Neetel Inside 文芸新都
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 ○8○

 電車を降りる前には、確かに指輪はあった。
 ポケットの感触を確かめていたのだ。間違いない。
 という事は、少なくとも指輪は駅構内からデパートのルートの間で落としたと想定される。そうなれば、後は通った道を一からたどってみる他ない。
 
「はい……ええ、少しトラブルが発生しまして……。はい、キャンセルで、ええ、申し訳ないのですが、お願いします」

 レストランにキャンセルの連絡をした僕は、溜め息と同時に肩を落とした。三ヶ月前から予約していたのだ。それだけ評判の店だった。
 自分で用意した最高の舞台を、まさか自分のドジで叩き壊す事になるとは思ってもみなかった。

「元気出して下さいよ、マスター。たかだか落し物一つ」
「いや、それは良いんだが……いや、良くはないが、そうじゃなくて、本当にすまない」
「私の事は気にしないで下さい。せっかくのクリスマスに、マスターと過ごせてるんですから、十分ですよ。あとでラーメンでも食べましょう!」
「レストランのコースがラーメンか」
「そっちの方が、私も緊張しなくていいですよ」

 とことん庶民派な奴だ。やっぱり、僕達は似たもの同士なんだな。
 四越デパートから、貧ちゃんと歩いた道、駅の通った道まで一通り探したが、とうとう指輪が見つかる事はなかった。
 
 情けない。
 こんなにふがいない事があるだろうか。
 落ち込んではならないと分かっていても、どうしても考えが暗澹としてくる。
 
「マ、マスター。ちょっと、足、速いです」

 無意識に歩行速度が上がっていたらしく、気がつけば彼女の随分先を歩いていた。
 彼女はこちらに手を振ってピョンピョン跳ねているが、人ごみをかき分けられないらしく、なかなかこちらに来ない。
 そう言えば彼女は歩くのが遅いから、普段は意識的に速度を落としてたな。考え事をしていたから、すっかり失念してしまっていた。

 彼女の方に向かっていると、いつの間にか背の高い好青年が彼女に話しかけていた。ナンパか? と一瞬構えたが、彼女の様子を見たところ、顔見知りらししく、朗らかな表情をしている。

「松崎さん! 奇遇ですねぇ! お買い物ですか?」

 近付くと、弾んだ彼女の声が聞こえてきた。

「いやぁ、クリスマスだってのに友達と飲みだよ」
「でも女の子もいるんでしょ? この色男!」
「いや、はは。参ったな、口が上手いんだから。そっちは? 暇だったら一緒に来る? 女の子が増えると、皆喜ぶよ」
「あ、いえ。今日は連れが居ますので」

 ようやく二人の元にたどり着くと同時に視線を向けられたので、思わずドキリとした。
 緊張で、表情が強張る。
 松崎という男は、こちらを上から下まで軽く目を通すと、そっと会釈してきた。思わず会釈を返してしまう。そして、彼女に小声で何か呟くと「じゃあ」とイタズラっぽい顔をして去って行った。彼女が真っ赤な顔で松崎の背中に「アホ!」と暴言を吐く。
 
「いやぁ、どうもすいません。あの人軽いんですよ」
「会社の人?」
「隣の部署の営業さんです」
「ふぅん。ずいぶん打ち解けてたみたいだけど」
「まぁ、仕事で絡む事多いですからねぇ。飲みにも連れてってもらったりして、結構お世話にはなってますね」
「へぇ……。それにしても、かなり格好いいな、彼。僕でも好感が持てるくらい爽やかだった」
「そうですねぇ。女子からの人気は高いですよ? 裏表がないし、おしゃれだし、仕事も出来るんです」
「そう言えば、去り際に何か言ってたみたいだったけど」
「えっ? えぇ……」
 彼女は再び顔を赤くする。そんな内容なのか。
「えと、実はですねぇ……」
「言いたくないなら、別に言わなくて良いよ」
「いや、その、えっと『今日はホワイトクリスマスだね』だーって! オッサンかよぉ! って感じですよねぇっへへへへ」

 何かと思ったら下ネタかよ。そんなこと言う奴、どうかしてる。
 そこまで考えて、七年前自分が全く同じような事言ったのを思い出した。
 僕もどうかしてたな。いや、今もどうかしてるのか? むしろなんだ。むしろ? むしろって何だ。田代か。田代ってなんだよ。

 ……はぁ。

 何だか狼狽している。彼女の周囲に他の男の影がある事に、今更ながら、内心衝撃を受けていた。

 ああ言う顔で笑ったりするんだな。

 松嶋と話す彼女、ずいぶんと楽しそうだった。見たことない表情……の様な気がした。 飲みに行ったってことは、一対一で一緒に行ったのか。松嶋にも限らず、他に男の知り合いが沢山居るのだろう。そんな話、今まで一度もされた事ない。
 ああやって、下ネタを軽く言い合うくらいには仲が良いのか。ずいぶんだな。

 彼女の会社の人間関係とかは、あまり耳にした事がない。こちらから、特別詮索したりはしないからだ。だから、全然現実味がなかった。

 僕が言うのもなんだが、彼女は客観的に見ても美人だと思う。
 性格も良い。明るいし、愛嬌もある。だから、交友関係も広いだろうし、多分モテるだろう。
 一方で、僕はあまり交友関係が広くない。顔も良くないし、性格も良くない。どこにでもいそうな、冴えない中年男性だ。
 だから、今更ながら、彼女との差を実感してしまった。
 
 彼女の様な奇妙な出生で、気が狂っているやつ、僕以外に貰い手などあるわけないと、ずっとどこかでそう思っていた。

 そう、僕は内心、どこか驕っていたのだ。妙な自信を持っていたと言っていい。
 その自信が、たった今、あっと言う間に崩された。砂上の楼閣の如く、ボロボロと崩れ去っていた。
 嫉妬なのか、不安なのか、良く分からない感情が心に渦巻き出す。

 こう言う辛気臭いのは良くない。

 打ち切り直前の少女マンガで一番嫌われる、登場人物がウジウジするシーンだ。そんな陳腐な感情を、自分が持ちたくはない。社会人なのだ。男女関わらず人付き合いはあるし、飲みにだって行くだろう。別に珍しい事じゃない。
 
 分かってはいたが、その不安を打ち消すような過去の積み上げが、僕にはなかった。
 何の経験もないのだ。
 恋愛だって、そう言うのはずっと遠ざけていたし、逃げていた。
 自分みたいな気持ち悪い奴が誰かに好意を示すのなんて、吐き気がする。ずっとそう思っていたのだ。
 
 そんな僕に無条件で好意を示す彼女の存在は、都合がいいものだった。
 だから、勘違いが出来たんじゃないのか。

 彼女は本当に僕でいいのか?
 釣り合っていないんじゃないか?
 もっと良い男がいるだろう。彼女に見合った、彼女を支えられる奴が。
 僕じゃダメだろう。

 今日だって慣れない事をしまくっている。
 レストランを予約して、指輪まで買って。
 それなのに、人の落し物を届けて、迷子の親まで捜して、挙句の果てに指輪を落として。

 キャパシティオーバーだ。一杯一杯じゃないか。
 そんな要領の悪い、ドン臭い奴を、誰が好きになるんだよ、普通に考えて。

 逆だったらどうだよ。
 見た目も中身もパッとしない女性。
 好意を示しても毎回上から目線で嫌味を言われ、適当にあしらわれる。
 どこを好きになるというんだ。

 彼女は、最初に僕の恋人役として神様よりこの世界に贈られた。
 だから、職務とか、任務とか、そんな感情で今まで一緒に居たんじゃないのか。
 今までのはずっとパフォーマンスだった……コミュニケーションの一種だと言う可能性を、考えてなかったんじゃないか?

「マスター? どうしたんですか? 顔が真っ白ですよ?」
 彼女が僕の顔を覗き込む。まともに見れず、顔を背けた。
「雪でも降ったかな」
「一ミクロも降ってませんけど……」
「じゃあペンキだ、全身ペンキを浴びたのだ。ペンキの雨だ」

 僕は早歩きで歩き出す。「あ、待ってくださいよぉ、マスター」と彼女の声が背後から響く。
 だが、僕は足を止めない。
 一緒に居たくなかった。
 居れる気がしなかった。

       

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