わが地獄(仮)
スパイの男
その男はスパイだった。ただしあまり腕のいいスパイじゃなかった。迷っていたからだ。
現実はスパイファミリーのようにはいかない。スパイにとってアーニャは道具だし、ヨルは偽装だ。そこに情を挟んでもなんの意味もない。偽りの上にある平和なんてものは真の平和ではない。これは別にスパイファミリーを批難しているわけじゃない。面白い漫画だ。だが、あの漫画では、このスパイの男を救うことはできない。
この男は人を騙す時に迷う。本当に俺がやりたいことはこれなのか、たとえ国家のためといえども、情報源を利用して危険に晒すことが正しいのか? どんなに理屈を述べようと、スパイは正体がバレそうになれば利用した人材のすべてを破棄して逃げを打つ。スパイ本人が捕獲され尋問されることは絶対にあってはならない禁忌だからだ。
禁忌。
この男はこの文字を見るたびに疑問に思う、本当にこれは禁忌なのか? と。
これこそまさに思想犯の考え方だった。禁忌を禁忌と思わない。こんな男がスパイであるべきじゃなかったし、そんな運命は間違っていた。だが、男はスパイになったし、その心の底にある残忍さは人を騙し陥れる能力に達していた。決して優秀ではない、素質があるわけでもない、だがその男の周囲には、ほかにましな人材がいなかった。スーパーヒーローなどどこにもいない。あるのはジャンクで不気味な人間だけだ。
スパイの男はいつも迷っている。
禁忌を破って、すべて暴露してしまえばいいと。
国家、平和、常識、誇り、カネと家。
それをすべて失ってもよければ、禁忌を破ってもいい。
違うのか?
男は対象と会話し、演じている時、気が遠くなることがある。
どこか違う、映画のカメラが収まっているような位置から遠く自分を見ているような気持ち。この台詞はこう、こんな角度で、口調はこう。そんなオートメイションな気分で自分を操作している。この感覚がなんなのか、男はスパイになってから一度も理解したことがない。スパイになる前はこんな気持ちにならなかった。だからこれは、自分がスパイだからなのだろう。
国家は言う、おまえの仕事は素晴らしい、腕もいい、おまえのおかげで平和が維持されていると。
あれほど欲しかったはずの褒め言葉が、なんの意味も持たなかった。
あんたの言葉のすべてを否定すれば、俺は自由になれるのか?
そんな啖呵が喉の奥で渦を巻いていた。どんなに笑顔をつくってもダメだった。
男は邪悪だった。
その邪悪さを仕事で隠そうとしても、隠しきれなくなってきた。
男は戦争が好きなわけじゃない。なんの意味もない無駄な行為だ。だからそれを止める自分の仕事を肯定できるはずだった。今まで何度も戦争を止めてきた。英雄だと自負してもいい。
それでも満足できなかった。
偽りの中で、自分を充足させられるものなど存在しない。
いったい自分が何を求めているのか、男にはわからなかった。
誰も教えてはくれなかった。