Neetel Inside 文芸新都
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      (1)


 煙草に灯した火が、蛍の光のように少しだけ膨らんだ。
 今日という日が残り三時間を切ったころ。
 学習塾のビルの壁沿いに便所座りした男は、退屈そうに煙を吐き出す。すると両開きのガラス扉から光が扇形に広がって、中から中学生くらいの少女が出てきた。鞄を肩にかけ直しながら、中にむかって「さようならあ」と言う。男が茶化した調子で「さようならあ」と真似してやると、気づいた少女は変質者を見るような目をむけて、そそくさと自転車の鍵を解こうと背を見せた。
「ちょっとちょっと、無視すんなよ。そういうエロいお尻はさ、サドルより俺に乗せたほうがいいんじゃねえか?」
「知りませんっ」
 少女はペダルに力を込めて逃げていく。けらけらと一人で笑って、彼は再び煙草をくわえた。その後も、同じように塾から出てきた男子に金銭をせびったりして時間を潰していると、スーツにタイトスカートという出で立ちの若い女が「お疲れ様でしたぁー」と笑顔を振りまきながら扉を開いて出てきた。それからすぐに彼に気がつくと、
「あれ? ジュンちゃん?」
 目を丸くした。ダークブラウンに染めた髪の切り揃えられた前髪が、その瞳の大きさを際立たせている。ジュンちゃんと呼ばれた男――柿田淳一(かきたじゅんいち)は、呆れた様子で女のバッグを煙草の先端で差した。
「あれ? じゃねえよ。待ってるってメールしたんだぜ?」
 女は早速携帯を開いて、「ごめん、チェックしてなかったや」と両手を顔の前で合わせて眉を下げて笑った。ね? と小首をかしげる重ね技も忘れない。そういう表情をされると、追撃をあきらめるしかなくなる。柿田はコーヒーの空き缶に吸殻を放り込んでから、
「ちっ……まあ、いいけどよ。早く帰ろうぜ」
 それを地面に残して歩き出そうとする。しかし、彼の代わりに彼女が拾って叱った。
「こういうのはちゃんと捨ててよね」追いついて、覗き込むように見てくる。
「へいへい」
「それと、あんまり職場にこないでよ。私のイメージが悪くなったらどうするの?」
「なんで悪くなる前提なんだよ。俺の紳士的な振る舞いが、どれだけおまえのイメージ戦略に貢献してんのか知ってんの?」
「嘘。どうせ子どもたちにちょっかい出してたんでしょー」
「…………」
 図星である。
 柿田はごまかすために、とりあえず彼女の頭をくしゃくしゃと撫でてみた。「なによう」と彼女はむずがるように手を伸ばしてきて、お返しとばかりに柿田のブリーチしすぎた髪を掻き回したが、柿田は彼女の手などものともせず、さらに頭から肩に腕を回し、細いからだを引き寄せた。すると彼女は今度は嫌がるような素振りはせず、おとなしく身を委ねてくる。帰り道は片側一車線の道路沿いの歩道を歩く。走り去る車のヘッドライトが、二人の関係を暴くように照らし、等間隔で流れていく。
 柿田淳一と浅岡美月(あさおかみづき)は、広義の意味で恋人同士である。
 美月は、県内ではそこそこ名のある進学塾でチョークを走らせている。まだ二十代前半と塾内ではダントツに若く、授業もわかりやすい上に心根が優しいことから、生徒のみならず他の講師にも人気が高い――だが、そのほどよくバランスのとれた正五角形のステータスの中で、海溝がごとく中心に切れ込み低数値を弾き出しているパラメータがあった。
 それが、『男』。
 柿田淳一。
 彼は世間一般で言うところの、いわゆるヒモである。自分ではろくに働かず、美月のアパートで風雨を凌ぎ、美月の給料で胃袋を満たしている――無為徒食の、絵に描いたようなダメ男だ。アパートの住人の評価は最悪で、どうしてあの子があんな男と同棲しているのかわからない、といった疑問が日々彼らを悩ませていた。
 十五分ほど歩くと、わずかに洋風の建物が見えてきた。
「ただいまー」美月が言い、
「おかえりー」柿田が答えてドアを閉める。
 明かりをつけると、廊下の奥にうっすらと家具の輪郭が起き上がった。柿田の寄生している部屋は、築八年ほどの二階建てアパートの二〇三号室だ。手狭には感じないけれど、のびのびと暮らせるというほどでもない、独身者が中心のありきたりな賃貸住宅である。
 柿田はクッションを潰すような勢いで座り、煙草に火をつける。「できたら外で吸ってほしいんだけど」と美月がクローゼットを開き、スーツジャケットを脱ぎながら言う。ブラウス越しに透ける起伏を柿田はもう少し眺めていたかったが、仕方なく灰皿を持ってベランダに出た。
 紫煙で月明かりを濁らせていると、中から美月の声がした。
「今日はなにしてたの?」
「あー、待てよ? 昼に起きて、飯食って、煙草吸って、テレビ見て、寝て、煙草吸って、漫画読んで、煙草吸って、おまえを迎えにいって、今煙草吸ってる」
 指折り数えて言い終えると、美月の声のトーンがちょっと下がった気がした。
「持ってきてあげた求人誌は、読んでないんだね」
「いや、読もうとしたんだぜ? けどその前に漫画で活字に慣れておくかって思ったらさ、いつのまにか夜になってたんだよ」
「……ほんとジュンちゃんって、子どもっぽいし、嘘ばっかり」
「嘘じゃねえって」
「ちゃんと働いて私を幸せにしてくれるって言ってたの、いつだっけ」
 柿田は思い起こそうとした。しかし具体的な日付はまだしも、どんな季節だったかはおろか、そんなことを言った記憶さえあやふやだった。
「安心しろや。みみっちいバイトなんかしなくてもよ、すぐにでっかい仕事見つけて帰ってきてやるから。ぜってー惚れ直すぜ?」柿田は笑いを含ませて言った。
「そうかな」
 首筋に視線を感じて、柿田は振り返る。すでにTシャツにショートパンツという部屋着に着替えた美月が、自分をまっすぐに見つめていた。
「そうなのかな」
「…………?」
 怪訝な顔で見つめ返していると、美月はいつもどおりの笑顔をぱっとつくり直して、「じゃあ今からごはんの支度するね」と言って台所へ歩いていく。柿田は再び夜空を見た。胸にはまだ何か引っかかっていたが、すぐにそれは糸くずみたいにほつれて落ちて、彼は吸い終わった煙草を灰皿に埋めてから中へと戻った。
 それから、美月が料理をしているあいだにユニットバスでからだを流し、しばらく無駄話をしながら待っていると、ロールキャベツが運ばれてきた。
「こんなもんつくるだなんて、どういう風の吹き回しだ?」ふだんはどちらかというと慎ましいものが並ぶので、柿田は驚きも含めて言った。それに返ってきた答えは、たまにはね、という味気ないものだったが、かぶりついたロールキャベツからはたっぷりと旨みの凝縮された肉汁が滴ってきた。ナツメグが効いている。
「さっきの話だけどさ」丸テーブルのむかい側で美月が言った。
「ん、何だったっけ」柿田は顔を上げる。
「ジュンちゃんが働くっていう話」
「あー、それが?」
「ジュンちゃんは求人誌読まないし、私が読んで勧めてあげてもダメだから、もう次の面接の話つけちゃった」
「ダメって、そんなことは……」
 ダメだった――これまで何度か、美月に口を酸っぱくして言われた挙句に、アルバイトの面接に出向いたことがあったのだが、どれもこれも長続きはしなかった。いつも柿田は制服なり用具なりを床に叩きつけて、聞くに堪えない悪態を撒き散らしながら勝手に出ていくのだった。それも、他ならぬ彼自身のパーソナルな問題で。
「……って、何やってんだよ美月! 次の面接ってどういうことだよ」
「私の叔父さんがやってるIT関連の会社なんだけどね。このご時世だから倍率は高いかもだけど、私の口利きがあるからジュンちゃん有利になると思うよ」
「うへぇ、パソコンとか面倒くせえな」
「簡単だよ。髪型は気にしないみたいだし、ちゃんと仕事してくれればオッケーだって」
「おいおい、俺いくとは一言も」
「明日の午後二時だから、よろしく」
「…………」
 少しして、わかったわかった、と柿田は肩をすくめた。「いきゃいいんだろ」
 これ以上口答えしても意味なしと判断したのだ。
 それに――さすがに申し訳ない気持ちがないわけじゃない。
「わかればよろしい」
 そう言う美月の笑顔は、失うにはまだ惜しい。そう思えるものだった。
 晩食のあとは美月がシャワーを浴び、二人でまったりして、午前一時を回ったあたりで床につくことになった。シングルサイズのベッドに柿田は横になって、あとから電気を消した美月が潜り込んでくる。一枚の大きなタオルケットを二人で使うのだが、布面積の奪い合いを避けるために、どちらからともなく身を寄せるのが常だ。自然――すぐに彼女の少し低い体温が肌を伝って、赤い管の中に溶け込んでいく。すると、だいたいはそのままスムーズに眠りに落ちていけるのだが、今日はそこでは終わらず、熱は流れを変えてむくむくと内側で膨らんでいった。
 柿田はそっと首を捻って、美月の閉じたまぶたを眺めた。肉厚な唇も。
「……………………」
 たっぷり数分――タイミングを見計らったのち、柿田は美月の下腹部に手を持っていった。まずは太股のつけ根にそれとなく触れて反応を探る……無反応。彼女は寝つきのいいほうではないはずだし、それならば、とTシャツをめくってへそのほうに指を伸ばそうとしたところで、彼女の鋭いしっぺが柿田の手の甲でいい音を立てた。
「えっと、ダメ?」柿田は顔色を窺った。
 すると、目をつむったままで美月が静かに言う。
「私は鬼になります」
 面接の話だろうか? ――それでも、柿田は片肘を立てて横にからだを起こすと、なかば美月に覆いかぶさるようにして、薄い唇を曲げた。
「そんな可愛い顔の鬼がいるかよ。それに、ひょっとしたらさ、明日の面接のモチベーションがすげえことになるかもしれねえぜ?」
 しばしの沈黙のあと、美月がすっと瞳を見せた。
「……最低だね、ジュンちゃん。でも、仕方がないかも」
 彼女の優しい心根が災いした瞬間だった。というより、柿田はその性格を知っていたからこそ、わざと条件をちらつかせるような、そこにつけ込むような言い方をしたのだった。
 柿田は、彼女のからだが弛緩していくのを認める。まずは自分から勢いよくシャツを脱ぎ捨てた。潤いを含んだ彼女の髪を梳く。シーツの上で顔を寄せて戯れてから、じっとりと唇をふさぎ、柿田は彼女の白い肌に指を這わせた。

       

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