Neetel Inside ニートノベル
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第三話

 人間は皆平等で、誰しもが、自分にしかない魅力と、何かしらの欠点を持っています。
 人々の個性という花びらが重なって花になり、世界に色彩を与えているのです。
 あなたがもし、自分の事がどうしようもなく嫌になって、この世界から居なくなりたいと思ったとしても、あなたにしか咲かせない花があるはずだから、深く悩まないで欲しいと願います。
 そう、完璧な人間など、この世にはいないのです。
 でも、もしも完璧な人間が存在するとしたら、それは私、三枝瑞樹に他ならないという事は分かっていますね?
 分かっているのなら、これ以上私から言える事はありません。
 あなたは愚民らしく安心して、私のような特別な人間に搾取されていれば、それで良いのです。


「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、八木谷。あら、眼鏡を変えたの? 似合ってますよ」
 目下の者にも礼儀を尽くし、さりげない気遣いを惜しまない。
「おお、気づいていただけましたか。ありがとうございます」
 人間は単純で、言って欲しい言葉を言ってくれる相手の事は心から尊敬します。
「今朝は車で登校されますか?」
「いいえ、電車で行きます。最近ようやく満員電車にも慣れてきました」
「本当に、お嬢様は立派なお方ですな……」
 真のお金持ちは、無闇やたらと自分の財産を見せ付けるような真似はしないのです。例え実家の玄関がパルテノン神殿そっくりでも、執事とメイドを何十人も雇って生活していても、都内で最高レベルの中学校で三年連続成績首位を取っていても、シックスティーンの表紙を飾る読者モデルをする美貌があっても、それを自分の口から言い出してしまっては、まさに台無し。誰かが「あの噂って本当?」と尋ねてきたら、はにかんで肯定するくらいがちょうど良いのです。
 清楚で、可憐で、高貴な淑女。
 学校では、生徒のみならず先生さえも全ての信頼を置き、クラスの中でいつも重要な地位にいる。誰からも必要とされ、皆が愛し、愛してもらえていると思う。手の届かない、高嶺の花。控えめに言えば、私は以上のような人間です。


 満員電車の中は他人の体温で気持ち悪い暖かさが保たれ、駅についてドアが開く度に、不機嫌な顔をした人間が入れ替わります。私はマフラーに顔をうずめながら、一人の男を見ていました。
 ――あの男、痴漢だ――
 山鳩色のスーツを着た、四十台後半くらいの中年。背中の小ささの割にぽっこりと出っ張ったお腹が、不気味な着ぐるみのような印象を抱かせます。スーツの襟にはバッジの跡。ネクタイもピンも趣味が悪い。かけている眼鏡はそこそこ値が張りそうで、高学歴特有の自信ありげな態度で自分の場所を確保しているようです。
 痴漢だと直感した理由は以下の点。
 二つ前の駅から乗ってきたこの男は、まず最初に車内の壁を背にして周りの人間を見渡していました。その時、私と目が合った途端、すぐに視線を逸らしたその様子は、まるで誰かを探しているようでした。乗った電車の中で誰かを探す。学生ならまだしも、中年にはあまり無い傾向です。
 それから、一つ前の大きな駅で多くの人が降りた時、この男は明確に吊り革に捉まっていたある女の子(制服から見て女子高生。耳にイヤホンをしている。音漏れは無い)の後ろに陣取りました。その後、降りてきた人よりも多くの人が乗ってきても、男は女の子の後ろという立ち位置を変えませんでした。
 そして、何より顔がいやらしい。一言で言えば、世俗にまみれた下品な豚その物です。鼻の下は伸ばしすぎて癖がついたのか、ゆるゆるの輪ゴムみたいに伸びきっています。
 私は人と人の隙間から、男の手に注視します。あやしいと感じた時から、手元が見えやすいように男の右斜め後ろの位置を確保しておいたのが功を奏しました。
 ――今、確かに触った――
 男は明らかに、スカート越しに女の子の臀部を触っていました。女の子の反応を見ても、それは間違いありません。おろおろとして、助けを求めるような目、唇は少し震えています。それにしても、セントバーナードの子犬のように大人しそうな女の子です。勇気を出して周囲に訴える事など、まず出来そうもありません。
 ――ああ、同じ人類として情けない――
 そもそも、私がこうして電車を利用するのには、理由があります。
 一つは、高級車で学校まで乗りつけるのはいかにも印象が悪い。真の権力者は、自身の浴びる嫉妬さえもコントロール出来なくてはなりません。電車に乗って通学すれば、庶民の生活のなんたるかが分かり、親身になれる。いえ、「この人は分かってくれている」と、相手に思わせる事が出来る。それに、下の者の目線に立って考える事は、育児と帝王学の基礎中の基礎と言えます。
 もう一つ、肝心な理由があります。しかしそれは、説明するよりも行動に移した方が早そうです。


「この人、痴漢です」
 私は、はっきりとした口調で、凛々しく目を尖らせながら指さしました。いつしても、正しい事を言うのは気持ちが良い。正義を口にした時に吹く向かい風の、なんと涼しい事でしょう。
「は?」
 犯罪者の癖に、いっちょまえにしらばっくれやがりなさった。
「あなたが痴漢だと言ったの。そこの人、見てましたよね?」
 と、男の近くに居た大学生風の男に同意を求めると、「ん、ああ。見てた。俺も今、言おうかと思っていた」と、乗ってきました。指摘する気なんてなかった癖に、と心の中で毒づきますが、今は敵は一人に絞った方が良いでしょう。
「おいおい、冗談じゃない。冤罪だぞ、これは。なんなんだ? 証拠はあるのか?」
 身動きがとれないくらいの満員電車のはずが、少しずつ男と私と女の子のいるスペースが空いていきました。誰もが多めに自分の居場所を取っている事の何よりの証明です。大体の人は、朝からこんな厄介な面倒事に巻き込まれたくないから距離を取ります。
「この男に、痴漢されていましたよね?」
 私が確認をとると、女の子は恥ずかしそうに俯いて、こくこくと頷きました。
 男はバツが悪そうに周囲を睨みます。女の子の肩からふっと力が抜けました。今まで相当力を入れて立っていたのでしょう。私は言います。
「こういう事は、黙ってては駄目ですよ。次の駅で一緒に降りましょう。もちろん、痴漢さんも」
 やがて電車は駅に入って、ドアが開きました。私が大事な証人である女の子の手をとって、慰めの言葉をかけようとしたその一瞬の隙をついて、男が逃走を図りました。小太りの中年とは思えないくらいに軽いフットワークで、駅の改札に向かう人波をかきわけ、どんどん離れて行きます。後を追おうにも、今この気弱な女の子を一人にしたら、どこかに逃げてしまいそう。私は先ほど同意を求めた大学生風の男を睨みました。男は目を逸らして、「知ーらね」と呟きました。
 救いの無い世界。
 はっきり言って、私は自分の事を傲慢だと思っています。ただそれを表に出さないだけであって、日々演技を怠らないだけであって、心の中にはドス黒い物が常にとぐろを巻いているのです。そんな事は重々承知なのです。
 それでもなお私は、自分で正しいと思える事は、貫き通したいと思うのです。
 私は女の子の手を離して、男の後を追って走り出しました。「その人痴漢です! 捕まえて!」と叫んでも、周りの人間は互いに顔を見合すだけで、明らかに逃げている人間は一人なのに、追いかけようとしてくれない。むしろ、「痴漢ごときで何を大騒ぎしてるんだ」くらいの怪訝な眼差しで私を見てくる輩もいます。
 結局、外に出る改札口の手前ほどで、私は男を見失ってしまった。今となっては、証人の女の子さえいるかどうかあやしい。つまりあの男の犯した罪の証明さえ難しい。広い駅だから、その場に居合わせた目撃者達も、散り散りになってしまっているでしょう。
 ここで諦めるのが、普通の人。
 だけど私は特別なのです。控えめに言っても天才。この言葉に偽りはありません。


「なっ……!」
 私の姿を認めた男は、まるで幽霊でも見たかのように顔を青ざめました。ちなみに私は多分死にません。
 駅前から程近い、そこそこ大きな法律事務所。男の職業は、弁護士でした。
 黙って男を睨みつける私に、男はびくびくとしながら尋ねます。
「……どうしてここが分かった?」
 私はすっと人差し指を伸ばし、男のスーツの胸ポケットを指しました。
「法律関係者を示すバッジ。流石に痴漢をする時は外しているようですけど、スーツの襟についた跡は誤魔化せませんよ。普段はつけっぱなしにしているから、跡がついてしまうんです。もちろん、バッジの跡だけならば、国会議員である可能性も、税理士である可能性も、やくざの可能性もあります。けれど、痴漢を指摘された後の反応を見ればおのずと答えは分かりました。あなたはまず『冤罪』という言葉を口にして『証拠を出せ』とも言いました。でも決定的だったのは、逃げるという選択肢を取るのに何の躊躇いも無かった所。被害者も目撃者もいるあの状況では、分が悪いと見たんでしょうね。だけど、電車に入ってきた時の反応から見るに、痴漢自体には慣れていない。あなた、いかにもあやしかったですよ。それと、あなたがこの駅を普段利用しているというのは分かりきった事でした。あなた逃げる時、進む方向に全く躊躇いが無かったんですよ。人の波をかきわけて進む時は、その場所を良く知っていなければ迷いが生じる物です。だからあなたは元々、この駅で降りるつもりだった。この弁護士事務所の前で待ち伏せできたのは、駅の近くにある法律関係の事務所は合計三件あって、うち一件が今日は休み。他の二件に問い合わせてみたら、片方は既に全員出社していました。つまり消去法で考えて、この時間に、法律関係者が事務所に出社するとしたら、ここしかないという訳です。後は待ち伏せしていれば、こうして無事にあなたと再会出来るという事です。お分かりいただけましたか?」
 一言も噛まずに滑らかに長台詞を言ってのけると、男はくやしがったり怒ったりというより唖然として、私の言葉を理解するのに全てのリソースを費やしているようでした。
 このような窮地において、凡人が出せる解答は、それまでの人生経験で何を学んできたかその物と言っても差し支えないでしょう。この男は、自身の四、五十年の人生で一体何を得たのか。何を考えて生き、今わの際に何を思うのか。男はそれを言葉に出しました。
「……いくら欲しいんだ?」
 ――実に、くだらない――
 この世で一番必要ない物。だけど皆が欲しがる物。さぞかし薄っぺらな人生だったのでしょう。同情に値します。私は呆れながら、
「お金などいりません。ただ、一つだけ聞きたい事があって、わざわざ人生で初めての遅刻をしてまで待っていたのです」
 訝しげに私の目を見る男に、私はゆっくりと尋ねます。
 私が電車を使って通学する第二の理由。それは、
「なぜ、私を痴漢しなかったんですか?」
 私を調教してくれるご主人様を探す為です。

       

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