Neetel Inside ニートノベル
表紙

Hから始まる恋心
10.a tempo -もとの速さで-

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 チャイムが鳴った。
 担任の退屈なスピーチを聴き流したら、音楽室へと足早に向かう。放課後はお掃除のお時間なので、校舎の中にも生徒が多い。ふと窓から中庭に目をやると、クラスメイトで騒がしい典型的阿呆で坊主の狭山が、箒を如意棒のように振り回して仲間たちとエキサイトしていた。このくそ暑いのに御苦労なことである。一応のところ進学校と位置付けられている我が校だけど、掃除を真面目にやっている生徒など現代日本におけるトキくらい希少価値が高い。今しがた気配もなく後から忍び寄った体育教師によって鉄拳制裁をお見舞された狭山も、その傾向に迎合している一生徒にすぎないのだ。南無。
 と、クラスメイトを話のクッションにしているうちに、渡り廊下を通ってどうやら音楽棟へと到着した。こういった特別な場所の掃除は不定期で、毎日あるわけじゃない。吹奏楽部や弦楽部、合唱部などの音楽系部活動も、屋外や体育館、別館の記念ホールなんかで活動していることが大半なので、僕と羽月にとってここは絶好の隠れ家というわけだ。
 ひんやりと大理石のように冷えた館内に踏みこみつつ、昨夜を思い返す。ハミング二重奏のせいですっかりテンションが上がり切って忘れていたけれど、羽月はなんだか様子がおかしかったんだよな。平均的な表現をするなら、元気がなかった。蛍光灯に照らされた昨日の無表情が、普段笑ったり怒ったり無垢な感情をストレートに表に出す彼女だからこそ、網膜にこびりついて離れない。まあ落ち込んでいたのは僕にしたって同じわけで、結局お互い音楽に頼って気持ち良くなっちゃった今、その原因やら問題やらを気にかけるというのもなんだか気が引ける。どうせ聞くなら、ピアソラの助けを借りる前だった、という気がしてならないのだ。
 そうなんだよな。音楽以外のつながりなんて、僕と羽月の間にはこれっぽっちもない。だから楽しい、っていう部分もあるかもしれないけれど。何か、背徳感に似たものを覚えるから。対人関係なんて、わからないところが多くなければ面白くもない。
 ただ、わからない部分が多い方が面白いというのは、これから知れるという楽しみがあるからだ。そして実際、僕は羽月のことを知りたい。しかし昨日も顕著にその傾向が表れていたが、彼女のほうが僕を拒否している。拒否しているというか、自分の本質に到達できるか否かのところに一本ラインを引いているのだ。つまり、知ろうにも知りようがない。これでは面白くない。彼女の悲しい顔を見ていても、泣きそうな眼を見ていても、どうしようもできないのだ。誰かを助けようと思えば、まず相手の状況を知らなければならない。だけど羽月は自分を知られることを嫌がるから、僕がそうやって彼女を知ろうと差し伸べる手は、自分の懐をえぐる凶悪な刃物にでも見えているのだろう。だから、取り付く島もない。
 逆に言えば、それでも十分なんだよな。僕と羽月は音楽でつながっていられるのだから。と陰の落ちた彼女の顔を頭から振り払ったその時、僕の鼓膜をピアノの音が震わせた。
 赤と黄色と秋をぶちまけた落葉を何枚か踏みつけたような響きが、短い感覚でいくつか耳朶を打つ。暖かいオレンジをイメージさせ、水分を失いながら積み重なっていく音の山。
 バッハのイタリア協奏曲、第3楽章だ。
 チェンバロに似た響きを持つ音のうしろに、管弦楽の確かな響きを感じる。音の質としては全く別物だけれど、聞こえてくるピアノのその奏で方が、音楽の父の造り出したフォルテとピアノを浮き彫りにしていく。テーマのそれぞれに確かな役割があって、ひとつの鍵盤でかきならされているとは到底思えないほど色彩が豊かだ。協奏曲――コンチェルトの構成が、目に浮かぶ。パラパラと、手に持つ小麦が指の間からこぼれていくような絶妙なタッチを耳にしながら、僕はいつものように音楽室の前を通り過ぎた。
 いつもながら、すごい。技術も音楽性もそこに乗せられた思いも、全部。しかも彼女はそれをわかって弾いているわけじゃない。ただ、本当に心から、音を楽しんでいるだけなんだ。そしてそれが自分だけの音楽にならないことが、尚更すごい。羽月のピアノは、周りを全部巻き込んでいく奔流だ。
 特別練習室の前で足を止め、木製のドアに耳をつけた。バッハが、僕の中へと注がれていく。宮殿のサロンに満ちていた、中世から近代への過渡期が孕む、琥珀に似た音楽。だけど高貴すぎず、親しみやすくて明るい旋律の主題。
 安心する。
 ああ、いいなあ。
 と、一人でほっこりしていると、シンプルな主題のまま偽終止もコーダもなく、コンチェルトは終わった。僕は感想を言おうといつも通りドアを開き、二人の女子と対面する。
 一人は羽月。ピアノに座ってこちらを見ている。
 そしてもう一人は。
「……は?」
 この学校の、胸元の布地に赤いラインの入った制服。本人曰く水泳の塩素で色の抜けた茶色がかったショートヘア。鋭くて真っ直ぐで折れない、強気な目。艶のある肌と唇。
「やあ」
 ピアノの傍に立って手を挙げているのは、間違いない。
「昨日ぶりだね、えーちゃん。どうして昼休み来てくれなかったの? 女子に一人でご飯食べさせるなんて、紳士じゃないぞ」
 花火だ。
 どうして? なんで? 疑問がわいては言葉にならないまま消えていく。
 羽月と花火が出会うとは、予想外とまではいかなくても実際に起こるとは思っていなかった。それに今このタイミングで、僕と羽月と花火が一堂に会することなんて、それこそ全く想像だにしなかったことだ。客観的事実を述べれば高校生が音楽室に三人というただそれだけなのだが、その事実が持つ意味は僕にとって計り知れないことになっている。
「あれ? 花火さんは英波君とお知り合いなんですか?」
「お知り合い、ね。まあそんなところかな。音楽好きの仲間ってところ」
 ふぅん、と頷きながら、興味深げに僕と花火を順々に見る羽月。僕の知らないところでどんどん話が進んでいる気がする。これはまずい。
「……てかその前にお前、何でここに」
「それにしても素晴らしい演奏だったね、はーちゃん。私、人のピアノ聴くの久々だったけど、感動しちゃった。本当にホルンとかが聴こえてきそうなくらい綺麗な音色だったもん。まあ、このピアノだからってこともあるのかもしれないけど」
 僕を軽くスルーして、花火は羽月へと向かった。彼女、僕に介入する余地を与えない気だろうか。
「ありがとうございます」
 対してピアノの前のブロンド少女は、えへへと頬をかいていた。
「このピアノだからっていうのは?」
「弾いててわかるでしょ? これがすごくいいピアノだってこと」
 左手で黒光りする側面を撫でつつ、花火が言う。
「はい、それはもう! 私が椅子に座るといつも弾いて弾いてって言ってくるんです」
「じゃあ相性はバッチリだ。この子はね、スタンウェイっていう世界一のメーカーのピアノなの。本来こんな普通高校の音楽室にあっていいような代物じゃないんだけどね。とにかく品質は保証済みってわけ」
 確かに花火の言う通り、このピアノはスタンウェイだ。ベーゼンドルファーやベヒシュタインと並ぶ世界三大ピアノのうちのひとつ。最高級とまではいかないが、十分すぎる程透明で良い音を響かせる。一般生徒に軽々しく触らせたくないという静先生の気持ちもわかるというものだ。最近は羽月に対してか、意識的に解放されている気はするけど。
「でもさ、何で三楽章だけなの? 普通イタリアンコンチェルトなら全楽章通さなーい?」
 花火のその疑問は、僕の疑問でもあった。ただ、大体見当はつくけど。
「イタリアン……なんですか?」
「あー、イタリア協奏曲のこと。今君が弾いてた曲のタイトルだよ。まさか知らないってわけはないよね?」
「え、えっとぉ」
 左斜め上に目をやる羽月は、多分本当に知らないのだろう。そしておそらく、この楽曲が三楽章から成っているということすら、頭にないまま弾いていたに違いない。
 空白。空白。
「……え」
 花火が僕に、嘘でしょ? と視線を送ってくるが、僕はそれに頭を振ってこたえる。
「マジ?」
「……あの、まじです」
 羽月がしょんぼりしてしまったのを見かねてか――わかるぞ、小動物的愛らしさがあるからな、彼女には――花火は急激にテンションをあげた。
「ま、まあそんなこともあるよね! 別に曲名わからなかったら弾けない、なんてことはないわけだし。それに実際素晴らしい演奏だったし、何の問題もないじゃんね!」
「そうだ、何の問題もない。今のところは気にする必要も無い。知識に関しては後からどうにでもなる。僕がいくらでも教えてやれるしな」
「そだね、えーちゃんに教えてもらえばその辺のクラシックオタクにも負けないくらいの気持ち悪い感じの知識が得られると思うよ」
「勝手に気持ち悪い感じにイメージ操作をするな」
 花火と会話、というか羽月に対するセンテンスの応酬だが、それが成り立っていることに、安堵する。安堵している自分を俯瞰して見て、反吐がでる。
 なんだ、結局僕は花火を失う覚悟なんて出来ていなかったじゃないか。
 一人顔を曇らせる僕をよそに、羽月は目を大きく見開いて意外そうに言葉を口にした。
「お二人は仲良しさんなんですね」
「ん? そう? そう見える?」
 その言葉に、花火がニッコリ笑って聞き返した。
「まあ、幼馴染だからね」
 答える彼女は、何故だか得意げだ。
「英波君って友達いなさそうだから、ちょっと意外です」
「時々ナイフみたいに切れ味がいいよな、お前の台詞……」
 天真爛漫かつ純粋無垢に培養された台詞は、その特性故に僕の心臓に突き刺さる鋭さも兼ね備えている。
「何も間違ったことは言ってないじゃない、えーちゃん。この娘の言う通りだよ」
「ぐっ」
 よってたかって僕をいじめるというのか。ひどいやつらだ。
「ああ、そうそう、どうして私がここにいるのかって?」
 急に思い出したかのように顔をこちらに向けた花火に、僕はたじろぐ。
「それは勿論、幽霊を探しに来たからに他ならないのだよ、ワトソン君」
 僕は言葉が咄嗟に出なかった。
 おちゃらけて誤魔化してはいるけど、それはつまり――。
「……そうか」
「まあ、結果としては幽霊どころかこーんなに可愛い天使を見つけちゃったわけだけどね。人見知りもしないみたいだし、良い子だなあ、はーちゃん」
 彼女は左手をポンと羽月の頭にのせて、わしゃわしゃと撫でた。
「て、天使だなんてそんな」
「可愛い女の子は皆天使だよ」
 言いながら、困る羽月に頬ずりをする。
「あ、あうぅ」
「やわらかーい」
 すりすり。そんな音が聞こえてきそうだ。サラサラで、ふわふわなのだろう。
 ぶっちゃけ、羨ましい。
「それで、えーちゃん。いっつもこんな天使と二人っきりで、君は一体何をしているのかな?」

       

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