Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
自死した先にあるもの

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 死について考えてみる。
 というか、ここ数日、自死念慮がある。死にたい、と思っている。
 もう慣れた感情だから、久々にできた口内炎のように味わっている。こんな痛みだったな、と。死にたい原因がなんなのかはわからない。試験が不合格だったからかもしれないし、合否はともかく燃え尽きたからかもしれない。俺にしては十分によくやったと思うけれど、現実の壁は高かった。それは仕方ない。物事はどうせろくな方向に進まないのだから。
 何をやっても無駄だったし、報われなかった。だから死にたくなるのも当然かもしれない。だけども、今の俺は自分が不幸で哀れみを止められないというより、一段落したから風呂でも入ろうかなくらいの気持ちで死にたがっている。別にそんなに嫌な気持ちじゃない。ただ死を身近に感じる。

 もともと生きようとしてる方が無理していて、気詰まりだし、うんざりする。死んでもいいか、ぐらいの気持ちのほうがフラットでいられる。どうせ死ぬんだから、誰に期待したって意味がない。冷たくされたって、どうせお互い死ぬ身なんだから、あとには何も残らない。気にする価値もない。
 こういうと、猫がいるのに死ぬなんて無責任だ、という人もいる。俺が死んだあとにうちの親に任せたとしても、親が猫より先に死ぬ可能性のほうが高い。残された猫たちはどうなる。もちろんそれは心配だし最悪の未来だ。俺だって望んじゃいない。だけども、ただ上から正論で「自殺したがるやつに猫を飼う資格はない」という言葉をぶつけたところで状況は悪化する一方だ。なんの値打ちもない。俺も自殺志願者が猫を飼おうとしたら止めるかもしれない。やめといたらと。でも結局はそいつが決めることだし、そいつに飼われる猫も一つの運命だ。俺たちも猫も変わらない。それぞれにそれぞれの運命がある。それはどうにもならない真実だ。どう頑張ったってなにかしらの運命には見舞われる。それは止められない。

 じゃあ死ぬにあたってどうするか、と思って、まずは布団を上げた。万年床を上げた。いつも俺がくたばってる寝床。それをとりあえず上げてみた。死ぬんだからもうそんなことする必要はない、というよりも、心置きなく死ぬには布団を上げた方がいいと思った。終活とはこういうことなのかもしれない。
 自分が死ぬと思っていた方が、生きる方向へのベクトルが向く気がする。
 なぜってもうひたすら眠りまくって、体力を回復し、「いつか訪れる偉大な瞬間」にベストを尽くして幸せに生きる必要がないからだ。幸せになることなく、死ぬのだから、「いつか訪れる偉大な瞬間」など必要ない。そんなもんはない。俺は誰にも知られず、なんの値打ちもなく死ぬ。それが普通のことだし、全然おかしなことじゃない。悲しむやつもいれば、どうでもいいと思うやつもいるだろう。全然それで構わない。今回、生きるのが辛くなったから友達にごはん食べようラインを送りまくったが、ほとんど一緒にごはんを食べてくれなかった(約束してくれた人もいる)。
 それは仕方ない。俺は友達にするには扱いにくいし、価値も低いし、つまらないやつだ。愚痴っぽくて、不幸器質で、幸福を感じない。身から出た錆というやつで、避けられたり離れられたりするのは仕方ない。それにどうせ死ぬと思えば、自分が大切にされる必要もない。どうせ死ぬんだから。相手には相手の都合や時間の使い方があるし、俺がいくら辛くても、それを相手に押しつけることはできない。無理がある。
 だから人を許せるようになった。恨まなくて済むようになった。なぜならもう死ぬんだから。何かを大切にしたり、維持したり、守ったり育てたりしなくていい。ただ放っておいて、自分も世界もなりゆきに任せる。くたばろうと知ったことじゃない。それはとてもフラットな気持ちだった。もともと俺たちは無機物だったんだから、無理に有機物でいる必要なんてないんだろう。
 だから終活をすることにした。
 身の回りの整理は、去年の暮れにもやった。友達に「いままでごめん」とラインを送りまくり、心配されたり冷罵されたりした。だが一つの区切りとして、いろんな片付けをしたりした。もう読むことのない漫画は捨て、思い出だったかもしれない品物を捨てた。もう思い出すこともない。本当に大切なものなんて、何もなかったのかもしれない。本当に大切なものがなにかわからないから、こんなにどうしようもない人生だったのかもしれない。それは確かに不幸だ。だが、後悔する元気もない。そんなことしてもなんの意味もない。
 猫たちは大事だ。だが、だからといって生きると決断できるほど俺は強くない。それは仕方がないことだ。ぶん殴ったり叩いたりして直るようなもんじゃない。単純構造の電気配線じゃあるまいし、接点に振動を与えただけで直るなら苦労はしない。基板のコンデンサがくたばったらどうする。バカがやることだ。
 自分を責めたり追い込んだりしても、スーパーサイヤ人になんかなれない。ただ辛いだけだ。そんなものに意味はない。

 それよりも死ぬことを受け入れれば、何も欲しくなくなる。成功も称賛もいらない。あの世には持っていけないから。死ねば電源が落ちるように消えるだけだ。そのあとも世界は残ったり残らなかったりするんだろうが、それは俺の認知の外の話だ。どうすることもできない。ゲームを終了したあともシムシティが続いているかどうか俺は知らない。続いていくんだろうとは思う。
 オキュラスクエスト2を買ってエロVRを見る必要もない。今は金がないから我慢するけど、そのうち買うとは思う。でもエロVRで心が完全に満たされるかどうかはあやしいところだ。薬の影響なのかどうなのか知らないが、性欲はかなり薄れている。抜かなくていいなら抜かない日々を送っている。前立腺がんになる確率だけが右肩あがりに増えている。もはや義務で抜く。

 死ぬのはいいが、苦しいのはごめんだ。だから終活として運動もしようと思う。今朝はストレッチをした。ストレッチすると筋肉のスジが伸びる気がする。昔は柔軟が得意だった。がんばれば冷蔵庫に放置した豚肉みたいになった今の足も柔らかくなるかもしれない。希望はないけれど、死ぬまでにやることは多少ある。
 いつか幸せになれるから頑張ろう。そんな言葉に俺はもう騙されない。騙されることができない。もし幸せになれるのなら、それはやはり行動と連動して訪れるべきだ。幸せになるために、幸せになれないまま、努力し続けるやつがいたらそいつは間違いなく狂っている。結果と手段が入れ替わっているとか知ったような論法じゃなく、自分が幸せになれていないことを理解できていないまま戦っているのだからそれは狂気以外の何物でもない。それは称賛されるより心配されるべき状態だ。燃え尽きて我に返ったときのそいつに対する責任を、誰か取れるのか?

 バナナを食べた。食欲は朝からない。会社でこってり嫌味を言われてうんざりしている。どうせ死ぬんだから言わせておいた。相手だってどうせろくな人生じゃない。放っておけば死ぬ。そんなやつの戯言を聞く値打ちはない。「おまえの考え方はズレている」とかなんとか抜かしていたが、いったいどこをどう叩けばてめぇが正しい確信が得られるんだ? 自分にばかり都合よくカスタマイズされた常識か? バカは生きていると周りに迷惑をかける。バカに存在価値はない。少なくとも俺にとっては。今の50歳以上はググる習慣がない最後の世代だから早くみんな死ねばいいと思う。40歳以下はみんなググって生きてきた。それで少しはバカが直る。自分の頭で考えない空洞人間。目を見れば分かる。ろくに機能していない。壊れたbotだ。相手にするとおかしくなる。

 もう死ぬ、と思っても、焦りは不思議とない。やり残したこともない。どんな願いを叶えても、心が満たされることなんてない。入れすぎたMODデータみたいに、あれもこれも詰め込んだってろくなことにならない。本当に大切なのは、自分が死ぬということ。木端微塵に四散して誰からも思い出されないこと。それで充分。
 不幸というのなら、幸福になれると信じて泣きながら歯を食いしばって我慢すること。それこそ不幸だ。
 勝負する。それはいい。勝つ。それもいい。じゃあ、いつまで戦う? いつまで勝ち続ける? うまくいけばいくほど真実から遠ざかる。自分に都合よく考える。死を忘れる。他人事にする。そんなのありえない。俺たちはプリウスミサイルで今日にも死ぬかもしれない。セスナが落ちてくるかもしれない。大切なことはそんなに多くない。本当にやり残したことだけさっさと始末して、茶でも飲んで死ぬべきだ。縁側は天国に繋がっている。

       

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Neetsha