Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
憎悪の海

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 他者の精神に潜る時に、相手と身体接触している必要があるやつもいる。
 だが俺にその必要はないし、射程距離もほぼ国内全域をカバーしている。
 だからその気になれば誰の精神にも潜れるが、実際のところ潜って見学することしかできない。
 精神潜入をマインクラフトのアドベンチャーモードにたとえているやつがいたが、言い得て妙だと思う。
 俺はブロックの置かれたマップを探索することはできるが、ブロックを破壊したり置き直すことはできない。
 
 かつては俺のような精神潜入者がかなりいた。
 だが、そういうやつは自分を現金化する能力が低く、社会に狩られるか、狩る側に回った後に用済みになって消されるかだった。俺の仲間もずいぶん死んだ。
 俺が生き残ったのは、資産家の精神を就寝中にメンテナンスする仕事にありつけたからだ。
 カウンセラーと話すために休日の予定を空けるのは気が進まないが、寝ている間に話し相手になってくれるならタイムパフォーマンスがいいというわけだ。
 だがほとんどの場合、金持ちの心の中を覗いても何もない。彼らは心の底では理解しているからだ。自分はたまたま運がよく生き延びただけで、なんの値打ちもない存在だと。
 俺も自分自身についてそう思う。
 俺よりも生き残るべきサイコダイバーは大勢いた。みな死んだ。
 
 時々、友人の精神へ潜入する。
 わざわざ連絡を取って、休日を合わせ、翌日の出勤のことを考えながらチビチビ酒を飲むのも悪くないが、いよいよ崩壊への坂を転がり始めたこの国では気軽に酒を飲み交わす時間はなかなかない。
 だが俺ならば、会いたいやつが眠っているなら、いつでも会いにいける。虚空の神経回路を突き破り、自我を相手の夢の中へと押し込んで。
 よく考えたら迷惑な話だが、いつ俺が邪魔しても文句を言わないやつがいる。
 そいつの心のなかには、いつも海がある。
 
 ◯
 
 浜辺だった。
 冷たいな、と思って足元を見ると、砂浜に突き刺さっているのは裸足だった。
 紫色の海だった。
 砂金のようなきめ細かい砂浜の縁で、男がバケツで海を汲んでいた。
 漂流者のようなボロ切れを着ている。腕や顔は垢で汚れていた。
 さざなみの音は遠く、繊細だった。沖から潮風が吹くたびに、砂浜に打ち上げられたジャンク船が震えながら錆びていく。

「よう」
「ああ、お前か。また来たのか」

 友人は俺をチラっと見ただけで、どうでもよさそうに海の水をバケツで汲んでは砂浜に投げ捨てていく。砂は無限に海水を吸った。
 
「お前の心象風景も変わらんな。俺はもう20年は同じ風景を見ている」
「そうか。俺は30年だ。いい加減に俺も飽きてる」
「ならもうやめたらどうだ」
「やめてどうする? この浜辺にはバケツと俺しかない。なら、やるべきことは一つだろ」

 友人はそう言って、またバケツで海を汲む。
 体つきは奴隷のように痩せているのに、その両腕だけが漁師のように筋骨隆々だった。
 そのアンバランスさが、この男の精神の失調を意味している。
 
「お前は元気なのか、サイコダイバー」
「まァまァだな。人の夢に入り込んでお喋りするのは疲れるよ。人間という存在が嫌になる」
「なら、やめたらどうだ?」

 友人はニヤニヤしながら言う。俺は肩をすくめた。

「これが仕事なんでね」
「潰れちまったらおしまいだろ」
「お前の母親の口癖か? 懐かしいな」
「ああ。潰れたらおしまい。だが、お袋は一つ重要なことを忘れてた」
「なんだ」
「何もしなくても、どんなに泣き喚いて許しを乞うても、人間は俺を潰しに来る」
「そう。お前はすり潰されたな」

 俺は大海原を見渡した。地平線の向こうまで、海は続いている。
 
「その結果が、この海か」

 憎悪の海。
 俺はそう呼んでいる。
 この男の精神の中には、もう憎悪しかない。
 どれほど掻いても割いても消滅しない無限の暗黒。
 友人はいまも、自分の中からそれを消し去ろうとしている。
 バケツ一つで。
 
「次に来る時は、バケツを土産に持って来い」
「純金製にしとくよ。誰かの心から盗んでくる」
「この海の汚染に耐えられればいいけどな。純金ごときで」

 軽口を言いながら、男はせっせと海を掻く。
 俺はいつも飽きるまで、男が海を割るのを眺めてから帰る。

 ずいぶん悩んだものだ。この孤独な友人の精神をどうすれば癒せるのか。
 俺が見てきた中でも、この男の悪夢は深い。
 普通の人間の心象風景は、サイコダイバーと会話していく間に変質していく。
 家の中で会話していたかと思えば公園になり、そうかと思えば、学校や職場、居心地のいい喫茶店や思い出したくもない地下室なんかに変貌していく。本人の姿かたちも様々だし、ナルシスティックな願望が叶っているやつもいれば、中には人間の姿をしていないやつもいる。
 この男だけが、変わらない。
 何が起ころうが、どう話そうが。
 この海だけは消えないのだ。
 
 この男が救われることはない。やつが憎悪していた父親も母親もすでに死んでいる。
 社会は常にやつを否定し、ひっそりと書いていた創作物は秘密警察に踏み込まれて全て焼き払われた。
 資本主義と成果主義に敵対する反逆者として、現実のやつの背中には罰印が刻まれている。
 次に国家に歯向かえば、いよいよ首斬役人に頭を落とされる。
 だが俺は知っている。やつが手記を書き続けていることを。
 俺にはそれを止められない。
 だからやつは、もうじき死ぬ。
 救われることなく。
 
「静かだな」
「そうだな」
「いいところだ」
「人間がいないからな」
「なあ、今も書いてるのか」
「書いてる」
「次に見つかれば、死ぬぞ」
「だろうな」
「未練はないのか?」
「夢も希望も信頼も、全て錆びて朽ちたよ」

 それはこの浜辺に打ち上げられた残骸を見れば分かる。
 誰かが言っていた。最初から廃墟になるために造られた建築物は存在しないと。
 誰かの役に立つために建てられたものが、廃墟だノスタルジーだともてはやされるのが悲しいと。
 この浜辺に打ち上げられた全てのものも。
 いつか、この男の希望だったものなのだ。
 
「なあ、このままにしておかないか」

 いつもの禅問答とは違った答えが返ってきて、友人は俺を振り返った。
 
「なんだって?」
「もはや憎しみしかお前にないのなら、この海はお前そのものだろ。
 なら、消すな」
「で、俺にどうしろと? バケツを捨てて、ここで海でも眺めてろっていうのか」
「ああ」
「へっ、バカが。知ったような口をきくな」
「だっていい景色だぜ」

 友人はバケツを振るうのを止めた。
 
「いい景色?」
「ああ。穏やかな海だ。俺はなぜだか、ここに来ると落ち着くんだよ。
 なあ。
 このディストピアで、ただ砂浜に座って海を眺める自由さえないやつがどれだけいると思う?
 こんな小さな静寂すら手に入れられず、のたうち回ってみんな共食いしてるんだ。
 知ってるか。
 誰の心象風景に潜っても、ここまで静寂に包まれた場所はない。
 誰もこんな静けさを持てていないんだよ。お前以外は」
「その正体が、尽きない憎しみだとしてもか」
「もしもそうだとするのなら、憎悪というのは美しいものだ」
「危険思想だな。俺の次はお前が狩られるぞ」
「かもな」

 男がバケツを捨てた。持ち主を失ったバケツは砂浜に深々と突き刺さる。
 20年越しの事態に俺は動揺したが、それを表現する術を持たなかった。
 友人は当たり前のように俺の隣に腰を下ろし、目をきつく細めて海を睨んだ。
 
「ああ、確かに」友人は言った。
「綺麗だな」

 そうだろう、と俺は答えた。
 
 だから俺は、ここが好きなんだ。

       

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