Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
悪魔の後悔、腐れ縁

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 悪魔が取り憑く相手に依存する。そんな話を聞いていなかったわけではない。
 だが、自分がそうなるなどと誰が思う?
 気づいた時には魅入られていた。
 出会わなければ、こんな目に遭わずに済んだ――
 もう、どれほど悔やんだか、悪魔は覚えていなかった。
 
 
 
 
 酒を飲めば刀が打てる、そんな話をされるたびに悪魔は暴力に訴えた。
 鎚を振るうのはいいが、鍛冶場から動かないため足腰が萎えている刀鍛冶は多い。
 拳骨一発を喰らうと山浦環(やまうら たまき)は土壁まで吹っ飛んでいった。俺が悪かった、もう飲まない。そうみっともなく繰り言を述べる男を、悪魔は執拗に蹴り込んだ。
 それでも決して腕に傷は加えなかった。
 血まみれになって土の上に伸びる男の蓬髪を掴み、顔をねじり上げる。
 苦痛に呻くその顔つきのどこかに、いつか見た、刀工・源清麿の面影があった。
 
「てめぇよく考えてからくっちゃべれよ。いつになったら酒をやめるんだ」
「すまない……」
「そんなセリフは聞いてねぇ。聞きたくもねぇ。受付もしねぇ。いいか、よく聞けよ。おまえは刀だけを打つ、それだけの人生を送ると俺と契約した。忘れたか?」
「忘れてない……」
「高利貸しに殺されそうだった貴様を、いったいどこの誰が江戸まで逃してやったと思ってる。俺が助けなきゃ、あの場でてめぇはナマス斬りにされて死んでいたんだ。そうだろ?」

 そう、あの時――
 
 悪魔はそれまで取り憑いていた剣術家の葬式に行った帰りだった。
 ずいぶん長い契約で、ほぼ一生の間を憑いていた相手だったから、物思いに耽りたくもなった。気鬱になりそうな薄ら寒い小雨の中で、男同士の怒鳴り声が聞こえたのだ。
 悪魔の常で、ついつい宿主の技を覚えてしまう。寺の掃除に通っている子供が、読経を諳んじてしまえるように。
 あの頃の環はまだ気概があって、高利貸しの何人かを殴り倒すまではいったが、一人が抜いた刀で右腕を根本から切断され呻いていた。
 トドメを刺そうとした高利貸しの首を、悪魔は居合でハネた。
 あの時、気だるいとか、眠いとか、適当な理由で、歩き去っていたら。
 あれから二十年間、自分が背負う羽目になった苦労など、どこにもなかったはずだった。

「おい」

 二十年後のある日のように、蓬髪を掴み、悪魔は山浦環の苦痛に染まった顔に言った。
 
「まだ刀が打ちてえか」
「……」
「山浦家の不良息子のどっちかだろ。聞いてるぞ。せっかく名主に生まれたのに、二人揃って刀ばかり打って遊んでると――自慢の右腕がなけりゃ、もう刀は打てねえな?」
「……」

 環の目に涙が浮かんだ。悔し涙だった。
 悔し涙ほど、悪魔が興奮するものはない。
 それは紛れもなく真の証明であり、悪魔が嫌う偽を否定するものだから。
 偽に染まった魂ほど、不味いものはない。
 一度、美しい魂を味わってしまった悪魔は、もう凡庸な下玉では満足できなくなる。
 通りがかりのいざこざに顔を突っ込み剣を振るうような宿主の元に長くいた悪魔も、すっかり味を占めてしまった口だった。
 美しさという味を。
 
「助けてやるよ。ただし高利だぜ」

 環の視線が、悪魔を貫いた。
 熱を帯びる。
 
「おまえはいつか、俺を満足させるんだ。
 どんな手段を使っても構わない、何年かかろうが構わない。
 いい刀を打て。誰にも負けない最高の刀を。
 俺の友達は、折れる刀を売られたせいで死んだ。
 そんなつまらねぇオチは、二度と見たくねぇ。
 やれんのか?」
 
 その時、確かに環は笑った。
 悪魔にはそう見えた。
 
『誰に向かって言っている』

 そう死の際で言えるほどの強い魂は、
 どう頑張ったって、『レア』なのだ。
 
 こうして悪魔は、
 海の向こうの人種の血を引く青い目をした男の剣士から離れ、
 酒を飲み人を殴り女を足蹴にする若い刀鍛冶に取り憑いた。
 
 ◯
 
 酒が何かを解決するなら、酒さえ飲めば誰だって源清麿になれる。
 
 江戸に来てから十数年、清麿の刀のせいで廃業した刀鍛冶は多い。どうしたって、高品質の刀が市場に出回ればそれ以下のものは買い叩かれる。それを恨んで清麿の家を襲った連中をもう何人も悪魔は屠ってきた。護衛代を取りたいくらいだ。
 
 少しの酒ならいい、そう悪魔も思っていた時期がある。ずっと張り詰めていては窒息してしまう。たまには息抜きも必要だ。
 甘かった。
 ちょっとの酒で、清麿は泥酔する。しかもその酒がなかなか抜けない。冷水をぶっかけようと夜道に転がそうと酔い続ける。ほんの一杯飲んだだけで、三日は赤ら顔を晒す。気づいた時にはもう遅かった。
 いいとか悪いとか、そういう話ではない。
 飲んだら刀を打てないのだ。
 もちろん、ある程度の品質は担保される。むしろ本人や借りてきた人夫たちは「酔っていても清麿は刀を打つ」と思い込んでいる。
 全員まとめて死ねばいい、と悪魔は思う。
 飲んだ清麿は、刀を打つことからほんのわずかだけ興味を失う。酒の方に気が散る。
 その散ったわずかな気が、刀の『芯』にゆらぎを作る。
 表面上は沸華々しい美刀になる。しかし、悪魔にはわかる。その美に混じった『偽』に気がつく。
 悪魔が求めているのは、『最高の刀』であり、『最高と名乗っても許される刀』ではない。
 どれほど環が泣き叫ぼうが、それは変わらない。
 どれほど高値で取引されようが、素人目は騙せようが、関係ない。
 そんなもので悪魔は満足したりはしない。
 絶対に。

「勘弁してくれ。なあ、頼むよ。ちょっとだけだから……」

 懲りずにのたまう環を見下ろすたびに嫌悪感に駆られる。
 俺はこんなやつのために二十年も棒に振ったのか。
 あの時、見捨てていれば。
 この男の才能を信じたりしなければ。
 俺もこんな目に遭わずに済んだものを――
 
「いいか……」

 思わず声が震える。熱くなる。
 悪魔は山浦環を見た。
 
「俺は、一度だって……ただの一度だって貴様の才能を疑ったことなどない。
 貴様は最高の刀鍛冶だ。誰も貴様のようにはやれんのだ。
 俺が、ほかの宿主を探さなかったと思うか。この江戸で、ほかの刀鍛冶に、俺の望みを叶えてもらおうと彷徨わなかったと思うか」
「……」
「いろんなやつがいた。正しいやつ、まじめなやつ、上手いやつ、小狡いやつ。みんな一生懸命に俺のために刀を打ってくれた。
 だが、どれ一つとして、俺には満足できんのだ。
 貴様の刀を知っているから。
 貴様なら、もっと美しい刀を作れると信じているから。
 俺は他のやつの刀では満足できんのだ。
 よく聞けよ、源清麿。
 お前は俺を巻き込んだ。お前の自分勝手な人生に、この俺を取り込んだのだ。
 もう後には引けない。俺も貴様も逃げられんのだ。
 最後までな」

 悪魔は環を放り投げた。叱られた子供のように、環はその場に蹲った。
 鍛冶場の炉の火は、もう高温になりつつあった。ほむらの照り返しが、悪魔の坊主頭を煮えた卵のように輝かせた。相槌を取り、悪魔は位置についた。
 刀は二人でしか打てない。
 何も言わず悪魔が黙っていると、それでも炉の温度の気配を察したのか、たまたま観念しただけなのか、環が立ち上がり、ふらふらとよろめきながら、愛用の金槌を手に取った。それを手の中でくるりと回した。それは悪魔が、唯一好きな源清麿の仕草だった。
 これから刀を打つという、合図だった。
 
 鉄を打つ。刀になるまで。
 それが源清麿の全てだった。
 清麿の金槌が鉄塊を打つ音を聞きながら、悪魔は思う。
 
 きっとまた自分は、満足できずに宿主の元を離れるのだろう。
 あの剣士が夢半ばで斃れたように。この刀鍛冶も、すでに酒毒で手に痺れが残り続けている。
 最高の刀など、もう打てないのかもしれない。酒を取り上げるのが遅すぎて、すでにもう、悪魔の求めたものは遠く過ぎ去ったのかもしれない。
 それでも。
 俺はまたきっと、誰かを信じて憑くだろう。
 そう思う。





 その夜、打たれた刀を源清麿は友人の一人に贈った。
 動乱の時代、『人を斬り殺してでも欲しい新時代がある』というその友人に、清麿は
 
「死ぬな」

 とだけ言った。
 誰かの癖が移るのは、別に悪魔に限ったことではないようだ。


       

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