Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
つまらん本を読んだ

見開き   最大化      



 つまらない本を読んだ。
 んだけども、べつに悪い気分じゃなかった。途中で挫折しようかと思ったんだけど、騙し騙し読んだ。
 小説としては展開が場当たり的で、伏線も特にないし、主題がどこにあるのかさっぱりわからなかったけれども、別にそれは悪いことじゃないのかもしれないとも感じた。
 とにかく一冊、信じて読んでみる。よくよく考えるとそれができていないから、読書ができないのかもしれないと思った。
 文章を読んでいて、とにかく最近は気が散る。この構成は使えるかどうかとか、この小説を読んだことによって誰かにマウントを取れるだろうかとか。そんなくだらんことを無意識に考えてる。
 読書はコスパが悪い。
 この本読んだよ、へえそうなんだ、なんていう雑談が通じるのは村上春樹と東野圭吾だけだし、俺も仕事を始めてから趣味は読書ですというと「小説なんて読もうと思ったこともないよ」とオジサンたちに言われるのがオチだったので最近は話題にも出さない。まあ、こんなに娯楽に溢れていて、こんなに労働で時間がない時代もかつてないので、わざわざ読書なんてする意味あんのかと言われれば別にない。
 ないはずなんだけども、なんだかつまらなかったはずなのに、悪くなかった。
 とにかくこいつが書いてることを信じてみよう、と思って読み進めたんだけれども、そうすると自然と文章が入ってくる。読みにくいのは作中の表現じゃなくて、俺自身が『疑い』の気持ちを持ったまま読んでるからなんだろう、と思う。
 昔、中学生くらいの頃、まだ世の中は『かまいたちの夜』とか『弟切草』のファンが多くて、フリーのサウンドノベルをよく作っていた。まだぜんぜんネットビジネスなんてなくて、奈須きのことか竜騎士とかも世の中に出てきてなかったころ。よくよく考えると月姫はもう出てたかも。
 とにかくそれくらいの頃、俺はフリーのサウンドノベルを食い入るように読んでいた。読むことそのものが楽しかったし、理由はそれで充分だった。この世はなんていいところなんだろう、こんなのが無料で読めるなんて!と中学生ながら感動していた。
 その頃の感覚を少し思い出した。
 文章を追いかける、どういうことが起きているのか表現から想像力を働かせる。そのプロセスがすでに心地よいものであって、付属的なもの、たとえば構成がどうとかこうとかいうのは二次的なもので、別に捨てちゃっても構わないものなのかもしれない。
 俺はいつも基本こそ奥義だと思っているけれども、読書は文字を読み込むことがすでに奥義で、それ以上のものなんか何もいらなかったのかもしれない。
 このクソ忙しくてつらいことばかりの世の中で、楽しいことはいくらでもある。俺は労働を始めてから、エロ画像を検索すると三時間とか平気でかけてる。スマホを持った腕が腱鞘炎になりかけたり筋肉痛になったりよくする。
 それだけ『快』のない人生だったんだなあ、としみじみ思う。
 自分の好きな素材を単語で検索してよさそうなものがあると保存し、画質の良し悪しで保存するかどうか迷ったり、もうすでに保存してあるのはわかってるけどダウンロードデータの中を掘り返すのが面倒だから再ダウンロードして常に開きやすくしたり、エロ画像収集にはパズル要素がある。とても楽しい。でもすげー時間の無駄。
 楽しいんだから、人生も上方向へいけばよさそうなもんなんだけど、これが全然上向きにならない。
 快適なのは間違いない。自分だけの理想の世界なんだから。やりこみ要素もある。いざとなったら課金して保存した画像の大元のAVを買ってもいい。
 なのに全然元気が出ない。
 無意味にやる気がでなくて、集中力も続かなくて、立ち上がった瞬間には何をしようとしてたのか忘れる、そんな健忘を職場でも繰り返してる。
 幸せじゃないなあ、と思う。
 だから、思うんだけど、たぶん『快適』というのは、生きる理由にならない。どういうわけかならない。全然理屈にあわないし、そんなんじゃ困るんだけど、快適を追い求めても、ゴールがない。それがなぜなのかわからない。
 つまらない本には、終りがある。
 読破して、時間を無駄にしたと後悔することもあるんだけども、それでも諦めずにしっかり読み込めば何かが残る。気がする。
 少なくともエロ画像を漁るよりは、退屈だし構成が意味不明だった『雷電本記』を読み終えた時のほうが、充実感があった。
 雷電本記の悪口を書くのもどうか、と思った。最近はすぐ言葉狩りされて「そんなことを書くなんて作者が可哀想だ」とか意見があったりする。たしかにそれはそう。もし、アンチ意見が原因で「じゃ、俺はもうやらないぜ」と言って筆を折っちゃったりする作家がいるなら、俺はアンチ意見はなくしたほうがいいとも思う。
 とはいっても、自分の中の真実をぶちまける場がなくなるのは、窮屈だなあ、と思ったりもする。でも名誉毀損とかで訴えられたらたまったもんじゃないから、これからの時代はそういう「本当のこと」は言えない時代になるんだろうな。
 かつて便所の落書きと言われてたネットでさえ本当のことが書けなくなる。都合のいい、見栄えのいい表現だけが「優しい」とか「気配りができる」とか言って評価される時代になる。まあそれもいいか、とも思う。
 雷電本記はつまらなかった。でもいいところもあって、相撲のシーンはがんばって書こうという気持ちを感じた。でも、作中の展開にまったく関係のない火災のシーンとか語り部の嫁さんまわりの話とか(まったく雷電関係ない。最後まで関係ない)、意味ありげに登場したのに別に役割とかなかった町医者とか(ぽっと出なのにすげぇ尺もってった)、なんかすげぇ迷走してるな、と思った。たぶん「雷電の話を書くぞ! でも、史実をある程度拾ったら、あとはスカスカになった。火事と喧嘩は江戸の華、とりあえず火事書くぞ!」みたいなノリだったのかなと思う。ここまでサブエピソードが本筋に絡まない小説も珍しくて、ある意味で新鮮だった。それでも数少ない相撲小説だし、描写はしっかりしていた。ただ裏付けある(ような)時代考証に耐えられそうな(ようなとかそうなとか)描写があるのに、肉付けで空想をぶっこんでくるから、そこがチグハグだった。どうせ史実だけじゃ足りないなら、「歴史に対して主観を排し客観的な描写を心がけた」みたいな守りは捨ててしまって、好きなように雷電をオモチャにして小説を書けばよかったんじゃないかと思う。どうせ史実から逸れまくってんだし。
 ただ一生懸命書いてるのは間違いなかったので、読んでよかったなと思う。つまらなかったけど。この矛盾がなんとなく心地よくて、変な気分になってる。
 たぶん、「おもしろい」なんて、どうせ収束する概念なのかもしんない。
 どうせ、どんなにうまい構図を考えても、それはすでにあるパターンの亜種だし、それに縛られちゃったほうが、受け手にも読まれやすい構図になってしまう。「これはおもしろいカタチだから」とそればっか使って飽きられる。必殺技なんてもんはどうせそんなオチでしかない。
 それぐらいだったらわけわかんねぇままわけわかんねぇことしてるほうが、どっちも気楽なのかもしれん。
「おもしろいものだけ選りすぐって読む」とか、そもそもそんな考え方が間違ってるのかも。
 チェンソーマンでデンジが「クソ映画はなくなったほうがいいと思うか?」という問い掛けをマキマさんにして、マキマさんが「クソ映画はなくなったほうがいいと思う」と答えたら、「じゃ、死ぬしかねぇな」とデンジが言うシーンがあるけど、あれに俺たちはすぐウンウンそうだタツキわかってるなとか言うくせに、実際に自分が実践する段になると腰砕けして「おもしろいのだけ見たい~」とか言ってる。
 こういうのが、自分でもぜんぜんなってねぇなあと思う。
 本当はクソの中からこそ拾えるものが多い。『ズートピア』なんか見たってクソ面白くてクソ完璧なだけだ。作者の情念が一切ない。俺は『ズートピア』こそ映画の完成形だと思ってるし続編も見に行く気だけど、あれほど構成上の無駄が排され尽くした映画はそうそうないと思う。見てて怖くなる。
 少なくともズートピアから、単純に視聴者として楽しみを得る、という以外に得るものは何もない。そこには脚本技術が圧倒的にハイレベルで組まれているということ以外に何も受け取れるものがないから。キューブリックの「シャイニング」みたいに愚痴ってる脚本家のシーン見て「キューブリックおいこれテメーの愚痴だろボケ! このクソ根暗がよ」みたいなツッコミを入れる隙間がない。それがなんとなく居心地が悪い。
 クソならクソでいい。
 そう思って、キンドルで寝かせてた読みたい本をまた紐解いてみたんだけど(紐なんかないけど)、わりと楽しめてる。作品は変わってない。昔、読破を断念したのと同じ本なのに(当たり前だけど)、楽しめたり、楽しめなかったりする。それは結局、受け手の問題なんだろうと思う。
 俺自身にクソなものをクソのまま受け止める器量がないと、読書はできない。ただ眼が滑るだけだ。
 すぐに批判して、すぐに否定する。もちろんそれが大事なことだってある。でも、とりあえずは受け入れてみる。そいつが書いてることを無条件で信じてやる。そうすると、文章を追うのが苦痛じゃなくなる。
『こいつの書いてることなんか信じて、騙されないだろうか?』
『こいつよりももっとうまく書いてるやつがいて、俺は損をしてるんじゃないか?』
 そんなこと考えてて読書ができるわけがない。
 もし仮に時間の無駄だったとしても、それを受け止めてやるしかない。
 余裕のないこんなクソ社会では難しいけど、それを乗り越えて読破したときは、やっぱり悪い気分じゃない。そいつが書いたものに対して、イエスを打つかノーで返すかは、自分が決めていい。誰かに左右されたりしない。
 少なくとも、『快適』を追い求めたって、エロ画像を探す暮らしが残るだけだ。腕の筋肉は痛くなるし目も悪くなるし、我慢できずにエロ動画買ったりしたらカネもなくなる。いいことほんとない。
 それよりは気分がいい。




 ジョジョランドが始まったらしい。
 俺は常々思うんだけど、みんな卑怯だ。あれだけジョジョ立ちがどうしたとか、ジョジョ語録とか使って遊んでたくせに、『ジョジョリオン』がつまらなかっただけでアンチ化してる。そうかと思えば『ブラックキャット』を叩いてたくせに(俺も面白がって叩いてたクソだ)、『ToLOVEる』で快適にしてもらったら矢吹は神だともてはやす。
 みんな卑怯だ。どうしようもないクズ野郎ばっかりだ。
 確かにジョジョリオンはつまらなかった。豆ずくさんのことを思い出せと言われても何も思い出せない。虹村さんはあっさり死にすぎだし、岩男もよくわからなかった。でも、いつまでも『記憶の男が~』とか言ってて、本当は疑問になんて思ってねぇんだろう。あんなのどう考えても見切り発車で何も考えてなかっただけの話だし、同じ見切り発車だった第四部は称賛しておいて、八部は批判するなんていうのは卑怯者のやることだ。くたばっちまえばいい。
 あんな記憶の男がどうとか、そんなのジョウスケと吉良が融合してるんだから記憶が混濁してるんだろうくらいに自分を納得させちまえば次に進めるだろう。いつまでもグダグダ言ってるのは、それが『絶対に自分が優位に立ってぶっ叩けるから』だ。だって本当はわかってるんだから。作者が考えてなかっただけだって。それが確実だと理解してるから、やり玉に挙げて叩く。負けないから。
 いっそ死ね。それでラクになる。
 そういう根性が俺は昔から気に入らない。
 長く書いてればコケるのなんか当たり前だ。よく考えてからモノを言え。作り手側は読者側とは比べ物にならんほど自分の作品を吟味してる。選ばなかった展開や結末なんか数え切れない。それでも自分がすでに打った手はなるべく使わないようにするから、そうすると手数がどんどん減っていく。あれはもうやった、これはもうやった。アレンジなんかじゃ誤魔化しきれない。
 そういう状況に置かれた中で書き続けている作家に対して優位な立場からぶっ叩くというのが俺は気に入らない。本当にその作家に惚れ込んでいるならその作家と心中すればいい。終わったコンテンツになったかどうかだけの嗅覚だけ敏感なやつらが俺は嫌いで仕方ない。
 だから、それだけブッ叩かれた中で、「まだやる」と決めた荒木先生は本当にすごいなと思う。それはもうジョジョランドが面白いかどうかじゃなくて、普通ならオリるところでオリるのを拒否した、という時点で尊敬すべきだと俺は思う。面白いものを書けたかどうかとか、そんな話はどうでもいい。うんざりする。
 どんな作家だっていつか折れて負ける。荒木先生が9部を盛り上げるのか、ダメなのか、23部くらいまで書き続けるのかそんな未来は知らんけれども、少なくとも負けていくならどう負けていくのかまで見届けるべきだ。そこから目を切って目新しいものに飛びついていくというのが、俺は嫌だ。




 チェンソーマンの第二部がつまらない。
 仕方ねぇよなぁ、と思う。そもそもチェンソーマンの主題は第一部で完結している。あの「クソ映画はなくなったほうがいいと思うか?」は作品そのものの主題だった。あれは結局、仮にタツキが考えていたにしろそうじゃないにしろ、「デンジの物語はなくなったほうがいいと思うか?」と聞いているのに等しい。それに対して「なくなったほうがいい」と答えたマキマをデンジが否定する。
 物語として綺麗に完結している。だから第二部は難しいだろう、と俺は思っていた。それでもみんなデンジが好きだし、アニメも始まるし、なんとなく続けちゃったのかな、と思う。べつにアサちゃんが嫌いなわけじゃないけれど、主人公として弱すぎるというのはある。展開もグチャグチャで正義の悪魔が二回も出てきた時はどうしちゃったんだろうと思った。
 いっそグチャグチャになるなら好きにしちゃえばいいと思うんだけど(仮のたとえばならデンジがあっさり死んじゃうとか)、それもやっぱり難しいんだろうなと思う。なんとなく、毎週毎週、「次どうしよう」という作者の戸惑いを感じるクリフハンガーで終わっている。胸にチェンソーマンのヒモがあるやつも脇役だったし、コベニちゃんの弟も別に何もないし。ヨルとアサの間にあるユウコがあっさり死んだのもとりあえず置いてみたけど何も生まれなかったから処理した、みたいな感じを受けた。
 アサを主人公に置いたがために、いらなくなったらあっさり殺す、のいつものやり方もできないし、とにかく作者が窮屈そうに感じる。なんとか自由にやれたらいいのにな、と思う。



 最近、風呂に入ってない。
 といっても2日くらいなんだけど、とにかく入る気がしない。
 めんどい。
 セルフネグレクト、で検索しても、ゴミ屋敷が出てくるばかり。
 そういうのじゃない。
 自分を大切にできない、というだけで、セルフネグレクトは始まっている。
「社会生活に支障がなければ、病態と認めない」という考え方が俺は嫌いだ。
 迷惑さえ周囲にかけなければ、どれだけ本人が苦しんでいたってカンケーねぇ、ってことだろう。
 そんなん医療じゃない。思いやりでもない。
 もっとそいつがなぜ苦しんでいるのかに興味を持って、追求しようというやつが増えればいいんだけど、そんなのメリットがないから誰もやらない。余裕のない世の中だ。
 ドラクエ3は遊び人を入れたから傑作になれた、みたいな意見を見る。あるいは俺が自分で考えた。よくわからん。
 いずれにしても、意味のない役職があったのはドラクエ3だけだ。たしかに。
 オクトパストラベラーでさえ、そこまで踏み切った作り方をしなかった。全員に役割がある。役割がないやつがいたら、ただ使われないだけだ、という考えなんだろう。
 本当にそうかな、と思う。
 実際にドラクエ3で遊び人を俺は入れなかった。賢者になれると知ってはいたけども。でも、ほりいゆうじは遊び人を入れるのを強行したらしい。かなりの反対があったみたいだけど。
 それはやっぱり、役割が全員にあったら、ただのコマになって広がりが収束してしまうとわかっていたんだろうと思う。
 たとえ遊び人を選ぶやつがいなくても、それでも選択肢としてそれを置く。
 その大切さを再現できているRPGがないのかもしれない。オクトパストラベラーズでさえも。
 意味がないことが楽しい。メリットの逆をいくのが小気味いい。
 そんな感覚が薄れている世の中だ。
 冒頭の俺の意見じゃないけれども、メリットなんか捨てて、ただ文章を信じてみる、そういうアンチメリット的な考え方のほうが、救われるような気がするんだけども。



 久々にスマホに小説の一部を書いた。
 俺はたまにやる。衝動的に思いついたシーンが「カアッ」とアタマの中で熱して忘れないうちにスマホに打ち込む。ADHDの本領発揮という感じで、それをやってるときの俺の目つきなんて端から見たら異常者そのものだと思う。鏡で見てもビビると思う。
 書こうか書くまいか、なんて考える前に、無条件で『書く』と決めて行動するこの瞬間は気分がいい。悪くない。
 最近、またプロットを1からいじくり直して初期設定の根っこをひっくり返したんだけれども、今回のはうまくいきそうな感じがする。まあなるようになるだろう。考えてるだけで楽しいし。
 書くよりも、燃え上がれるかどうかのほうが大切だ。

 コンゲーム小説を読んでる。
 俺はもう、カネがどうしたとか、そういう話は好きじゃない。のんびり異世界で平和にスローライフしてるほうがずっといい。
 そう思ってたはずなのに、コンゲーム小説を読んだら面白かった。
 人が人と喰らい合うしんどい話なのに。
 俺はやっぱり、認識と認識をぶつけあって裏をかく、みたいな話が好きなんだなあと思う。戦いは好きじゃないのに、戦いの話がやっぱり好き。
 戦いというのは、残虐な面もあるけれども、コミュニケーションでもある。ルパン銭形構文なんかそうだけども、ルパンの最大の理解者は銭形だし、逆もそう。そういう関係性の中にしかないコミュニケーションというのはたしかに存在する。
 いくら儲かったとか、会社がデカくなったとか、出向しても倍返しだみたいな話はあんまりピンと来ないけれども、『お互いしか理解者がいない』話というのは、面白い。孤独が深いやつほど、ルパン銭形構文はハマるだろうなと思う。ルパパトちゃんと見ればよかった。












       

表紙

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha