Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
霧の向こうの軍師

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<作中漢字 読み方>

・四星(シト)
・愚流(グール)
・岳闘(ビクトール)


 ○


 駒を丁寧に進ませ、黄蓮峰を抜けると、一層と霧の深い渓谷に出る。
 冥府の入り口と言われるだけあって、そこは濃霧に覆われ、光なくして育つ針葉ばかりが生い茂り、物陰からは肉食の獣が放つ鈍い眼光が瞬くこともある。
 しかし、馬に乗ったその若い使者にはどうしてもこの要害へと踏み込まなければならない理由があった。


 赤ノ国の四星と言えば、ここ七年ほど続く瀝青戦争で数々の武功を挙げた名将軍だ。
 それほどの男が、ただ一人の使いとして、今は駄馬の手綱を握っている。名馬になど乗って参じれば、これから会う男はひどく嫌がるだろうから。
 やもすれば誰かに足を取られたかのように転倒しそうな崖を、亀や牛と戯れるように静かに下りて、四星はようやくその廃れた庵に辿り着いた。
 戸の代わりにぶら下げられた布きれは、手で避ける必要もないほどに傷んでいる。
 四星はそれを哀れみのこもった視線で一瞥してから、庵の中へ入った。
 土間の向こう、囲炉裏のそばに一人の男が座っていた。
 四星とそれほど歳は変わらない。三十五か、六か……無精ひげの生えた顔は乾いてひび割れ、軽く血が滲んでいる場所もあった。
 精のつくものなど食べていないのだろう、皮膚は灰色に近く、贅肉など少しもついていなかった。
 一番星のように輝く目玉だけが、かつての面影を思わせるものだった。
「入れよ」
 男が顎で四星を誘った。
 しかし四星は野性の小動物が落としていった糞まじりの土間に膝をつき、額を押し当てて口上を述べた。
「我、赤ノ国の神封、機柱王より貴殿を宛てて放たれた使い、父は波璃の末、母は金剛の生まれ、身は火遁軍団の一将、攻城の四星でございます。此度は貴殿の御迷惑を承知で、王より伝言をお届けいたしたく、国中より参りました」
「顔を洗ってこっちへこい」
 四星は動かない。何度か躊躇するのが礼儀だ。
 囲炉裏の男は明らかに苛立っていた。
「そういうのはいい。いいからこっちへこい。手水は表だ。泥まみれの男を家にあげたくない」
 四星は形勢不利を察し、素直に従い、囲炉裏へと上がった。炎がぽっと二人の顔と手を照らした。
「ずっと再びお目にかかりたいと思っていました、五色軍師殿」
「その呼び方はよせ。本名でいい。俺はもう官じゃない」
「そう思っているのはあなただけでございます……愚流殿」
 四星は両拳を板の間につけた。
「ご用件は、お分かりですね」
「白巌砦が落ちたかね」
 間髪入れずそう言って、愚流は火にくべた鍋から汁を椀によそい、酒のように一口煽った。
 四星は息を呑んだ。愚流のその一言で、自分はもう何も明かす必要がなくなってしまった。
 白巌砦が落ちれば、頼むことは一つだけだ。
「愚流殿、確実に勝つと歌われた希代の軍師よ、どうか、わが軍にお戻りください」
「断る」
「愚流殿……」
「この戦争は俺には勝てない。最初にそう言ったはずだ。それでもあんた方は青ノ国と兵馬をぶつけることを選んだ。俺に出来ることも、俺から言えることも、あんたたちにはもう一つも残っていない」
「そんなことはありません! 確かに大要塞を一つ潰されはしましたが、まだ形成はこちらが有利です。愚流殿さえお戻りくだされば、恩知らずの青二才どもなど一網打尽にできます!」
「彼らは青二才ではないよ。猛将・岳闘が押さえていた要塞を突き崩したんだ。あれほどの男を失ってもまだ分からないかね」
「将は死んではおりませぬ」
「戦闘不能にはされたろう。彼が無事に脱出できていたなら、あんたがここへ来るのは黒梨砦が落とされた後だったはずだ。違うかね」
 違わなかった。
 四星は唇を噛んだ。
 謁見の間で、彼は王に絶対命令として、五色軍師の召還を命じられていた。はいそうですかと帰るわけにはいかない。
 四星は、再び頭を下げた。
「お願いします、愚流殿。わが国の民は長引く戦争に疲弊し、困窮しております。私たちのためでなくてもいい、せめて民のために、もう一度あの珠玉の采配を振るっては頂けませんか……?」
「民か、民なら敵国にもいるな」
「そんなこと……! 愚流殿ともあろうお方がおっしゃることとも思えませぬぞ。戦争に犠牲はつきものです」
「そうだな、その通りだ。お前の言う珠玉の采配とやらを振るったところで、俺が動かせば一名以上の兵士はいつだって必ず死んだよ。おかしな話だぜ、盤上遊戯じゃ滞陣してるだけで兵士が下痢で死んだりしなかったのにさ」
「ですが、あなたのおかげで多くの兵や民が救われたのも事実です。あなたがいなければ、わが国土は何年も前に蛮族の穢れた足で踏み荒らされていたはず」
「蛮族ね」
 愚流は笑った。
「俺は色々な国を見てきたが、どこへいっても同じだな。敵国は野蛮。殺してもいい。仕方ない。神様の思し召し。そんなことばっかりだ。実際に敵を殺して、駐屯地で現地住民に血も凍るような目で見られるのは、最前線にいる俺たちなのによ」
「……愚流殿は、考えすぎなのです。われわれが勝たなければ、立場は逆になっていた。そうなった方が良かったと言うのですか? 殺したくないから負けた方がよかったと? そんなこと……」
 四星は、説得は大詰めに入ったと思っていた。
 まさか、この意見に反論されるとは考えてもいなかった。
「そうだよ」
 あっけらかんと差し込まれた横槍に、四星の口上が止まった。
 愚流は、ゆらゆらと椀をゆすって、その中身を欲しくもなさそうに見下ろしていた。
「俺はもうこれ以上、どんな理由があろうとも、誰かの生き死にを弄ぶ気にはなれない。人はどうせ自然に死ぬんだから、わざわざそれに介入する必要はない。そう思ったから、俺はここにいて」
 愚流は椀をすすった。
「自分で拵えた、不味い汁を啜ってる。お前さ」
 四星が何か言いかける前に、愚流は先手を取った。
「もしかしてまだ、どうにか頑張れば戦争を自由に出来ると思ってるんじゃないのか」
「……戦争を自由に……? それは、軍師殿の役目ではないのですか? それが出来ないのであれば、戦場を操作し、自軍を確実に勝ちに導く軍師という存在の意味がなくなるではありませんか」
「それが甚だしい誤解だよ。戦争になにかしらの約束事なんてないんだ。……確実に勝つ? 妙な言葉だと思わないか、確実に勝つ読みがあるということは、相手からすれば確実に負ける読みがあるということだ。自分を殺そうとしてくる相手が『確実に負ける道筋』を潰しておかないはずがないだろう? 確実に勝つ読みというのは、相手にも読まれる素裸の読みなんだよ。確実に勝とうとお互いがすればするほど、そんなものはなくなっていくんだ」
 四星は混乱してきた。
「……では、愚流殿はどうやって、いままで勝ってこられたのですか?」
「天運。他にない」
 愚流は、板の間の傷痕を見ている。まるでその奥に自分の過去が挟まっているかのように。
「どういうわけか、戦場に出たことが一度でもあれば、勝負は時の運だということが一発で分かるはずなんだが、将や王は自分の前にいつも肉の壁があると思っているから、その実感がなかなか湧かないらしい」
「……愚流殿の采配は、出任せだったということですか?」
「そうかな」
 不思議な韻の聞き返しだった。弱気な肯定というより、問いを返された気がしたので、四星は一つ立ち止まって、よく思い出してみた。
 この男、五色軍師と言われた内陸最強の軍師が起こしてきた奇跡の数々を。
 どう頑張っても、ただの出任せには思えなかった。
 そこには何か、彼にしか見えない律法があるように思えた。
 それがあると信じたからこそ、自分はこんな山奥までやってきたのだ。
 愚流は、人の頭の中で流れる時間も覗くことが出来るらしい。
「俺なりに考えてきたつもりだよ。戦争は『ぶつ、割れる』だからな。なんだってそうさ。『ぶつ、割れる』からいろいろ考えて、確かなことを少しずつ埋めていって、そうして見えてきた道筋の中に、相手が思いつけなかった奇策があったりもするさ。いつもじゃないがね」
「ならやはり、良い軍師、良い兵馬がいれば、確実に勝つ戦争はあるはずです」
「これから俺が言うことをお前は必ず否定する。でも言うよ」
 愚流は肩をすくめた。
「雨が降ったらどうする?」
「え?」
「雪が降ったら? 暴風が吹いたら? 異常な熱気がなぜか自軍の上にだけ降り注ぎ暑気あたりで陣が崩れたら? たまたま伏せていた場所に猛毒の蛇がいて、絶対必要な人員が少しでも欠けたら? 遠征した駐屯地で王都陥落の報が届いたら? 大地が割れたら? 国土そのものが消滅したら? 神か祟りか知らないが、子供がまったく生まれなくなって全民の血が絶えたら? ……前線にいる時にそういうことが起こったらどうすればいい? 俺が何か考えるのか? うまいことやるってのか?」
「愚流殿、それは」
「考えすぎだとお前は言う。でも、これが戦争だ。戦争は『これ』から決して逃げ切ることが出来ないんだ。確実に勝つ? その言葉のおかしさが分からない奴と俺は一緒に酒でも食おうって気にはならんね」
「そんなことは、万に一つにしか起こらないことです!」
「起こるのさ。俺はずっと戦争をしてきた。強い奴は沢山いたが、みんな死んでいった。俺が殺した奴もいたが、それ以上に天運に見放されてあっけなく死んだ奴の方が多かったよ。俺がいまここにいるのは、ただの偶然だ。一つだけ聞かせてくれ」
 愚流は、炎に顔を炙らせたいかのように、煮えた鍋の上に身を乗り出した。
「そんなに戦争が楽しいか?」
「え……」
「自国が強くなってそんなに嬉しいか。最強の兵、最強の駒、最強の武具、最強の土地、最強の頭脳。それを揃えて周囲の、思い出すことも出来ない遥か昔に袂を分かった民族の末裔を脅かしてひれ伏させれば満足か」
「何を……戦争は、敵国の領土侵犯が原因です」
「自分から踏み込んだっていう最初の一手を伏せておけば、いつだって相手が先攻で、こっちが善意の後攻ってわけだな。おかしいだろ、喰うのに困ってないはずの敵国との国境付近から第一の領土侵犯の報が飛んできてるんだぜ。どう考えたって喰うのに困ったのはこっちで、最初に土足で他人の家に踏み込んだのもこっちじゃねえか。なぜだか分かるか?」
 愚流は目を逸らさない。
「赤ノ国は、その領土に収まりきるだけの人口を突破している。そして人口が限界を突破して、なおかつ新生児の出生を抑えようとすれば国は確実に滅びる。三十年が限界だな。もうあと二十年だ」
「愚流殿……それは」
「戦争はいい。口減らしにもなるし、勝てば領土が増える。だが俺は、もう戦争は御免だ。御免被る。こんなこと……」
「あなたがそんな臆病者だったとは知らなかった」
「そうだ。俺は臆病になったんだ。だが、なってよかったと思うよ。お前らみたいに戦争に酔うだけ酔ってわけのわからん攻撃を続けるよりはいい。『攻撃は最大の防御』? お前らガキの頃に聞きかじった偽兵法をいつまで信じ続けるつもりだ。そんなもの、実戦じゃ何の役にも立たない。防御してるつもりで攻撃してる奴なんか押せば潰れるに決まってるじゃねえか。防御してないんだから」
 愚流も四星も、戦闘中のように汗をかいていた。
「民のためだと?」
 四星は何もいえない。
「もう一度、同じ口から言ってみろ。自分は民のために戦争を終わらせにここへ来たと。心の底からそう思うなら、口にしてみるがいい」
 愚流は黙って、鍋の汁を椀によそい、四星に渡した。笑顔だった。
 まくし立てられて混乱していた四星は、何も考えずにそれを受け取り、飲んだ。
「ここはいいところだぜ。空気が澄んでるし、静かだし、余生を過ごすには最適だ。特にな……石英草ってのがいいんだ。煎じてこれにも入ってるんだけどな」
「石英草……」
「そう。これは致死性の高い毒草でな、少量から飲めば耐性がついていくんだが、いきなりこれだけの量を飲めば確実に相手を殺せる。いい毒だよ、ここまで来るのに三年かかった」
 絶句した四星を見て、愚流は朗らかに笑った。
「嘘だよ」


 駄馬の尻を蹴って、四星は庵を後にした。
 最後にまた黄蓮峰へ入る前に一度だけ振り返ったが、あの男の住む庵は深い霧に閉ざされて、見通せなかった。
 四星は、項垂れながら駒を進めた。
 愚流を脅迫してもよかった。拷問にかけることも。
 しかし、下手に肉体に訴えかければ死んでしまう恐れもあったし、彼に手を出せば最後、さっきのやり口のようにあっけなく殺されてしまうのはこちらかもしれないと思うと恐怖もあった。
 戦場で死ぬのは少しも怖くなかったが、あの男と共にいることは最後まで怖いままだった。
 あの男は、あれほどの頭脳を持っていながら、自分の勝利はすべて天運だと言い切った。
 だとしたら、天とは、どれほど深く、高みにあるものなのだろうか。
 想像することさえできない……
 そして、想像することができないということ、それそのものが天へと通じるたった一つの道筋なのかもしれない。
 それはあまりにも遠く……進めば進むほど戻ってくることが困難になる。
 霧煙る山脈を一人、進みながら、四星は、ああいう男にではなく、平凡な兵として産まれた自分に少しだけ安堵した。


       

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