Neetel Inside ニートノベル
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プロローグ


 錆付いた非常階段がきぃきぃ悲鳴を上げていた。
オデロンが一段踏むごとに、それは逃げ場を失った鼠の悲鳴じみた音を出した。
“俺も悲鳴をあげたい”オデロンはそう思った。
“悲鳴をあげてここから飛び降り、さっさと家の黴臭いベッドにもぐり込むんだ。
そうだ、途中でスクブスも捕まえて。そうだ、そうしよう。それがいい……”
だが、オデロンの足は上ることを少しもやめようとはしなかった。
一歩一歩、のろのろと、だが確実に目的地に向かっている。
きぃきぃと悲鳴を聞きながら。それを楽しむかのように。
“ちくしょうめ! 嬲られるのは俺なんだぞ!”
オデロンの足は止まらなかった。
あと少しで最上階に着く。非常ドアを開ければ通路に出る。
その突き当りの部屋が社長室だ。
かれの目的地。苦痛の始まり。
オデロンはため息を吐いた。
それは、逃げ場を失った鼠のため息に似ていた。

オデロンはノックもせずに部屋に入っていった。その必要はいつもなかった。
室内は薄暗く、天井のシャンデリアの6本ある蝋燭のうち2本にだけ、淡い青色の
炎が今にも消え入りそうに点いているだけだった。実際、それは死にかけだった。
部屋の壁紙は濃い朱色で、薄闇の中、それはもう黒と言ってもよかった。

ボスは定位置に座って、かれが来るのを待っていた。
かれご自慢の6万6060年製スミロドン〈注――古代に生息していたサーベルタイガーの一種〉
の絨毯の後ろ、特注のプレジデントデスクの向こう側だ。
恐らくは、非常階段を上って来るのをずっと透視ていたのだろう。
その一つしかない目に見つめられると、オデロンは軽い吐き気を覚えた。
旧ソ連の建築家に造らせたこの部屋は、その全てに部屋の主であるゴホルジャイの意向が反映し、
かれの本質以上の恐怖を時として対峙した者に与えるように設計されている。
まるで、いくつもの視線に苛まれるようだ。
オデロンはいつか、この部屋のどこかにいるその建築家を見つけて痛めつけてやろうと心に決めていた。
ゴホルジャイは気に入った魂を必ず部屋のどこかに隠す癖があるのだ。
“あの時代遅れの絵画の中だろうか?”
「遅かったな、オデロン。私はついに、あの階段が腐って崩れ落ちたのかと思ったぞ」
オデロンはすぐさま雑念を振り払い、無難な回答の提出に急いだ。
「いえ、ボス。あれは非常用ですから、そうそう壊れることは――」
「私がなぜおまえを呼んだのか、わかるか? オデロン」
ゴホルジャイは、オデロンの言葉を遮るように続けた。
蛇皮製の椅子からはみ出したかれの尻尾が、カチカチと蠢いている。
“注意しろ! あのムカデの動きには、いい思い出が一つもないぞ”
「これを見ろ」
ゴホルジャイはスミロドンの絨毯の上に、一枚の羊皮紙を乱暴に放り投げた。
オデロンは拾うまでもなく――もちろん拾うのだが――それがなんであるか、見当がついた。
「結果が……、出たんですね、ボス」
「もちろんだ。結果というものは必ず出るものだよ、オデロン。だが、重要なのはそこじゃない。
その中身だ。結果などというのはクソと一緒だ。いずれひねり出される。重要なのは、それにハエが湧くかどうかだ」
オデロンはそれを拾い上げ、すぐさま目を走らせた。
羊皮紙には『MCC社 タレント出演番組、視聴率調査報告書』と書いてある。
ディブナド、グレゴス、ホーリフ、ブラッチ、ダニゲーなど、MCC社所属タレントの名前が全て載っていた。
もちろん、オデロンの名前も。その下には、冠番組名『オデロン・ザ・マッドショー』。
さらにその下、前回放送の番組視聴率が――、1.7パーセント。

なんてことだ!

オデロンは飛び上がった! 思わず鳥型の茶色の翼を瞬時に生やし、思い切り羽ばたかせて天井までいっきに昇って、へばりついた。
「やった、過去最高だ!」
オデロンはその場でスキップした。天井で! 靴の先が破れ、飛び出した鉤爪が、
ボスお気に入りの天井に穴を開けていることなど気にもならなかった。
かれは今、自分を賞賛したくて堪らなかった。その衝動に比べれば、天井の傷跡などたいした問題ではないではないか?
だが、そのささやかな褒賞の代価も、実にささやかに収まってしまった。
突如、オデロンは巨大なムカデに巻きつかれ、床に叩きつけられたのだ。
低い呻き声をあげて起き上がろうとしたオデロンの目の前に、毛むくじゃらの太い足が現れた。
その後ろに、収縮していくムカデの姿がある。
オデロンは恐る恐る、その足の先をゆっくりと見上げた。
一つ目に獅子の顔と体――昔は筋肉質だったらしいが、今では見る影も無く膨れている。中年太りだ――と
両腕と、一本足とムカデの尻尾。我らがMCC社のボス、〈魔嵐の獅子〉〈一足バジリスク〉ことゴホルジャイが仁王立ちしていた。
その顔はひきつり、口の端から残忍な牙が見え隠れしている。
“いい兆候じゃあないな”オデロンの顔もひきつった。
「この馬鹿者が!」
ゴホルジャイの怒声は凄まじい咆哮となって、オデロンを吹き飛ばした。
オデロンは突風に煽られたスズメよろしく、入ってきたばかりのドアに強く背中を打ちつけ、
羽をしまい忘れたこと、次いで、ドアを閉めたことをひどく後悔した。
「貴様、ここで働いてどのぐらい経つ? おまえを雇ったのは寿命わずかな錆付いた非常階段を慰めることじゃないんだぞ!
娯楽性の高い番組を作り、視聴者を喜ばせ、この世界に魔力を満たし、我々の錆をとってやることだ。それなのになんだこの数字は」
オデロンは慌てて弁解しようとした。
「しかし、前回はもっと低くてですね――」
「ああ、そうだ。前回はさらに低かったな。ああ、その前も、その前もだ! 
深闇枠とはいえ、これはあまりにも酷い。オデロン、このままじゃあ、我が社は
つまらん番組をたれ流す貞淑な放送会社だと思われてしまう! 貴様のせいでな。
だから私は決めたのだよ」
「何を……でしょうか」オデロンはその先を聞きたくなかった。
“やばい! 早く、早くベッドにもぐり込んで……”
ゴホルジャイの一つ目がぎろりと動き、後ずさる一匹の悪魔を捉えた。
「次の番組視聴率が5パーセントを切ったら――」
オデロンが唾を飲み込むより早く、
「クビだ」
喉が動き、オデロンはその言葉を、ゆっくりと飲み込んでしまった。
そして、シャンデリアの炎が一つ、か細い悲鳴をあげて消えていった。



       

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