Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
画家の運命

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 完成した絵を見たことがあるやつはいるだろう。美術館にでもいけば置いてあるから。だけど絵を完成させたことがあるやつはざらにはいない。それは正真正銘、最後までやったということだから。俺は今までなんとなく絵を描いてきて、その都度ごとにこれで完成だとか、そうじゃないから明日に回そうとか、やりくりをしてきたわけだ。それが自然で、誰にとっても疑問の余地はなかった。でも俺は今、ようやく絵を完成させるということがどういうことなのかわかった気がする。イーゼルにかかった俺の油彩、俺はそれを作り上げてから次の絵を描かなかった。スランプだとか休憩時間だとか、いろいろ自分をごまかしてみたが、ようやくわかった。俺は絵を完成させたのだ。そして完成させるということは、そこで終わるということなのだ。今それをなんら絶望の感覚なく味わうことができる。夕暮れの教室、イーゼルと油彩、俺と空になった絵の具。すべてが終わったことなのだ。
 ずっと先生を追いかけ続けてきた。社会の片隅で、なんの称賛もなく、世間から爪弾きにされながらも絵を描き続け、俺の手本になってくれた先生。いつか追いついてやると思っていたのが、描かなくなった先生を見てもうだめだ、俺がやらなきゃいけないんだと決意して、ここまでずっと描き続けてきた。放置された炭酸水みたいになった先生が憎かった。才能がドブに捨てられて腐っていくのが見ていられなかった。でも今はわかる。先生も絵を完成させたのだ。だから描かなくなったのだ。それが完成させるということなんだ。絵筆を握る指に力が入らない。今までずっと我が身のように使いこなしてきた筆先へと続く神経が断線してしまっている。だから俺はもう描かない。できるのは考えることだけだ。考える……
 理由があるはずだとずっと思ってきた。描きたい理由、描かない理由。それが間違っていたとは思わない。分析して理性の光を当てればそこには必ず意味がある。狂気にだって系統はあるはずだ。その根幹を見るのは、定義したいから? 違う。だから俺は考える。なぜ描かなくなるのか。そして夕暮れが月明かりになりゆく時間を費やしてようやくわかった。熱くて重たい塊を飲み込んだような気持ちがする。俺は絵筆を落として、その先を見つめた。
 実存させた瞬間に確定するからだ。
 それが実現しない現実だということが。
 何かを創作する時、俺達は、それが実現する可能性を使い続ける。それが完成に近づけば近づくほど、その数字もゼロに近づく。そして完成した瞬間に、それが存在する可能性はゼロになる。帳尻があって、夢が終わる。目が覚めるまでが夢であり、現実を見た瞬間、夢が終わる。永遠に見続けられる夢は夢とは言わない。そして夢を見るのを途中でやめて、そのまま夢でも現実でもないところに立ち尽くしていれば、たしかに目は覚めない。だがそのかわり、時間が進むこともなくなる。それっきりだ。夢でも現でもない。無だ。数字の意味がなくなる。そして意味がある限り、いつか終わる。避けられようのない迷路だ。ずっと迷い続けていたいのに、出口のない迷路は、もう迷路じゃないのだ。
「どうした?」
 振り返ると先生がいた。穏やかな顔をしている。優しさと無関心、その間でバランスをとっている大人の顔。もう絵を描かない人の顔。
「先生……」
「もう遅いから帰りなさい。親御さんが心配するよ」
「……そう、ですね」
 俺は立ち上がって、絵筆も拾わず、キャンバスも降ろさず、イーゼルも片づけず、アトリエを出た。無言で歩き続け、気を遣ってくれているのか、先生はぽつぽつと学校の話題を振ってくれる。俺はそれに先生が聞きたがっている、またそうして返してくれれば用意してある回答で穏やかな会話にまとめられると思っている言葉を作っては投げる。作っては投げる。その球数もそれほど多くなく、制限されていて、投げ続ければ肩を痛める。俺は才能があるということはピッチャーでいることだと思っていた。先生が絵を描かなくなったのは素晴らしいキャッチャーがこの世に存在しないか、先生の元へ親友のように神様が配置してくれないせいなのだと。この世界が悪いのだと。俺達は間違っていないのだと。だが、違う。先生は一人でやりきったのだ。味方も理解も拒絶して、最後まで戦ったのだ。そうして筆を捨てて、もう心に折り合いをつけてしまった。俺は前をいく先生の、ゆっくりとしていて、躍動感のかけらもない歩き方をうつむきながら目で追った。
 俺がこれから歩いて行く道を。

       

表紙

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