Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
いもうと!

見開き   最大化      





 ひひひひひひひ――耳障りな声がする。隣の部屋からだ。
 俺は死んだダニの臭いがする布団の中で身じろぎし、片目だけ開いて時計を見る。午前二時半。深夜だ。
 眠っていたわけじゃない。ずっと起きていた。ツイッターで呟いてからすぐ布団に潜ったから、おおよそ二時間ほど眠れないまま、こうしていることになる。
 睡眠障害、という単語が脳裏にちらつく。そう診断してもらえたらどれほどラクになるだろう? 面倒くさいし金がもったいないから、どこの病院へもいかないが。そんな時間は俺にはない。
 携帯を開く。ツイッターを見る。閉じる。呟く気力がない。というよりも、いま呟けば公共のネットに(といっても俺のフォロワーだけになわけだが)毒を吐いてしまいそうで申し訳ない。
 俺は黙って毒を飲み込み、暗い天井を見上げる。


 ひひひひひひひ。


 どうにかならないものかと思う。
 よくあんな笑い方をしていて彼氏や友達が離れていかないものだ。補正でもかかっているのだろうか? うちの妹は美人ではないが、不細工でもない。あえて言うなら「お手頃」だ。それが原因かどうか知らないが、不出来な兄貴と違ってうちの妹はよくモテる。小学校の頃から男の話には事欠かない。性根の腐り方は俺とどっこいどっこいだろうに。
 携帯を開く。妹のアドレスを呼び出す。
 殺すぞ、とまで打って、閉じる。携帯を投げる。また妹の笑い声。俺は耐える。
 うちの妹は高校に行っていない。
 だから電話を取り上げてしまうと(といっても今はヤク決めた彼氏に骨折させられたことのあるとかいう不良の女が遊びにきているのだが)友達がいなくなってしまう。それは不憫でもあるし、仮に取り上げても妹は俺に従わない。





 妹が高校受験の時、彼氏を作った。夏だった。勉強しなくなった。
 俺は再三、母親に妹から携帯を取り上げるべきだと打診した。母は同意したが、するだけだった。妹は彼氏からの忠告も聞かずに遊び呆けて、合格県内だった公立から落ちて私立に通うことになった。
 うちは借金をした。
 もともと、おやじのわがままで買った新築と四駆で家計は火の車だったにも関わらずだ。
 この家には馬鹿しかいない。俺を含めても。




 話は戻る。俺は何度言っても妹から携帯を取り上げず、朝帰りもやめさせないどころか車で駅まで送り迎えする母親に業を煮やした。俺は居間で妹の携帯を取り上げ、その背中を蹴り飛ばして踏みつけた。思い切りだ。容赦はしなかった。
 妹は灰皿を俺にぶつけようと握り締めた。兄貴が兄貴なら妹も妹だ。だが、妹は俺に灰皿を投げつけてこなかった。投げつければ、最悪おれが自分を殺す可能性があると思ったのかもしれない。俺は俺の一秒先のことを予測できないから、その可能性はまったくないわけじゃなかったし、そのときの俺の目つきはたぶん尋常ではなかっただろう。
 ちょっと言い訳でもしてみようか。俺は妹のためを思ったのだ。頭部や背骨に致命的な損壊さえ与えなければ痛いだけだ。痛みで眼が覚めるならそれもやむなし。そう思った。
 同意してくれる方もいるだろう、あるいは、この人非人、と俺を蔑む方もいるだろう。俺が言いたいことはひとつ、この世の考え方、俺の前にある道をどちらか一方に予め決定しておいてくれたら、俺は悩まずその道を選んだだろう、ということだけだ。難しいか。難しいかもしれない。卑怯なセリフを吐こう。誰かがなんとかしてくれたら、俺だってあんな真似はしなかったのだ。




 結局、妹は遊び続け、ろくに家に帰らず、飲酒喫煙朝帰りは当たり前、髪を一夜でキンキラキンにして帰ってきたこともある。その結果、公立高校の受験にものの見事に失敗した。
 その妹が、高校にいっていない、ということはもう話したと思う。そしていま、俺の隣の部屋で不良女と酒と煙草をやりながらゲラゲラ笑って、隣で横になっている兄の眠りを妨げている。
 妹は結局、高校には一年の一学期くらいしかいかなかった。そのあとはお決まりの不良コース。元の木阿弥だ。高い学費を払ってもこれじゃなんのためにいかせているのか。まあ、留年決定の俺が言えた口でもないが。
 腹が痛くなってきた。俺は布団の中でパジャマの中に手を突っ込み、下腹部をさすった。さわると腸が盛り上がっている。絶対に正常ではないと思うんだが、放っておいたままこんな歳まで生きてきてしまった。考えすぎだといいのだが、開いてみたら手遅れになっていてもおかしくない。冷や汗が出て来る。腹が痛い。でも、その痛みは誰にも助けてもらえない。だから俺は誰にも期待しない。誰もこの俺を救い出せはしない。喚いても泣いてもどうにもならないから、俺は歯を食いしばって体を丸め痛みが過ぎ去るのをたったひとりで待つ。




 俺にせよ、妹にせよ、学校へいかなくなる、ないしサボりがちになるのには理由があった。
 引越しをしたのだ。俺が中一、妹が小二の頃だ。
 妹が不登校になった年数はちょっとばかし長かった。小学校三年と四年を、妹は家で過ごした。
 ご期待に添えなくて申し訳ないが、俺は転校してすぐは調子がよかった。すべてがうまくいく気がしていた。新しい中学で部活に入り、彼女もできた(二日で別れたが。手もさわってない)。
 なんの問題もなかった。話す友達もいないわけじゃなかった。家に友達を呼んだこともある。だが、俺は学校へいくのをやめた。家には妹がいた。
 いま思い返してみれば間違いなく鬱だったのだと思う。壁を蹴り破ったり、殴ったり、身体が震えて外に出られなくなったりしたし、心療内科にも通院していた。そこで俺が見せた殺意に関しては以前別記して叩かれたので書くのはよそうと思う。白状すれば、あれは俺が自身の実体験を小説に100%(99%かもしれない)乗せたらどうなるかという実験だった。やはり小説はフィクションに限る……。




 話を戻そう。
 妹は、俺の記憶にはないが(俺は妹になんか興味はなかった)五年頃からぽつぽつと学校へ行きだしたらしい。その頃は俺も高校受験が始まりかけていて、学校へ復帰していた。歯を食いしばって肥溜め育ちの糞田舎者どもの好機と侮蔑の視線に俺は耐えた。負けてなるものか――俺を誰だと思ってる。てめえらとは髪の毛の先っちょからケツの穴まで出来が違うんだ――いまでもそう思っている。そうでも思わなきゃやってられるか? 俺が俺でなければ俺はとっくに死んでる。
 俺はよく勉強した。一刻も早く中学から出て、なにもかも一新させたかった。教師の言うこと一言残らず聞いて勉強した。
 俺は高校に受かった。妹は小学校のクラブにいっていたようだが、当時のことは思い出せない。なにひとつ記憶が妹に関して残っていない。おれたち兄妹は同じ家に住みながら、別の場所で別の生き方をしていた。おそらく等しかったのは、その烈しさだけだ。
 そういえば、妹は小六のときに男子と付き合っていた。不登校アガリで周りの連中を田舎モンと見下していたって顔がよけりゃあ相手をしてもらえるのだな――と俺は鬱屈とした気分で思っていたが、祝福していないわけでもなかった。
 とっとと誰かと結婚して、出て行けばいいのだと思っていた。
 いまでも思っている。



 ○



 場所は変わって、トイレからお送りしよう。ちょっとシャレにならない。こんな平然とした口調で喋っているからお分かりにならないかもしれないが、俺はいま全身を総毛立たせ、ケツ丸出しで苦悶に呻いている。腹が痛いのだ。しかもこの痛みは、糞を出すのに時間を喰うタイプの痛みだった。
 うんうん唸っていると、とんとんとんとん、と階段を下りる音がした。
 妹が居間をあける音。居間で寝ている母に何事かいって、出て行った。俺は時計を見る。
 夜中の三時。
 殺してやろうかと思った。
 てめえは好き放題遊んでいるくせに、働いてくれている母親をこんな真夜中にたたき起こして(おそらく金でもせびったのだろう)不良の女と夜遊びに出かける。しかも最近できたとかいう彼氏がきているのだろう、家の外にエンジン音が連続していた。女二人の嬌声と排気音が遠のいていく。
 ケツ丸出しじゃなければブッ殺していたかもしれない。
 俺はわなわなと震える己を自覚していた。殺したい――殺すというのが大袈裟だというならこの感情はなんだ? おそらく妹が灰皿を振り上げたときとまったく同じ感情が俺の中にある……。
 憎悪だろうか、たぶん、憎悪だろうと思う。
 憎むことに関して、俺達兄妹はひとかどのサラブレッドではあると思う。




 俺の家庭について語ろう。
 親父とお袋、俺と妹。ここまで読んでいただければおおよそすでにイメージしてもらえていたかもしれない。
 この中で、クセモノが我が父上ドノだ。
 どこがクセが悪いか。
 酒? 飲むが、暴力を振るには至らない。
 女? 風俗ぐらいにはいっていそうだが、息子譲りの嫌われ度合いで俺の母と知り合ったのも兄弟に頼ったほどだし、おめかけさんを囲うほどの甲斐性はないだろう。
 無職? いいや、毎日朝から晩まで働いて下すっている。
 では何がクセなのか。
 嘘つきなのだ。
 なあんだ、とお思いの方もいるかもしれないが、後学のために教えてあげよう、絶対に子どもに嘘はつかない方がいい。つくなら、最低二十年はバレない嘘にするべきだ。
 俺の親父は嘘つきだった。なにを聞いても、
「ほんと?」
 と聞くと、
「うそ」
 と答える。字面にすればほほえましいが、誰であろうこの俺の親父どのである。おわかりだろう、性格がねじくれ曲がっていることは。お袋のことを「かたわもの」と呼んで笑いながら罵る男だった。若い頃は。
 根は悪い人ではないのだろうと思う。が、学校で友達を作れずに八歳で自殺を考えている息子の前で自分がやってきたガキの頃のいじめ自慢などを始める輩だった。
 まあ最近は歳を食ってきて衰えたのか、それとも息子から浴びせかけられてくる殺意の視線にどうやら自分に原因があると悟ってきたのか、おとなしくはなってきた。窮屈そうだが、それでやっと人並み。人並みなのだ。
 人並み!
 俺がどれほどこの言葉に憧れているかおそらく余人にはわからないだろう。十人いたら七、八人が構成するその環! 俺がどれほどその中に入り込むことを願ってきたか……そして諦めざるを得なかったか……。
 あの頃。
 親父は、家に帰って来るたびに怒鳴り散らしていた時期があった。お袋もその頃はまだ従順だったので、言われ放題の有様で、一番ひどいときは物が飛び交っていた。
 いまでも忘れられない。俺は六時から始まるアニメが楽しみで、どうか親父が今日はどこかで飲んで八時ごろに帰ってきますように、と祈りながら、テレビの前で妹と正座している。そんなときなのだ、決まってわが親父どのがご帰宅されるのは。
 怒鳴り声でテレビどころじゃなかった。つけていても、音が聞こえなかった。だから俺と妹は声も交わさずにテレビを消して、居間の隅っこに逃げた。妹は五歳か六歳か。俺は十歳かそこら……妹が腕と足を屈めて、震えていたのを俺は覚えている。母も父も見なかったが、俺だけはそれを見たのだ。
 俺は人を憎むことを覚えた。
 殺してやりてえ、と心の底から思った。てめえで流した涙をてめえで呑んで、暴れ狂う親父のいるキッチンを睨んだ。心が、身体から飛び出してしまいそうなほどに人を憎んだことがあるだろうか? 俺はある。
 ふと振り返ると、妹が、まったく俺と同じツラ構えで親父を睨んでいた。ショックだったよ。もう後には引けないんだなってガキでもわかった。俺と妹は、たぶんあの頃にブッ壊れてしまったんだと思う。
 俺も、妹も、親父が考えている以上に深い心の傷を当時負った。それはたぶん永遠に治癒しない。
 かくも当然のことだが、やった方はこれっぽっちもそんなことになっているとは知らないのだ。親父はきっと永遠に俺がなぜ実の父親を憎悪しているのかわからないだろう。べつに憎みたかったわけじゃないんだがな。




 なんの話をしていたんだったか? 妹、妹の話か。
 時計を見ると五時半。俺はまたぐらの間から便器を覗き込んだ。完全に下痢だ。俺の心のように真っ黒。しかし悪いことばかりじゃない。考え事をしていたおかげで痛みはいくらか薄らいだ。
 ケツを拭いてトイレから出ると母が起きて洗いものをしていた。五時半にだ。秋が終わった頃でまだ太陽ものぼっちゃいないのに。まあ、いつもは仕事がないと午後まで寝ているから毎朝のことってわけでもないんだが。
「――また?」母が言う。腹痛のことだ。俺は腹をさすりながら黙って頷いた。そのままソファに腰かける。親父が起きる前には不貞寝を決め込もうと思う。が、いまから眠ったのでは学校にはいけまい。夜からはバイトもある。体力を温存しておかねば。
 ある友達は俺に言う。大学を休んでまでバイトする意味があるのかと。確かにそうかもしれない。ではどうすればいいのか。バイトだからとバックレてしまえばいいのか。しかしバイト先でバックレをするやつは一人もいない。いったい何が正しいのか? 俺にはそれがわからない、だからいつも自分で決着をつける。つけるが、そのおかげで俺はいつも一人ぼっちだ。
 大学に話し相手がいない。俺も話し下手な方だから、つるむやつは大抵マシンガントークで、俺の話を聞こうとはしない。いわば俺は言葉便器なのだ。黙って聞いてくれる、だからこいつはいいやつ。そして俺の話は聞かない――みんなそう。大学生なんか一人残らず死んだらいいと思う。最近、真剣に、話す回路みたいなのが壊れてきた。喋るに喋れない。自分が喋ることが罪悪のように思われる。誰も俺の話なんぞ聞きたくはないのだ――そんな劣等感がついて離れない。泥沼だ。
 俺は洗いものを続けている母親の背中にいった。
「――作家になろうかな」
 母は軽く笑ってこっちを振り向きもしない。
 俺が作家になれるかどうかはともかくとして、俺が欲しているのが口先だけの同意だとなぜわかってくれないのだろう? 俺は母に同意されようとされまいと、俺の道は勝手に決める。だが、言葉で癒せる渇きもあるはずだ。俺はただ、軽くこう答えてほしいのだ、そして願わくばそう思ってほしいのだ――「それでもいいんじゃない?」と。
 案外、その言葉を母の口から引きずり出せれば――母は俺の言葉を親父のそれ以上に信用していない節がある。親父のは人造の嘘だが、俺のは天然の嘘だからだ――俺はあっさりと就職に踏み切るかもしれない。そう思った瞬間に涙が眼に滲んだ。鼻をすすって、自分の部屋にあがる。掃除するものもろくにいない、綿雲みたいなホコリだらけの部屋。人が住んでいるとはちょっと信じられない。俺は布団の中に逃げ込んで思う。
 死のうかな。
 死なないと思う。俺の人生を振り返ればもっときつい局面はいくらでもあったし、そのすべてを俺は単独で撃破してきた。単独じゃなかったときは、きつくなかったときだ。平和な時代は、俺にもあった。だからこそなお、きつい。
 身体という器に穴が開いていて、そこからあらゆる元気の源が零れ落ちてしまっているような気がする。鬱だろうと思う。病院へいけばなにか解決するだろうか? だが、俺は医者を信用しない。誰のことも信用しない。どうしてだろう。おそらく嘘があまりにも身近だったからだ。そして現実は、嘘にしてしまいたいことばかりだったからだ。
 それでも俺は心のどこかで救いを求めている。すべてをチャラにしてくれることが起こって欲しいと。いつか何かが好転してドミノ倒しになり、笑って死ねる日が来ると。
 来ないだろうと思う。
 幸せになる権利は俺にはない。そうなるには、俺は幸せというものの実態を知らなすぎたし、身勝手すぎる。愛されるには愛を提供しなければならない。だが、俺の愛は提供されて始めて分の悪いレートで製造される代物だった。だから俺は、誰かから愛を融資してもらえるほど、価値のある人間じゃあない。
 自分のことだけで精一杯だった。
 誰にも助けてもらえなかった。
 その挙句がこのザマだ。
 相応しいようにも思う。
 ホコリのにおいしかしない、吸うとセキが止まらなくなる布団に顔を押し付ける。
 胸いっぱいに愛が溢れている、分けてあげたいくらいだ――そういう人間を見ているとぶちのめしてやりたくなる。そして同じくらい、どうか幸せになって欲しいとも思う。俺には届き得ない幸福を得て欲しいと。屈折している。俺は愛することと憎むことが混同してしまっている。
 親父は、俺が子どもの頃、毎年初日の出を見に連れていってくれた。
 俺は親父を憎み、同時に親父に対して息子らしい愛も同時に持っていた。だから、俺は、もう愛することも憎むことも同時にしかできなくなった。
 幸せにはなれないんだろうと思う。それでいい、と最近は思う。ただ静かに暮らしていきたい。静かに……。
 急にメールが届いた。六時だ。
 不愉快極まる。
 俺は暗闇を裂いて光る携帯を片目で睨んだ。高校の同級生だった。
 ――今日麻雀しようぜ!
 頭のなかでざっと計算する。バイトが終わって、その足で終電に飛び乗れば、都合のいい雀荘に飛び込むのはわけない。
 だが、俺は簡潔にこう打って返した。
 ――すまん! 明日も朝からバイトなんだ……また今度な!
 送信。
 もちろん今度なんて機会があったって顔は出さない。俺は携帯をぽすっと布団に取り落とした。
 ああ、全身から力が抜ける。もう何もしたくない。死にたい。善でも悪でもどっちでもいいが、生きる力がただ欲しい。それさえあれば明日を潜り抜けて明後日へ突撃していくことも可能なのに、俺の身体は動こうとしない。
 事情も聞かずに怠け者扱いして、病気だとわかれば無理しすぎと呆れる始末。
 ばっかじゃねえの、と思う。
 急に力が湧いてきた。ただし、俺の制御できる範囲を超えていた。俺はすっくと立ち上がり、ドドドドドドと重機関車のように階段をかけおりて、着のみ着のままに外へ飛び出した。俺の家の目の前は道路になっている。ちょうどトラックが通りかかったところだった。俺はわけもわからずに吼えた。そのまま轢かれた。
 俺は死んだ。




 排水溝に俺の血が流れていく。斜めになった視界。頬にざらついたアスファルトの感触。もう音は聞こえなかった。運転手の気配もしない。トラックも見えない。
 死ぬらしい。
 死にたくない。案の定そう思った。だが、それは狂おしいほどの悲しみというよりは、静かな憤怒といった感じで、ふつふつとした怒りだった。俺は死ぬのか――結局!
 死にさえ憎悪した。どうして死なんてものがあるんだ。そんなものは邪魔なだけじゃないか? 鬱陶しいだけじゃないのか? 死なないことにどんな問題があるんだ――その疑問に対する答えはどうも残された時間では得られそうもないので、俺は最後の力を振り絞り(間違いなく、その原動力は俺の怒りだったと思う)ポケットの中の携帯を握り締めた。それを不恰好な軌道で投げた。
 スマートフォンにするには面倒で、かといって使い続けるには不便だった型式(メモ帳が使いづらい!)の俺の携帯が、いやもう俺のとさえ呼びたくない携帯が、俺のどろっとした血と一緒に排水溝に滑り落ちていった。
 俺はふっと肩から力が抜けるのを感じた。思えばこの俺の怒りはすべてあの携帯電話にあったと言える。なくては不便だ。あった方がいい。だからこそ不自由に思った。あんなものがあるから、バイトのバックレも、大学のバックレも、友人知人からのバックレも、世界から一瞬だけ逃げ出すこともままならなかった。あんなものがあるからいけないのだ。人間はあんなものに縛られるべきじゃないんだ。あんなものがあるから、その場所にその時その人がいるという『価値』が無くなっちまったんだ。
 おまえを殺したのはおまえだ。たぶん、少しは、おまえのせいだ。
 そう心の中で叫ぶと、いくらか満足できた。朝日が俺の顔をしたたかに打ってくる。あたたかい。
 ようやく眠れる。





 了

       

表紙

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha