わが地獄(仮)
奇跡
ふと気がつくと大切なことを何も覚えていない。たとえば学校の吹奏楽部が何を持っていたとか。トロンボーン? それがどんな楽器だったのか思い出せない。そもそも知っていたのか? それとも思い出せないだけなのか?
自分が人生をどう歩いてきたのか、それはうっすら覚えているが、いまこの地面を歩いている自分がどこにいるのかはわかっていない。道を覚えるときは何日もかけて何周も走り回らないといけない。でなければ必ずどこかで道を間違える。俺は道を覚えているのではなく、身体に覚え込ませている。これは記憶していると言えるのか?
仕事を始めて、いろんな人と話したが、みんな自分のことはよく覚えているようだ。どこで何を見たとか、何をしたことがあるとか。俺にはそういう思い出せるようなネタがない。仕事をしているときは完全にそれに集中していて、ほかの感情とか記憶が介入してくる余地はない。父親と同じように俺は仕事がすべてになりつつある。給料さえ貰えればいい。後は家で寝転がりくつろぐ時間。家族のことに思いを馳せるとか、価値のあることを見つけるとか、そういうことは給料に反映されない。仕事をし、その中で優位につけるポジションを探し、自分の都合を通せるよう工夫するために熱心に労働する。それがすべてであり、ほかのことに意味はない。給料をもらい、生活する。美味いものを食べるとかどこかへ旅行へいくとか、すべて無駄なことでしかない。妹の名前さえうつろにしか思い出せない。俺の父親がよく犬と俺の名前を間違えたように。誰かに付随する何か(この場合は母に付随する養われ)は、俺の父親にとって同一のものであり違いなどはないようだった。人間だろうが犬だろうが、付随物なのだから具体的な名前を覚えておく必要はない。息子であろうと、そんなことにどれだけの意味があるだろう? 息子に親切にすれば給料があがるか、会社に評価されるか、あるいは誰かより優位に立てるか? そんなことはありえない。酒を飲んで寝てしまうに限る。
あれほど憎んでいた父親と同じ暮らしをして、そこに泥酔気味の満足感を覚えている。俺はどこかで父親と同じ生き方をすれば、そのとき初めて父親は俺を同族として見てくれるのではなかろうかと期待していた気がする。だから誰かに「お前は間違っている」と言われたり、あるいは思われたりしていても、それはどこか俺にとって必要なことだったのかもしれない。やはり誰かが俺の父親をブチ殺し、その生首を俺に捧げて「お前の方が価値がある」と認めてくれなければこの気持は死ぬまで癒やされないのかもしれない。もうすぐ北からミサイルが落ちてきてみんな死ぬのだろうか。だとすれば俺はこのまま死ぬわけで、癒されることはない。つまらない人生だ。なんの価値もない。
記憶が持たないから楽しいことも覚えておけない。次の日には何も覚えていない。何ヶ月も経っておぼろげに思い出すこともあるが、極めて稀だ。いつも薄くて白い霧が記憶にかかっていて、輪郭しかなぞれない。それがとても悲しい。脳の中にあるざるからとめどなく冷水が流れ落ちていくのをただ見ていることしかできない。誰かせき止めてくれないだろうか。俺の家族にはそれができなかった。俺の記憶を留めるための価値を作ってくれなかった。俺に価値がなかったからだ。
とても悲しい気分でいっぱいだ。この状況をどうすれば打破できるのかまったく見当がつかない。だが、俺は一度だってこの状況を打破したことがあったのか? 今までもずっとこの状態でがんばり続け、それをやめたり再開したりしていだけなんじゃないか? だとしたらあまりに苦しい。なんの希望もない。あまりにも狭すぎる人生が、俺に仕事とわずかな休息の往復を迫る。父親と同じ生き方。誰かが手を差し伸べてくれれば変われるのかもしれないが、そんな見返りの見えない勝負に打って出てくれるやつがいるわけもない。自分自身でどうにかするしかないのだ。頼れるやつなどどこにもいない。勝つか負けるか、自分だけだ。それを続けるには、あまりにも人生は長い。だが今日死ぬとわかっても、動くかどうかはわからない。誰にも期待されず、信じてももらえないし、仮に信じると言われても、俺自身が俺を信じられないのに、そんなことをするやつの気が知れない。他者が俺を信じられず価値を感じられないのと同じように、俺もまったく同じ目線で俺自身を見ている。光線銃で全部消してしまえれば簡単なのだが、そんな都合のいいものもない。トロンボーン。いったいどんな楽器なんだ? どんな音がするんだ? いったいうるさい音が鳴るだけの吹奏楽を、どう描写したらいいというんだ? うるさい音が鳴っているだけだとしか思えなくなった俺の感性のどこのヒューズが飛んだんだ? 最初から飛んでいたのか? たまたま通電しただけで、一種の漏電に近いものだったのか? 回路図の存在しない自分の心の配線をいじくり回しては絶望している。奇跡が起きれば通電する。だが奇跡なんてどこで買えるんだ? 今までもずっと奇跡を待ち続け、奇跡が勝手に俺を戦わせてきた。これからもずっとそうなのか。みんな俺を信じているのではなく、奇跡を待っているのか。俺と同じように。俺は彼岸になんていなかった。ずっとみんなの隣にいた。奇跡を探して。