わが地獄(仮)
俺は剣を抜いた
「俺の何が間違ってるっていうんだよ? え? 言えないだろ、言えるもんなら言ってみろ!」
「そんなのお前が一番よくわかってるだろ」
俺は剣を抜いた。刀身を相手の首筋に滑らせる。
斬ったなんて感覚はない。そんなものを感じる暇はない。
夢から覚めたような一瞬のあと、相手の男の首がゴロリと落ちた。俺はそれを足で蹴転がした。人間の頭部は後頭部にどれだけの凹凸があるか、それから鼻の形状で転がり方が変わる。飛び石のように軽く転がっていった男の首が、見物人の男の足元に辿り着いた。いつものように、灰色の服。
「相変わらず凄まじい斬れ味だな」
灰色の男は、生首を持ち上げて、古代遺跡から発掘された土器を眺めるようにそれを掲げた。
「首筋の断面がすごく綺麗だ。斬ったやつが迷わなかったのがわかる」
「べつに斬りたくなんかなかった。俺に構うからいけない」
「そりゃそうだろう。おまえに喧嘩吹っかける方が悪い。どう考えたらおまえに勝てるなんて思うんだ? その神経構造を疑うよ」
男は飽きたように男の首を投げ捨てた。口元に優位に立ったものが浮かべる嘲笑が浮かぶ。
「あんまり楽しそうな顔じゃないな」
「当たり前だ。人を殺したんだから」
「それがどうしたっていうんだ」つま先で男の低い鼻を小突きながら灰色の男は続ける。
「人間っていうのは摩耗してくると、人を嬲ることでしか生きていると感じなくなる。そういうやつには何をくれてやっても無駄なんだ。そいつはもう、呼吸をしていても心臓が動いていても、生きているとはいえない」
「ツキナミなセリフだな、そんなのは聞き飽きた」
「どんなに聞き飽きようが、真実は変わらねぇ。おまえこそ、その事実を受け入れろ」
その言葉は俺の薄い膜でしか覆われていない心の中に、清水のように染み込んだ。
「考えてもみろよ、毎日毎日、どうしてこうなっちまったんだと後悔しながら生き続け、自分は被害者だと僻み続ける。そんなやつは死んじまったほうがラクなんだ。見ろよ」
灰色の男が生首を軽く蹴り、首が表情を俺に向けたまま止まった。それはきょとんとしたような、生きていた時のあの濁り切った恨みの目からは想像できないほど、水晶のように透明な目をしていた。
「びっくりした顔してるだろ。おまえが本当に抜くなんて思わなかったんだ。でも、おまえが気に病むことはねぇ。だってそうだろ、この世界はいつだって俺たちをガッカリさせ続けてる。毎日毎日、何かがよくなることなんかねぇ。溺れながらなんとか水面に顔を出そうとバシャバシャやってるような命だ。
それがだぜ、最後にびっくりして死ねたんだ。
びっくりするようなこと、こいつの人生にあったと思うか? ――何もありゃしねぇよ。おまえはそれを最後にこいつにくれてやったんだ。こいつの命なんかより、よっぽど価値のある感情の変化をな」
「凄まじい詭弁だな。人殺しをしたんだぞ」
「それなら、なぜ迷わなかったんだ」
俺は二の句を継げなかった。
男は続ける。
「おまえは極悪人かもしれないが、間違ってはいない。どれほど邪悪でも、おまえは真実の上を走ってる。その道の途中に軽々しく立ち塞がったやつが死ぬのは当たり前のことだ」
「だが、俺の邪悪さが許されることなんかない」
「なら俺が許すよ」
俺は男を見た。男は俺を見て笑っていた。
いつか、どこかで、そんなふうに誰かと笑っていた気がした。
「おまえが何をしようと、俺が許す。俺が死んでも、別の誰かがおまえを許す。おまえが死んでも、言っただろ、おまえは真実の上にいるんだから、別の誰かがその道を走る。そして誰かが、そいつを許す。
そうやって、この薄汚い世界が、多少はマシになる。このおっさんの命がちっぽけで無価値なように、俺たちがおまえに押し着せて、一方的に願っている祈りなんか、ガラスの粉みたいに吹けば飛ぶような軽いもんだ。だがな、おまえが俺たちに見せてくれる夢はな、どんなにささやかでも、俺たちにとっては大切なものなんだよ」
「重たいな」
ため息をつく。呼気が熱く、乾いていた。熱病でも患っているように。
「俺には、重たいよ」
「腕のいい剣士に、タチの悪い天命がつきまとうのは当然だ」
男は笑った。
「諦めろよ、相棒」