Neetel Inside 文芸新都
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      (12)


 考えてみれば、今まで保奈美とふたりきりになる場面なんてほとんどなかった。
 昼前に甘夏が運動会へ出かけてからは、言葉を交わした記憶などいっさいなく、具合の悪い沈黙だけが事務所の中を行き来していた。柿田は煙草に火をつけようとして、やめた。さっきから、気まずさをまぎらわすために何本も吸いつづけている。正直、味気なくなっていた。
 すると、保奈美がくすくすと笑いながら言った。「記録は十一本ですね」
「あ? なにがだよ」
「柿田さんの連続して吸ったたばこの本数です。どこまでいくのかなーって見てたんです」
 なにを考えていたのかと思ったら、そんな交通量調査のアルバイトをはるかに凌ぐ退屈極まりない作業をしていたのか。逆に疲れたような気分になる柿田だったが、一方の保奈美は会話のきっかけをつかんで楽になったらしく、つづけて言った。
「今ごろ瑠南ちゃんたち頑張ってるかな。寂しい思いをしてなきゃいいんだけど……」
「はあ? どういうことだよ、それ」
「瑠南ちゃん家って共働きなんです」保奈美は優しげに答えた。「だから、運動会にもなかなか応援にこれなくて……去年は私と一緒にお昼を食べたんですよ?」
「よ? じゃねえけどな。ま、ありがちな話だろ。即ボツの脚本だぜ」
「柿田さんの両親は、運動会にきてくれましたか?」
 柿田の答えは小さな間をはさんだ。「まあな、きたよ。ふたりで。毎年」
「へえ」驚いた顔をつくったあと、保奈美は眼差しを陰らせた。「仲良しだったんですね」
「ちげえよ」
「仲良しですよ」
「ちげえっつってんだろ」
「そんな、嘘でしょう?」
「うるせえなっ。なにが言いてえんだてめえはっ」
 柿田は手短なゴミをはたき飛ばした。保奈美の妙にしつこい態度が気に障ったのは事実だったが、仲良しという言葉に対する嫌悪感に突き動かされた部分がほとんどだった。
「ごめんなさい。羨ましくて」彼女は目を伏せて言った。「なんだか、今の私が持っていないものを持っているような気がしたから。それが見えた気がしたから……いじわるだと思います」
 持っていないもの――家族のあるべき姿。かつての理想像。砕け散った虚像。
「つべこべうるせえよ」柿田は唾を吐き捨てた。「悲劇のヒロインみてえな面しかできねえのか。そんなもんクソの役にも立ちゃしねえ。生まれちまったらそこで終わりだ。なにもかもが決定済みだ。人間はな、自分の命を選択できやしねえんだよ」
「人は親を選べないってことですか?」
「ああ」柿田は区切ってから、言葉を噛みしめるように呟いた。「おかしな話だぜ」
「? どういうことです?」
 すると、保奈美の声でようやく自分が言ったことに気がついたらしく、柿田は不機嫌そうにソファに横になった。うずめた顔の陰から「なんでもねえよ」とくぐもった声が聞こえた。


 蒲郡たちの姿を発見した瑠南は、雄大の紅白帽を手前に引っぱった。ゴム紐が首にめいっぱい食い込み、「ぐええっ」と彼は椅子から後ろに転げ落ちる。尾てい骨を強打した。
「杏藤! おまえはおれの尾てい骨になんか恨みでもあんのかっ!」
 雄大が涙目で猛抗議してくる。瑠南はそれを人差し指を唇に添えることで制して、彼の視線を校門のほうに導いた。
「気づかれないように見てよ、あそこ」
「うげっ。刑事たちじゃんか。なにしにきたんだ?」
「のんきに参観ってわけでもなさそう、だけど」
「だけど、なんだよ」
「……私、ちょっといってくる」
「ええっ」雄大は身を引いた。「おれはいかないかんな」
 まかせといて、と雄大を席に座らせて、瑠南はトラックを迂回して蒲郡たちに近づいていった。白熱する競技風景を眺めていた彼らだったが、彼女の姿に気がつくと反射的に口元が笑みをつくった。ただし、目は笑っていない。
「こんにちわ」ちょこんと瑠南は蒲郡の前に立つ。「なにしてるんですか?」
「んん? たまたま通りかかったから、先生たちにあいさつしておこうと思ってね。君は運動会楽しんでるかい、杏藤瑠南ちゃん? 梅村雄大くんはいないのかな?」
 どうやら、しっかりと名前は調べ上げられているらしい。クラス名簿がその手に渡っていることは容易に推測できた。もしかしたら、教師陣にあいさつしにきたというのも、自分たちがおかしな行動をとっていないかチェックする目的があるのかもしれない――などと考えを巡らせていたときだった。
 蒲郡の背後に、甘夏の姿が見えた。
 じっとこちらを見ている――きっと、瑠南と対面しているのが刑事だと気づいている。
(まずっ……甘夏さんっ。ちょっとむこういっててっ)
 最低限の手の動きで、そこから離れるように伝える。
 しかし吉見がそれに気づいた。「どうしたの? なにかあった?」
「あっ、いや」
 瑠南はなんとかごまかそうとするが、吉見はふり返る。心臓が跳ね上がった――が、甘夏がいたところにはもう保護者の群れがあるだけだった。どうやらうまくまぎれ込んだらしい。コホンと気をとり直して、彼女は刑事のコンビを見上げた。
「その、捜査は進んでいますか?」
「うーん、それがね……」と答えかけた吉見だったが、そのつづきは横から伸びてきた手によってさえぎられた。蒲郡だった。
「進んでいるよ」彼は言った。「実はね、目撃証言が出たんだ。怪しい人物がよくこのあたりをうろついているっていうね。私たちはそいつが犯人だとにらんでいる」
「えっ……そう、なんですか。怪しい、男が……」
 瑠南は言葉をつまらせた。可能性としては確実に潜んでいたはずのに、いざとなるとなぜか驚いてしまう。柿田のやつ、ヘマするなとか言っておいて自分がしてるじゃんか。
「そう。だから、保奈美ちゃんが戻ってくるのも時間の問題だ」
「それって……もうすぐ犯人がつかまるってことですよね」
「うまくいけばだけどね」
「えっと、たとえば誘拐っていうのはどのくらいの罪になるんですか?」
「ケースにもよるが」蒲郡は思い出すように言う。「刑法二二四条の規定を引用すれば、三ヶ月以上七年以下の懲役に処する……ってところかな」
 最悪だと七年――人生を失うには十分な期間のような気がした。
「で? なんでそんなことを聞くんだい?」彼は瑠南を見下ろした。心理を見透かそうとしている目だった。
「いえ、ちょっと気になっただけです」
「そうか。なら、これで話は終わりだ。君は引きつづき楽しんでくるといい」
「あ……は、はい」
 なにを言うべきか定まらず、瑠南は言われるがままにきびすを返した。そして、蒲郡の言うとおりだと思った。どうして自分は誘拐犯の末路なんかを聞いたのだろう? わからない。
 彼女の背中が遠くなってから、吉見が蒲郡の顔を見た。その目にはとがめるような色がにじんでいる。「なに言ってるんですか、先輩」
「なにってなんだ」
「とぼけないでくださいよ。どうしてあの子に嘘ついたんですか? 目撃証言なんかとれてないじゃないですか……あ、もしかして安心させてやりたかったとか?」
「吉見」蒲郡は彼を見ずに言った。「誘拐犯ってやつは、ふつう外をうろつくだろうか」
「? いや、どちらかというと籠もるんじゃないんですかね。変に姿を見られてもまずいし、なにより誘拐した人を見張ってなきゃいけませんから」そこまで答えて、吉見は思い出した顔になった。「そういえば今回は、犯人はふたり以上かもしれないんですよね。それなら出られないこともないと思いますけど」
「そうだな。だが、はじめからそう考えるのは珍しいほうじゃないか?」
「はあ、確かに」吉見は頷いてから、はっと表情を険しくした。「まさか」
「そのまさかだ。杏藤瑠南は俺の話に瞬時に反応した。今みたいな疑問をまったく抱かずにな。それがなにを指すのか? ――彼女は、犯人が外に出ることを、出られるシチュエーションにあることを知っているのかもしれない」
「関与……ですか?」
「それに、あの子は怪しい『男』だと言った。俺は性別を断定していないにもかかわらずだ。それはなんだかな、考えすぎだろうか?」――思えば、瑠南たちが梨元邸にきたのだってどこかできすぎな気がする。今回のことと無関係だと切り捨てるのは早計かもしれない。蒲郡の刑事としての勘がそうささやいていた。いや、通告していた。
「そんな……」信じられないといったふうに吉見が呟く。「でも、どうして」
「わからん。それに、これはあくまで可能性の話だ」
 だが、と蒲郡は虚空をにらみつけてつづけた。
「もうちょい追ってみる価値はあるかもな」


 どういうわけか最近、気に入らないことばかりだ。
 柿田は煙草を吹かしながら、周囲をにらみ回した。先週の運動会が終わったあたりから、なにかが変わっていた。微妙な疎外感を感じるのだ。
 事務所には瑠南たちがきていた。保奈美が授業についていけなくなるとかわいそうだからと、ノートを見せて一緒に宿題やら教科書の問題やらを解いている。ときどき談笑をしているのが、柿田の耳を嫌味なふうにかすめていく。
 しかし、それにも増して癪に障ることがあった。
 その勉強会に、甘夏も参加しているのだ。
 運動会で瑠南となにかあったのか、特に彼女との距離が近くなっているような気がした。それが連鎖的に作用して、保奈美や雄大とも仲良くなりつつあるみたいに思える。なに馴れ合ってんだよクソジジイ、と忌々しそうに呟いて、柿田はソファに深くからだを預けた。苛立ちが蓄積していく過程をリアルに感じる。
「…………」
 そんな柿田の様子を横目で見ながら、瑠南は溜息をついた。
 彼女は迷っていた。運動会で蒲郡たちに会ったこと、彼の目撃証言が出たこと――それらの出来事を伝えるべきかどうか、先日から考えているが結論は出ない。てっきり甘夏が言うかと思っていたのだが、言わなかった。むしろ秘匿しているような気配さえある。前々から思っていたことだが、彼の考えは読めなかった。
 だが――自分は保奈美のために動いている。疑いようのない信念がある。それに従うのならば、柿田のことを気にかける必要などまるでなく、つまり情報を提供する義理もない。むしろ、彼を下手に刺激して変なアクションを起こさせる危険を考慮すれば、黙っておいたほうが自分たちの理にかなっているのかもしれなかった。
「瑠南ちゃん。ここってどうやるかわかる?」
 保奈美が訊ねてきて、意識が手元の鉛筆に引き戻された。授業で出た算数の問題だった。応用がかなり求められていて、ダメ教師の若杉はもちろんこと、クラス一の秀才でもお手上げという、誤植かなにかとささやかれる難問だった。
「ううん、わかんないや。梅村は?」
「おれに振るかよ。バカにしやがって。じいさんはわかる?」
「そうだな……」甘夏は目を凝らして教科書を見る。しかし、それで答えが浮き出てくるわけもなかった。「ちんぷんかんぷんだ。元々、私には学がない」
 頼みの綱の甘夏も撃沈され、万事休す。沈黙が下りかけたときだった。
「なにくだらねえことしてんだよ」柿田が立ち上がって近づいてきた。「たかが算数の問題なんざ三秒で解けるじゃねえか」
 瑠南は疑わしげに言った。「ガチで言ってんの? 激ムズだよ?」
「貸せや」
 柿田は瑠南の手から鉛筆を奪い、問題文を見た。すぐに青褪めた顔になって放り出すに違いないと予想していた彼女だったが、瞳に映ったのは驚異的な光景だった。
 柿田の手はスラスラと動き、きれいな解答を弾き出したのだ。
「こんなもんだろ。後ろのページで答えを確認してみろ」
「すごい……正解です」保奈美が教科書片手に目を丸くした。「柿田さん、頭いいんですね」
「いいや、俺はバカだよ。てめえらが思ってるとおりのな」
 自嘲気味に言う。
「ふうん? じゃあバカで寂しがりやなんだね、あんたって」
「なんだと」柿田は瑠南を見下ろした。
「自分だけ話に加われなくて寂しかったんでしょ。それで絡んできたんでしょ」
 柿田の顔が歪んだ。だが、瑠南のほうも意思と言葉が空中分解しているのを感じていた。彼に対する迷いがそうさせているのだと思った。
「図星かよ」雄大がのんきに笑った。「しかしまあ、平和だよなあ」
「……平和だぁ?」
 柿田の瞳孔が雄大をとらえる。ふいに瑠南は嫌な気配を感じた。
 それでも、彼は気づかずにつづける。「平和だろ平和。あの刑事たちさ、保奈美ちゃんは助けてあげるからね、とかドヤ顔で言っちゃってよ。いやいやそんな不自由してないですからっ。つうか秘密基地みたく楽しんでますからっ――」
「ふざけんじゃねぇぞッ! このクソガキィッ!」
 いきなり柿田の口から怒号が飛び散った。雄大の胸ぐらを両手でつかみ上げる。机上の教科書などがばさばさと雪崩れ、保奈美が小さな悲鳴をもらした。
「誰が寂しいだと? 誰が楽しんでるだと? なに勝手に調子こいてんだカスが! 俺は犯罪者だぞ! てめえらなんかすぐにブッ殺せんだよ! 俺の計画をめちゃくちゃにしやがって、ナメてんじゃねえ! ナメてんじゃねぇよッ!」
 胸の澱を一気に吐き出すように叫ぶと、雄大を足元に投げ倒して、柿田は事務所から出ていった。ドアが壁と衝突する音が響く。その余韻の中で、雄大が呆然と呟いた。
「えー……なんだよ、あいつ。いきなりキレやがって、意味わかんねー」
「いじめすぎたかな。このまま帰ってこないなんてことはないだろうけど……」
 なんだかなあ、と彼を助け起こしながら瑠南は思う。流れで甘夏のほうを盗み見てみたが、今の騒動になんの感想も抱いていないようだった。本当にわからない老人だ。
「あっ」
 コンクリートの床に散らばった文房具を片づけていた保奈美が、小さく声を上げたのはそのときだった。計算用紙として裏面を使っていた、A4サイズの紙を眺めている。
「ホナちゃんどうしたの?」
「これ、履歴書なんだけど。たぶん柿田さんのだよね」
 なるほど確かに、書きかけの履歴書だった。例の柿田の元彼女がキャリーケースに詰めてくれたものだろうか――と、そこまで考えて瑠南の思考は軽くストップした。
「え、ウソ……」
 柿田淳一の学歴。
「あいつ、西大の学生だったの?」
「西大ってあの西央(さいおう)大学?」雄大が身を乗り出してくる。
 西央大学とは、西日本で最難関の国立大学だった。末は弁護士か政治家か――が冗談じゃなくささやかれるほどの雲の上のような場所だ。身なりや言動から相当のバカだと思っていたのだが、さきほどの問題のことといい、詐称とは考えにくかった。
 が、しかし――大学名の横に『中退』とつづいていた。
(柿田、あんた……いったい何者なの?)
 瑠南は、蝶番の軋むドアを見た。


 コンビニから出て時間を確認すると、夜の八時を回っている。
 柿田は、廃工場を飛び出してきてから、ずっと街で時間を潰していた。そのあいだ、ガラにもなく反省をしていた――ついカッとなって、わざわざ瑠南たちとの溝をつくってしまった。今後の計画のことを考えれば、明らかに失策だ。同盟関係の危機かもしれない。
 それでも、寂しいのかと言われたことや、先日保奈美とした家族の話が頭の中をぐるぐると旋回していて、憤りや後悔を投下していた。もやもやが晴れない。
 だから、とりあえず今日のところは瑠南たちと顔を合わせたくなかった。今は、もうとっくに彼女らは帰っているだろうと踏んで、廃工場にむけて歩を進めている最中である。
 住宅地に入り、明かりが少なくなってきたころだった。
「ん?」
 前方の十字路を横切っていく、ふたり組の姿があった。体格差からして男女のようだが、ちょうど街灯の光に照らされた女の横顔を見て、柿田はとっさに電柱に身を隠した。
(美月っ)
 確かに浅岡美月だった。となると、となりの男は件の塾の支部長というやつか。どちらも柿田の存在には気づいていないみたいだ。
「……ずいぶんと楽しそうじゃねえか」柿田は独り言を残し、ふたりを尾行しはじめた。
 肩同士の距離が近い。柿田は様々な想像が浮かぶのをとめられなかった――食事の誘いを美月はどう受け入れたのか。どこのホテルで食べたのだろうか。男に対して、彼女はどんなふうに話すのか。男の名前は? もう寝たのか? くそ、なにが優しくて向上心があるだよ。たかが塾の社員じゃねえか。馬みてえなツラしやがって。女慣れしてないのバレバレだっての。美月も嬉しそうに笑ってんじゃねえよ。俺だったらそいつの千倍は笑わせられるぜ。
 そこまで考えて、柿田は黙った。愚にもつかない遠吠えだ。美月はもう自分の女じゃない。捨てられた犬には、嫉妬心ですら抱く資格はないのだ。
 すると、ちょうど美月と男は別れようとしていた。なにか小さく言葉を交わして、別々の道を歩いていく。塀の陰から、柿田はその様子をぼんやりと眺めていた。そして、自分はなにをしているのだろうと思った。みじめにもほどがある。喩えようのない虚無感を引きずるようにして、彼は廃工場にもどろうと歩き出した――そのときだった。
「ジュンちゃん」
「ぎゃあああああああああああああっ!」
 柿田は道路を転げた。見れば、美月が腰に手を当てて角に立っていた。あいかわらず黒のスーツスカートに白い肌が映えているが、首元には知らないネックレスが光っている。
「なによ、私って幽霊みたい?」むっすりして言う。
「あ、あれ? おまえ美月? いや、こんなところで会うなんてキグーキグー」
「ほんと、嘘ばっかり。私と馬場(ばば)さんのことつけてたくせに」
 あの男は馬場というのか。知ったところでどうすることもできないが。
「……わかってたんなら無視してくれよ。わざわざ話しかけなくてもいいじゃねえか」
「先手だよ先手」美月はわざとらしくあとずさった。「ジェラシーの鬼と化したジュンちゃんが夜道でいきなり私を襲うことを考えてね、それなら先にアタックしちゃおうって」
「んなことしねえよ……傷つくぜ」
 顔を見上げると、「冗談冗談」と美月は笑った。久しぶりに見る彼女の笑顔に郷愁じみた感情を覚えたが、柿田はそれを振り払う。
「じゃあなんなんだよ」
「うん、ちょっとね。話したいことがあったから」
 そう言う美月の表情は、かすかに哀しそうだった。
 とりもあえず――道端で立ち話もなんだということで、ふたりは自販機でコーヒーを買い、横にあるベンチに座った。見栄を張って柿田がおごった。
 美月は驚いたみたいだった。「ずっと私のお金で生活していたジュンちゃんが……なんか泣きそうだよ。どうしたの? 定職につけた?」
 さあな、とはぐらかしてから柿田はつづける。
「そういえば、なんであんな道を? おまえのアパートってこっちじゃねえだろ」
「うん、引っ越したんだ」柿田のくわえかけた煙草を指さして言った。「そのにおいが壁に染みついちゃってたの。それはジュンちゃんのにおいだから。部屋にいると色んなところにジュンちゃんが現れるから、辛くなっちゃって」
「……そうかい」
「ジュンちゃんは、どこに住んでるの? この町だよね?」
 時代に見放された工場で小学生と一緒に寝泊りしてます、なんて言えるはずもなく、柿田はさっさと本題へ進めさせることにした。
「まあ、それより、話ってなんだよ」
「そうだね」美月は、コーヒー缶を手の中で転がしながら告げた。「私、ジュンちゃんに謝らなくちゃいけないことがあってさ」
「おまえも謝ってばっかだな」――自分を追い出したことを後悔しているのだろうか、と一瞬だけ考えた柿田だったが、それはないと即座に否定した。美月はそういう女だ。彼女はたぶん、今の生活に幸せのつぼみを見出しているのだろう。「で、それは?」
「ジュンちゃんにひどいこと言っちゃったから。どこにでもいけって、実家に帰れって。ほんとひどいよね。ジュンちゃんのことは、私がよく知っているはずなのに」
 ごめんなさい。美月はそう呟いた。
「そんなことか」柿田は煙草に火をつける。「別にかまわねえよ。オールライトだ」
 あはは、と美月は笑った。「懐かしいね。オールライト」
 柿田はコーヒーを一口すすり、煙を深く吸い込んだ。白い影が夜空に溶けていき、そのむこうに洋風の家がぼやけながら浮かぶ。重なって見えるのは――真っ白な小さな家だった。

       

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