切って、主人の瞳が俺の方を真っ直ぐ見つめる。
「少なくとも、私は家族だと思っていますので。ここがヤトトの家であることは、いつまでたっても変わりませんから」
 そういってニコッと微笑んだ。つられて口が緩みそうになるのを堪え、また冷蔵庫に顔を突っ込む。…やっぱり違うな、こいつは。
 俺は今までに数え切れないほど様々な主人に仕えてきた。その多くが冷徹で残忍で陰湿で性悪だった。召喚目的のほぼ全てが私利私欲、私怨。それは性質上仕方が無い事だし、極稀に心優しい主人に出会っても要求に積極的になる程度だった。基本的に立場が違いすぎるからだ。お互いを理解なんて出来るわけない、むしろする必要が無い。無駄な馴れ合いは疲れるだけだ。それが仕える者と使う者、奴隷と支配者という関係の在り方。常識だ。
 だが、こいつ…俺の今の主人、ムカデという魔術師はそんな常識が通じない、いわゆる「例外」だ。普通の魔術師は、悪魔に家の中を自由に歩かせない。武装した殺人鬼を野放しにしているようなものだ。
 本来悪魔は使い魔として使用されない限り、召喚用の魔方陣に縛られる。これは地獄から召喚される場合もそれ以外の世界から召喚される場合も変わらない。いくつもの魔方陣、それに描かれた強い効力を持つ言葉、使用者の呪文などで縛られないと、魔術師は俺達を制御出来ない。使用者自身も魔方陣の中に居なければならないが、悪魔が召喚されているときにつま先数センチでも陣から出ていた場合、全てが水の泡だ。何時間もかけて下準備した一切の魔術は効力を失い、悪魔は束縛から逃れる。そうなったら、100%悪魔は使用者を殺すか食うかして元の世界に帰ってしまう。前述したように魔方陣から悪魔を出して使い魔にする時もあるが、よっぽど力のある術師で無い限りそんなことはしないだろう。何か間違いが起こって魔法が効力を失った場合のリスクを考えると、悪魔を連れて歩くなんて恐ろしくて出来ないからな。
 実際、今の俺は悪魔ではない。召喚をミスったガキに憑依して、ガキの魂を食って体を乗っ取っているだけ。つまり肉体的には只の人間だ。
 だが、精神的には1200年程生きている悪魔だ。様々な世界を渡り歩き、数え切れないほど魔術師を出し抜いてきた。ムカデを裏切り、勝手に魔方陣を描いて他の悪魔を召喚する事も出来るし、直接ムカデに襲いかかることもできる。…悪魔と暮らすというのはそういうことだ。普通の魔術師なら不安で寝ることすら出来ないだろう。ウリヤの糞ジジイの質問は、至極もっともだ。
 しかし、何故かムカデは俺のことを心から信用しているらしい。一日置きに風呂掃除や花壇の世話を任され、同じ机で食事をする。これではまるで、
「『家族』、だと?ハッ!何を寝ぼけたことを」
 ジジイは鼻で笑うと、ほとんど口をつけていないティーカップを置いて立ちあがった。
「この悪魔に誑かされ、家族ごっことは…。ひとつ忠告しておいてやろう。他の魔術師の前でそんなことを口走るなよ、恐らく街を歩けなくなるぞ」
 呆れ顔で、挨拶もせずにジジイは帰って行った。まあ当然といえば当然の反応だな。俺はハムパンを齧りながらムカデの様子を伺う。
 多少はショックを受けているのを期待したが、優雅に紅茶を啜ってやがる。何を考えてるのか、本当に分からない。
「あんなこと言われて、なんとも思ってないのか?悔しくないのかよ」
「ふぅ。ウリヤさんは、少し私を心配し過ぎているだけですよ。それにあの反応は魔術師として当然です。私だってウリヤさんが悪魔と結婚したら驚きます。…ヤトトは悔しいと思ったのですか?」
 楽観的というか、なんというか。魔術師らしからぬ言動には慣れたはずだが、毎度毎度コレだと同居人としては不安になる。
「別になんとも思ってない。あー、前にも聞いたことがあるが。お前、本当に俺が怖くないのか?」
 3か月程一つ屋根の下で過ごしておいて、今更な質問ではある。しかもパンなんぞ銜えながら聞くことではない。
 ムカデは朗らかな笑顔を崩さず、
「あなたがもし他の悪魔を召喚しても、私は困らない自信があります。確かに魔術師としてはもっとあなたを警戒するべきでしょうが、今はあなたは只の子供でしょう?」
「そう思ってくれるならいいが。メリットはともかく、気まぐれにお前を傷つけるかもしれんぞ。俺は元々人間の怒・哀が好きだからな」
 不安を煽ろうと不吉な口調で言ったつもりだが、クスクスと笑われた。
「本当にする気があるなら、わざわざ口にしないでしょう。確かにあなたが急に襲いかかってくる可能性はあります。ですが、私はそれを恐れて同じ人間を見捨てたりしませんよ」
「俺に殺されてもいいと?」
「その時は、悔いの無い生に胸を張って殺されますよ」
 ムカデには聖人君子気取り、偽善者という言葉が似合う。全てを受け入れた上で、その全てを赦そうという考えは腐れ教会の牧師によく似ている。…が、その言葉通りに偽りが無いのも実証済みだ。
 この家に来て3日目くらいの時にも似たような問答をしたことがある。やっぱりこんな感じで、どんなに俺が脅そうと平然と受け入れた。カチンと来たので、試しに寝込みを襲ったら言葉通りに俺の刃を受け入れようとした。まぁ、その時にこいつは色々とブッ飛んでる奴だと知ったのだが。
「そうかそうか。お前は脅してもつまらないから、もうそんな気は起きないけどな」
 結果を知っているのに、何故こんなことを聞いたのだろう。俺は話を切り、2階でもうひと眠りしようと踵を返した。
 しかし、ムカデにガシッと肩を掴まれたのでお昼寝は断念した。声で制しない辺りからなんとなく用件がうかがえる。どこか楽しそうな声が背後から聞こえた。
「ヤトト、『お仕事』が来てます」







       

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