Neetel Inside 文芸新都
表紙

UNTIL THE DAY I DIE
死色

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 僕達にも、死は訪れる。
 事故死。深い傷を負えば当然死んでしまう。
 病死。ただし癌などの大病は先天的なもので、それを患っている患者はその病気で死に至る事があるが、後天的にそれらにかかる事はない。ただ、風邪程度なら僕達もかかる事はある。
 殺人。
 僕達の街で人が死ぬ理由の六割がそれを占める。
 その内の一割、正確に言うとそれより少し低い割合で自殺。
 そして残りが他殺。
 そして他殺のうちの七割程が、ある一人によって行われている。
 ……いや、正確に言うとそれが一人なのかを僕は知らない。多分、この街で暮らしている誰も。
 それどころか「そいつ」は果たして僕達と同じ人間――僕達を人間と呼ぶならば――なのかどうかすら分かっていない。
「そいつ」は一ヶ月に二度ほど現れる。
 誰にもその姿を見られる事なく、気取られる事など欠片もなく――
 ――人々が眠りに落ちた夜に紛れるようにして、誰かを殺す。
 僕達は「そいつ」に畏怖を込めてある名前をつけた。
「ジャッロ」
 ジャッロは命を連れ去る。
 翌朝降るはずだった雪と共に。


『はい、こちら生活環境課です』
「……あ、あの」
『はい、どうされましたか?』
 僕は震える手で、ともすれば取り落としそうになる携帯電話をそれでも強く握り締めた。
 それでも口元が落ち着かず、上手く喋る事が出来ない。
『もしもし、大丈夫ですか?』
「は……はい、大丈夫です。あの、し、死体」
『したい? 死体ですか?』
「そ、そうです。今、ここに死体があって、それで……」
 生活環境課の受付の女性は、動揺している僕になどおかまいなく平静としている。
『どなたか、亡くなられた方がおられるという事ですね。そちらの場所を教えていただけますか?』
「こ、殺されてるんです。多分……ジャッロに」


 朝になり目を覚ました僕は、緩慢な動作でベッドから起き上がった。
 習慣のように窓へと近づき、カーテンを開ける。
 普段ならそこから見える景色はいつも同じように雪が舞っているのだが、その日は違った。
 僕ははっとして空を見上げる。
 そこには晴れ間が広がっていた。絨毯のような雲が散り散りになり、その隙間から太陽の光が零れている。
 僕はその久しぶりの陽射しを思わず直視してしまう。感触のない痛みに思わず目を伏せた。
(……またジャッロが現れたのか)
 ジャッロ。
 そいつが何者なのかは誰も知らない。
 ただ分かっているのは、そいつは僕達の気付かない間に、この街のどこかで誰かを殺す。
 その殺し方は凄惨で、人の尊厳などまるで無視したかのような手口で行われる。
 ある時は四肢を切断される。全身を焼かれる。体中の骨を折られている。
 あるいはまるで生きている僕達にその死を見せ付けるかのように、街灯から逆さまにぶら下げられたり、公園の広場の中央に大の字に広げられて放り捨てられている。
 そして、ジャッロが誰かを殺した翌朝――なぜか僕達の街から雪がその姿を消す。
 まるで、ジャッロが自らの殺人を誇示しようとしているように。その殺人をこの街の全ての人に知らしめようとしているかのように。
 僕は陰鬱な気分で、クローゼットから制服とコートを手に取った。心なしか頭痛を覚える。
 普段は口にする朝食も食べる気にならず、簡単に身だしなみを整え制服に着替えた。
 ジャッロ。
 その存在は僕だけじゃなく、この街の全ての人を憂鬱に陥れる。
 彼(と呼んでいいのかは分からないけれど)はこの街のどこにでも現れる。そして「適当」な誰かに死を与える。彼がどういう基準でその相手を選ぶのかは分からない。もしかすると本当にその場の思いつきで行うのかもしれないし、彼にしか分からない理由があるのかもしれない。
 だけど僕達にとっては、彼は単なる僕達の街で殺戮を繰り返す殺人鬼でしかない。
 明日にはまた雪が降り始めるだろう。
 だが、僕達はその中で再び雪が止む日がやってくる事を知っている。そしてその日自分は生きていられるのかどうかと恐怖するのだ。
 玄関で靴を履きドアを開けた。止んだとはいえ、まだ足元には雪が残っていて、僕はいつものようにゆっくりとした足取りで、駐輪場へと向かおうとする。
 鉄製の階段を下りた。無意識の内に下がっていた視線をふと持ち上げる。
 そこで僕は息を飲んだ。
 雪の白さの中に、赤い色が溶け込んでいた。その赤は不純物と混ざり合ったのかどす黒く変色している。そしてその液体をそこに零した原因はまるでそこで眠っているかのように静かに横たわっていた。
「…………」
 僕はまるで重力が増したかのように体が重くなるのを感じる。それでもなんとか一歩を踏み出し、そこに近づこうとする。
 倒れていた男の姿には見覚えがあった。僕と同じこのアパートの住人だという事を着ている服や体型から推測する。
「……あの」
 もしかしたら、酔っ払って転んだのかもしれない。そこに運悪く固いものがあって頭をぶつけてしまってこんなにも流血した可能性もある。もし生きていたら救急車を呼ばなければ。
 そんな事は、甘い考えだという事は分かっていた。
 すぐ傍まで近づいたところで、僕は彼の顔を直視し、その場に尻餅をついた。
 そこに顔はなかった。あるのは、まるで目の粗いやすりで何度も擦られたかのように皮膚を剥ぎ取られ、肉と骨がむき出しになっていた。その頭の至る所から染みのように血のあとが残っている。
「…………」
 急激な吐き気に襲われ、口元を押さえる。出てきたのは胃液だけで、さっきからずっと震え続けていた僕の体は、それでもどこにも行く事が出来ず、救いを求めるようにポケットの中の携帯電話に手を伸ばしていた。
 数回のコールがまるで数時間にも感じられ、こちら生活環境課です、と平坦な口調で告げるその声でも、繋がった事に僕は少なからず安堵を覚える。
 死。
 死は、誰にでも訪れる。
 平等に。あるいは、不平等に。
 生きる者に恐怖を植えつけながら。

     

 生活環境課の人間が家のチャイムを鳴らすまで要した時間は二十分程だった。
「おはようございます。生活環境課の渡と言います」
 そう言いながら差し出された名刺を受け取る。気が動転したいたためはっきりと見た訳ではないが、名前の上には確かに生活環境課の文字が刻印されていた。
 僕はドアの前に立つ彼を部屋に招き入れるべきかどうか迷ったが「立ったままですみませんが少しお話を聞きたいのでよろしいですか?」と言われ、その必要はないようだった。
「大丈夫です」
「ありがとうございます。相原蛍さんですね。あんな事になって驚かれたでしょう」
「はい……いえ、大丈夫です」
「でも無理はしないで下さいね」
 中年に差し掛かろうとしている容姿の彼は僕を安心させるように柔和に微笑んだ。
 それに誘われるように僕は胸中でほっと一息吐く。やはりまだ動揺は広がっているようだった。
 ゆっくりと大きな動作で彼がスーツのポケットから手帳を取り出し、その度に襟元の左右が波打つように揺れた。その襟元についた菱形の徽章はまるで大海で漂う小さなボートのように泳いでいた。
 その徽章を付ける事を許された人間は多くない。正確な人数を僕は知らないけれど、少なくとも僕がそれをつける日はきっとやってこないだろう。
 生活環境課は僕達の街の様々な問題に対応するために設置された組織だ。その管轄内容は多岐に渡り、僕達が持っているICカードの紛失時の対応や再発行から、災害時の救難活動から社会復帰への援助、公共施設の改装建築の企画まで取り扱っている。
 そして、今のように殺人事件なども。
「学生ですよね。通学されるところだったのですか?」
「そうです」
 スラスラと彼は口にする。僕は名前も含めて彼になにも伝えていないのだが、当然のように聞いてくる。実際生活環境課は住人全員の個人情報を管理しているのだろう。
「そこであの死体を発見されたと。すいませんが昨日の夜になにか物音を聞いたりはしませんでしたか?」
「いえ、記憶にないです。寝ていましたから」
「そうですか」
「あの」
「はい」
「あれって」なんと言えばよかったのだろう。死体、と言う言葉を無意識に避けていた「ここのアパートの人ですよね」
「そのようですね。難波と言う方ですが相原さんは彼と親しかったのですか?」
 僕は首を横に振った。難波、と言う名前は僕も知っていたけど、年が少し離れていた事もあって疎遠な関係だった。
 それに彼はどちらかと言うと僕とは正反対の性格の持ち主らしく、日頃ふらふらとした暮らしを繰り返していたようで、ある日には酔い潰れて、玄関の前で寝転がっていたり、大声で叫んだりしていた事もあって僕は余り関わらないようにしていた。
 どうしてあの顔が削られた死体が彼だと分かったのかは、部屋に駆け込んでから多少落ち着いた時に、着ていた服がお気に入りだったらしくよく着ていた黒いジャケットだったからと言うだけの想像だったが、やはりあまり関わりがないと言ってもそんな身近な人間があのジャッロに殺されたのだと言う事実は僕を再び憂鬱にさせるには充分だった。
(……ジャッロは僕のすぐ傍にいた)
 神出鬼没のジャッロ。
 夜に紛れ誰にも気付かれる事なく命を奪う。
 言葉を失った僕の肩に手が置かれた。僕を落ち着かせようとしているその手は固くゴツゴツしていて、僕は俯いていた顔を持ち上げる。
「大丈夫ですよ。気をしっかり持ってください。明日にはまた雪が降りますよ」
「……そうですね」
 早く明日になればいい。
 ジャッロがやってきた事を知らせるあの太陽が早く誰の目からも消え去ればいい。
 また雪が止む日を恐れはするのだろうけれど。
 それでも、僕は早くいつもの雪に包まれる毎日と言う日常がやってくる事を望んだ。


 ジャッロが来たね。
 怖いよね。
 ねぇ、ジャッロって一体何者なんだろうね。
 殺人鬼でしょ。
 なんで殺すんだよ。なんもしてないのに。酷すぎだろ。
 あのさ、これ誰にも言わないでね?
 なになに?
 ……近くでジャッロに殺された人がいるんだけどさ。
 うん。
 ちょっと思っちゃったんだよね。死んでよかったって。私、あの人の事嫌いだったから。
 うわ、えぐい。
 それひどい。
 でも、分かる気する。俺も思う事あるよ。あぁ、この人をジャッロが殺してくれればいいのに、なんて。
 なにそれ。ジャッロになに期待してるの?
 そういうの理解出来ないなぁ。そう言えば今日相原君遅刻してきたよね。
 あぁ、そういえば。
 あれ、ジャッロのせいじゃない? 先生もあまり怒らなかったし。きっとジャッロに殺された人を見つけて生活環境課の人に話聞かれてたんだよ。
 えぇ? ……でもそう言われたらそうなのかも。
 可哀相だよね。死体を見ちゃうなんて。


 普段は感じないクラスメイトの視線に、僕は気がつかれないよう溜め息を零した。
 どうやら皆確信はないものの、僕が遅刻してきたのはジャッロのせいに違いないと思っているようだった。こんな事ならさぼってしまえばよかったのだけど、だからと言って自分の部屋で一人閉じこもっているよりは、こうやって視線に晒されても誰かといる方が随分とマシだった。
 休み時間にジャッロの事を聞かれたりする事がないようにと、願いながら僕はいつもより授業に集中しようとする。
 だけど上手くそうする事が出来ない。理性を保とうとしてもふと気を抜けば朝の光景が蘇り、自分でも気付かないうちに何度かチャイムの音が鳴り響き、僕ははっとして真っ白のノートをのろのろと閉じる。
 そんな上の空の僕にも、事情を知っている教師達はなにも言わなかった。
 なのである授業中に背中を叩かれた時も、ぼうっとしていた僕はそれに酷く驚いてしまい、肘の辺りが机に辺り、大きな音を立てたが、教師は少し注意をしただけだった。
 僕は「すいません」と謝り、再び黒板に向き直った教師の姿を見てから後ろを振り向いた。
 後ろの席に座っていたクラスメイトが悪いと思ったのか「ごめん」と言ってくる。僕は首を横に振りながら「なに?」と尋ねると、折りたたまれたノートの切れ端を手渡された。
 誰かから回ってきたようだ。丁寧に四角に折られたそれを広げると「昼休み屋上行かない?」と書かれており、字の様子から僕は若葉からのものだと言う事にすぐに気がついた。
 きっと周囲の視線にうんざりしている僕に気がつき、気を使ってくれたのだろう。
 その気遣いに先程とは違う種類の吐息を零した。
 それを再び折りたたんでから、彼女の方を見やる。彼女は僕のほうを見る事はせず、黒板だけを見つめていた。そして僕は返事を書く必要はないだろうと思い、それを机の中にしまう。
 最初からそれを断るつもりはなかったし、多分彼女も断られたとは思っていないだろう。
 なぜなら、僕達は、友達だから。

     

「コーヒーでよかった?」
「うん、ありがとう」
 紙パックのコーヒーを受け取りストローを差し込んだ。
 フェンスにもたれるように座り込んだ僕の隣に彼女がスカートを直しながら座った。
 彼女の長く黒い髪が揺れ、顔がこちらを向く。
「大丈夫?」
「正直参ってる」
「そうよね」
 うな垂れながら無意識の内に溜め息を零した。
 そんな僕にかける言葉が見当たらなかったのだろうか、釣られるように彼女からも吐息の音が聞こえる。
 しばしの沈黙。
 ふと空を見上げる。晴れ間の広がる空。
(……外の世界なら、こんな晴れた日を清々しいと思うのだろうか)
 僕達の世界ではそれは不幸を示すものでしかない。
 僕や彼女を含めてこの街の誰もがジャッロに恐怖している。
 気紛れに、好き勝手に、人々の命を奪うジャッロはある意味で僕達を支配しているような存在だった。ある人はこの街はジャッロの物で僕達はただ殺されるためだけに存在していると吹聴したりしている。
 馬鹿げた話。だけどそれを否定しても、その存在が消える事はない。
 明日死ぬのは自分かもしれない。
 誰もがその恐怖を背負わされて生きていくしか出来ないのだ。
「怖いね」
「そうだね。本当に」
「ねぇ」
「ん?」
「死んだら、どうなるのかな」
「……どうだろう。天国とか地獄とかあるのかな。僕はあまり信じていないけれど」
「じゃあ、蛍君は死んだらどう思ってるの?」
「……無かな」
 自分でもよく分からないままにそう答えていた。
「体とか心とか、全てこの世界から消えてしまう。その先の世界なんてなくて、ただ消え去るだけなんじゃないかな」
「じゃあ死んだ人はもうどこにもいないの?」
「誰かの記憶の中に残る、と言えばどこにもいないとは言えないかもしれない。でもそれは生きているという事ではやっぱりないから、そういう意味では若葉の言う通りかも」
 そう言うと彼女は少し残念そうな顔をした。
 どうやら彼女は違う考え方をしているようだった。僕はそれを聞きたくなる。
 きっと誰もが、他人とは自分と同じで、また違うものであればいいと思っている。
「若葉はどう思うの?」
「私は死んでしまってもなにかが残ると思うな」
「魂、とか」
「うん。想いとか。そういうものが誰の目にも見えないけど、きっと生きていた時に寄り添っていた人の傍にいてくれてると思う」
 映画でそういう話があった。それを見た時、僕は自分の考え方とは沿わない内容のそれに、けれど感動を覚えた事は確かだった。
 死んでしまう事。
 誰もが悲しい。この世を去った者も。この世に取り残された者も。
 それでも、繋がっている、と彼女は言った。
 僕達はいつ死ぬだろう。
 分からない。
 ある意味で永遠の命を僕達は持っていると言える。だけどそれに甘えすぎれば、きっと悪戯に訪れた死に耐える事は出来ないだろう。
 だけど、僕は彼女がいつか死んでしまう事を受け入れる心構えなどきっといつまでも出来ないのだろう。
 昼休みが終わりかける頃、彼女が立ち上がった。制服の皺を直しながら「行こう?」と僕を促す。
「うん」
 憂鬱だったけれど、仕方なく立ち上がった。
「教室に戻りたくない?」
「ちょっとね」
「大丈夫よ」
 彼女の手が伸びて、その先にあった僕の手に触れた。
 まず指先が触れ、そこで一度離れ、しばらく――逡巡するような――の間を置いて、再び伸びてきた指先は、今度は離れる事なく僕のものと重なり、柔らかな感触に包まれる。
「……若葉?」
「皆心配してるだけよ。私だってそう」
 僕の言葉を無視するように口を開き、僕の視線を無視するように少し俯いていた。
「そうだね」
 だから僕はそれだけを口にして、ドアまでの距離を彼女と並んで歩いた。
 はじめて繋いだ彼女の手は暖かくて、叶うなら僕はずっとこのままでいられればいいのにと思ってしまう。
 魂は存在するのか?
 きっと答えは見つからないけれど、僕はこの時、確かに口を閉じている彼女の想いを受け取った気がした。

     

「生活環境課もさっさとジャッロを捕まえろってんだよ」
「そんな簡単に捕まえられたら苦労しないでしょう」
 放課後葛城先輩に捕まった僕は、他に誰もいなくなった彼の教室でそう零した。
 生活環境課もジャッロを捕まえようと特別対策室という――その名前にどういう意味があるのかは分からない――部署を設置しているようだが、その成果は芳しくはないようだ。
 無理もない。今までその姿すら見た事がないものを捕まえようとするなんて、砂漠の中で塩を見つけようとするようなものだ。ましてどこに現れるかも分からないのだから見張りようもない。当然のように現場に個人を特定できるような証拠らしきものを残すこともないのだからお手上げとしか言いようがなかった。
「祈るくらいしかないですね」
「なにを?」
 先輩は僕の言葉に心底理解出来ないという顔をした。
「だから自分がジャッロに殺されないようにですよ」
「バカバカしい」
 大げさに首を何度か横に振り、やれやれとでも言いたげな素振りで彼は天井を見上げた。
 つられて見上げた白い天井がなぜかいつもより低く感じられて、僕はそれを振り払うように口調を強がらせる。
「それ以外になにをしろって言うんですか?」
「抵抗するに決まってるだろ」
「抵抗って、あのジャッロにですか? 抵抗してどうなるって言うんですか」
「お前さ、あのジャッロ、あのジャッロって言うけどジャッロがどんな奴なのか知ってんのかよ」
「……知りませんよ。知ってるわけないじゃないですか」
「じゃあ、抵抗してどうなるもんでもない、なんて言えないだろ」
「誰も生き延びてないんですよ」
「お前さ」
 先輩は天井を尚も見上げている。
「死にたくないだろ。生き続けたいだろ」
 ふと疑問に思う事がある。僕と彼は今同じものを見ている。だけどそれは同じものとして認識をしているだろうか。僕達が映しているこの視点はカレイドスコープのようにバラバラなのかもしれない。
「そりゃあそうですよ」
「だったら祈ってたってしょうがないだろ。誰もが殺されてるからって自分にそれがやってきた時に、あぁ、どれだけ祈っても無駄だったって思うだけであっさり殺されてたらそれこそバカだろ。殺されるかもしれないけど抵抗すんだよ。可能性が一パーセントでもありゃやるんだよ」
 だって僕の中でその可能性は零パーセントだった。
 零と一。
 数字にしてみればたったそれだけの数字だけど。
 そこには多分手を伸ばしても届かない距離があるんだろう。
 そしてそれは、僕と先輩の距離でもあるのかもしれない。
「まぁ、来ないならそれに越した事はないけどな」
 ようやく天井から視線を戻した先輩は、もうその話は終わりだと言うように足元に置かれていたギターケースに手を伸ばした。
「でさぁ、そのアパートの奴ってどんな奴だったんだ?」
「あんまり親しくなかったんですよ。ちょっと苦手なタイプで」
「あぁ、感じ悪い奴だったんだ」
「……まぁ、そうですね。失礼ですけど」
「殺されて当然って?」
「いや、そこまでは」
 慌てて否定すると、彼は面白がるように苦笑を一つ聞かせた。
 ギターケースから出てきた赤いアコースティックギターを太腿に乗せる。
「最近覚えた曲があるんだけど」
「なんて曲ですか?」
 そう尋ねて、彼が口にしたタイトルはあまり捻りの感じられないストレートなものだった。
 コード進行を思い出そうとしながら、その間適当にピックが上下に揺れ、張り替えたばかりらしい弦が震動する。
 ややあって「よし」とその手が止まり、左指がフレットに添えられる。
 F。Am7。Dm。B♭。C7。F。もう一度C7。
 ゆっくりとした曲調に乗って、先輩が囁くように歌って見せた。
 僕はそうやって先輩がギターを弾く時、いつもそれが終わるまでなにも言わない。
 ただ、聞いている事にしていた。
 そうしているのが一番正しくて、一番有意義な時間の使い方だから。
 I Love you。
 サビで何度かその言葉が繰り返された。
 その意味を僕は理解出来ているだろうか。理解しているとして他者に上手く伝えることが出来るだろうか。先輩はなにを思い、それを歌うのだろうか。
 F。Am7。B♭。C7。F。A7。B♭。
 C。Dm。A7。B♭。C。Dm。F。B♭。
 C7。Dm。F。B♭。C7。F。
「鳥になりたいって思うんだよ」
「鳥ですか?」
「そう。鳥になって自由に空を飛んで、あの壁を越えて向こう側に行きたいよ」
「……壁の向こうになにがあるんでしょう」
「さぁ、それを探しに行くんじゃん」
「この街だってまだ知らない事はありますよ」
「知りたいのは知らない事じゃなくて、知りたいのは、知りたいものでしかないんだよ。俺は壁の向こうを知りたいんだ」
「先輩らしいですね、そういうの」
 僕は窓の外を見つめる。
 遠くに見える僕達を包む円状の無機質な壁は、その性質のまま、僕達の感情やジャッロの存在を何事もないように包み込み鎮座し続けている。
 その向こう側には僕の知らない、この街の誰も知らない、そんな世界があるのだろうか。
「あ」
 白い花弁のように風にその姿を揺らされながら、雪がゆっくりと舞い降りてきた。
 初めは数えられるはずだったそれらがゆっくりと数を増していき、しばらくすると窓の外はいつもと同じように白い世界へと姿を変えていく。
 僕達の日常。
 薄暗い影と白い雪に包まれた街。


 運動場の真ん中で彼女――若葉が手を広げてまっすぐな姿勢で立ち尽くしていた。
 彼女はその両手を広げ、降り続ける雪を受け止めるようにその身を晒していた。
 僕達はそんな彼女に後ろからゆっくりと歩み寄っていく。
 近づいてくる足音に気がついたのか、首だけを動かし彼女が振り向き、僕達を認めると小さく微笑んだ。
「なにしてんだ」
「雪、降り出したね」
「そうだな」
 再び彼女は空へと視線を戻す。
「先輩は目に見えないものって信じる?」
「あ? さぁ、どうかな。微妙かも」
 先輩は大げさに肩をすくめ、自然な動作で彼女の隣に立った。
「私はあると思う」
「例えばこの雪が水蒸気と粒子の混ざり合った単なる固体ではないと言う事?」
「そう」
 彼女はそう言ってその手で降り注ぐ雪を受け止める。
 そこになにがあるのだろうか。
 この雪は一体なんなのだろうか。
 もしかすると、これは僕達の言葉に出来ない想い達の結晶なのだろうか。
 理由もなく死を迎える事となった者達の悲しみの残滓なのだろうか。
 僕の知らない誰か、誰かは知らない僕の、僕の知る誰か、誰かから誰かへの。
 宛先のない、手紙達なのだろうか。
「きっと、そう」
 彼女はその幾つもの、誰とも知れない思いを受け止めようとしているのだろうか。
 届けたかった誰かに届けられなかった手紙を、虚しく地面に落ちて溶けて消えてしまうだけのものになってしまう事がないように。
 彼女の声は小さくて、そして少し震えていた。
 僕はきっとその時彼女が泣いていたのだろうと思う。そう、きっとそうだと思う。
「そういうのさ、本当に目に見えないのかな」
「え?」
「もしかしたら見えたりするのかもな。形はないんだけど、そういうんじゃなくて俺達そういうのちゃんと見れてるのかもしれないな。そういうのはちゃんと俺達の前に存在して、見えないまま俺達の中に存在し続けていってるのかもな」
「……うん、そうかもしれないね」
 先輩は柄でもない事を言ったと言うように頭をかき、そしてその手をそのまま彼女の方へと伸ばし、頭を二、三度ポンポンと優しく叩いた。
「…………」
 僕はその様子を、二人から三歩分離れた場所で見つめている。
 胸が痛くて、そこに近づきたくて、でも出来なくて、いっその事ずっと遠くへと遠ざかっていきたくなる。
 背中越しの二人がどんな表情をしているのか、知りたくて、だけど知りたくない。
 認めざるを得ない。
 この世界に目に見えないものはあるのだろう。見たくないものと同じくらい。
 そして僕の中にあった無形の手紙はきっとこの雪の中で迷子になって、彼女の元へと届く事のないまま消えていってしまったのだろう。
 もしくは、誰の目に触れる事すらなく自分の元へと戻ってきてしまったようだった。
 今までよりも質量を増して。

       

表紙

秋冬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha