Neetel Inside ニートノベル
表紙

Hから始まる恋心
11.sussurrando -囁くように-

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 一瞬、誰もが静かになった。羽月も花火も僕も、蝉の声さえも。加えて僕の心臓も。人はそれを沈黙と呼ぶのかもしれない。
「……いろいろ突っ込みたいところだが」
 落ち着いて深呼吸、言葉を組み立てる。
「まずどうして『いっつも』なんだよ」
「だってえーちゃんとはーちゃんは知り合いで、でもはーちゃんはこの学校の生徒じゃないわけでしょ、私とは違うその制服を見る限り」
 僕を見る彼女は羽月から顔を離すと、目を細めながら身体の後で手を組んで、ピアノの周辺で神妙なステップを踏んだ。それから、なのに、と続ける。
「授業が終わって真っ先にここへ来るなんて、えーちゃんにそんな用事があるわけないし。そうなると放課後偶然、音楽棟の特別練習室で鉢合わせました、なんてあり得ると思う?」
「用事があるわけないって、何を断言してやがる」
 目を閉じて、花火はちっちっちと指を振った。
「いいや、あり得ないね」
 ああ、そうですか、僕は無視ですか無視ですね。
「つまりここから導かれる真実は一つ。君達は放課後、この場所で、日々逢瀬を楽しんでいるというわけだよ」
「すごいです! よくわかりましたね!」
 逢瀬を楽しむという表現には語弊があるように思うのだが、花火の言うことは大方間違っていないので否定もできない。無駄に悔しい。そして羽月のやつは何をはしゃいでいるのだろう。
「それで何をしているかと言えば――ズバリ、ピアノを弾いて楽しんでる、って感じかな?」
「大正解ですっ! どうしてわかるんですかっ?」
 いや、普通に考えればそうなるだろうが。
 しかし僕と花火の場合、普通に考えれば、ともいかないか。中学生の頃の僕らにとってはほとんど日課みたいなものだったからな、放課後の音楽室で時間を過ごすのは。だから僕は、階段の脇に隠れて降りてくる友人を驚かすのが好きそうな、そんな感じの悪戯っぽい笑みを浮かべた花火をじっと見つめて、思う。
 不思議だ。
 何がって? だって、あの花火が人のピアノを聴いたんだぞ。あの花火が、昔を思い出すような発言をしているんだぞ。自分の右手を壊した人間の前で、そんな表情ができるわけないんだ。あんなことがあった昨日の今日で、僕の幼馴染が何を考えているかなんて全く微塵も理解できないけれど、それでも。
 無理をしているとしか、思えない。
 違うのか?
 僕にはわからない、どうしてお前がそんなに無邪気にはしゃいだ顔をしていられるのか。
「ふっふっふ。名探偵花火の手にかかればえーちゃんの秘密なんてまるっとお見通しなのだ」
「花火さん、尊敬しますっ!」
「師匠と呼びなさい」
「師匠っ!」
「いつまで茶番を続ける気だ」
 若干いらだち混じりの僕の声に、胸を張る花火と目を輝かせる羽月が揃ってこちらを向いた。やめよう、ネガティブな思考は。表向きだけでも、今は平和なんだ。コタツの中の猫みたいに、丸く収まってるんだ。そんな幸せ、わざわざ壊しにいくことなんてない。
「昨日言ったろ? 今日はお前に見せたいものがあるんだよ。そんなに時間があるわけでもないし、さっさと学校を出るぞ」
 それを聞いた羽月は、少しばかり意外な様子だ。
「見せたいもの、ってここにあるわけではないのですか? てっきり英波君が持ってきてくれるものだとばかり……」
「安心してくれ、別に変な場所に連れてこうってわけじゃない。お前はいつも通り音を楽しむだけでいい」
 すると遊ぶような目で、花火が訪ねてくる。
「凛さんのとこ?」
「……よくわかったな」
 若干驚きながら答える。ピアノの前に座る少女には、何のことだかわかるまい。共通の知り合いを持つもの特有の、省略に省略を重ねた短い応答だ。だけど、それが何故か、どことなく息苦しい。
「だったら私も一緒に行っていいかな?」
「はあ?」
「おっとえーちゃんよく考えなよ」
 ストップをかけるようにバンドエイドだらけの右手を突き出して、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「君に拒否権がないことを、忘れたわけではあるまいね?」
「……」
 そういえば僕、花火の奴隷とかいう設定だったっけ。しかも結構リアルに嫌な感じで。
「……好きにしろ」
 そう言うより他にないというのが、なんともむなしい。まあ男なんてこんなものか。
「よっし決まりだね。じゃあ、さっそく行こっ!」
 僕の密かな溜息など気にも留めず、花火は羽月の左手を握りしめるなりかけだした。当然ふわふわブロンドヘアのピアニストはまだ椅子に座ったままであったから、スタートダッシュに遅れ「ほ、ほわわっ」なんて声をあげつつ、首の座ってない赤ん坊みたいに頭を上下させながら、一杯一杯精いっぱいに花火に引きずられていく。
「ダッシュダーッシュ!」
 またこけるぞ、あいつ。
「きゃあああぁぁっ」
 羽月はものすごい勢いで自分の足に躓いた。躓き、脚が絡み、よろよろと蛇行し、しかしそれを有無を言わさぬ勢いで引っ張っていく花火によって、深夜の新橋のサラリーマンでも見せないような千鳥足のまま、ショートカットのおてんばとブロンドヘアの天使は僕の視界から消えていった。悲鳴と共に。
 大丈夫か? あいつら。
「……僕も行くかな」
 そうひとりごちて、ふと蓋があけ放たれたままになっていたピアノに目をやる。光のカーテンに曝されて空中のほこりがダイヤモンドダストみたいに輝く夏の昼下がり。締め切られて、若干の空調だけが涼しさを演出するカビ臭い練習室。そこにある、スタンウェイの、ピアノ。漆黒のボディに、独特の内部構造を持つグランドピアノ。
 一歩、歩み寄る。
 甘い音も哀しい音も、柔らかい音も鋭い音も、重い音も軽い音も、全てが自由自在。この世のすべての音をだせるのではないかと思うくらい、有限の中に無限が詰まった魔法の楽器。
 もう一歩、近づく。
 これはそう、羽月が弾き、そして――幽霊が弾いたピアノなんだ。
 踏みだして、それに触れる。椅子に座る。対面する。その地球に沈み込んでいきそうな存在感を、全身で愛撫する。幽霊を意識して、左手で鍵盤に、触れる。ちょこんと五本の指を、乗せるだけ。ほんのり冷たい夏の鍵盤は、僕の体温で溶けてしまいそう。右手も、乗せる。乗せるだけ。
 だけど、このまま僕が指を下ろせば、ピアノは鳴る。音を出してくれる。
 僕なんかの為に、音を。
 何かが、僕の頭の中の漆黒を横切って飛んだ。
「……」
 鍵盤から指をどかす。
 違うな、こんなのは道理にあってない。こんなのは、違う。
 見ろよ、心臓がこんなにのたうちまわってる。苦しくてたまらない。はあはあと肩で息をしてしまう。今じゃない。境界線を明瞭にするのは、まだ今じゃない。ボケろ、掠れろ、消えてなくなれ。まだ心の準備なんて、出来ちゃいない。
「はあ、はっ……」
 良い気になるな。あいつはお前を許してなんかくれない。天使に甘えて何になる。
「あっぐ、うっ……」
 甘えるな。お前は罪人だ。
 罪人だ。
「おい!」
 ごちゃごちゃに濁り切ったマーブル模様みたいな僕の世界に、テノールボイスが一石を投じた。はっとして、僕は浮かび上がってくる。
「そこで何してやがる、クソガキ」
「……静、先生?」
 僕は額に滲んだ汗を拭って、ふらつきながらも立ち上がった。部屋の丁度入口のあたり、カッターシャツにベストといういつもの恰好で、静先生が立っていた。
「すいません、ちょっとピアノを片付けようとしていたところです」
「そんなことは聞いてねえし、問題でもない」
 内開きのドアにもたれかかって腕組みをする彼の横顔に、疑問を投げかける。
「じゃあ、どういう問題なんですか?」
「今日俺はこの特別練習室の鍵を開けた覚えがないんだよ」
「へ?」
「つまりお前がここにいる、それがすでに問題だってことだ。わかるか? 安部少年。ここ、大丈夫かい?」
 こめかみのあたりを指でツンツンする動作に若干いらっときながらも、僕は焦って口を回した。
「い、いや、しかしですね、先生が開けておいてくれたんでしょう?」
「誰の為に」
「誰の為にって、それは」
「あの紙袋のお嬢ちゃんの為にか? 馬鹿言うな。いくら女の子とはいえ、他校の知りもしない生徒に無条件で解放してやるほど、そのピアノも俺も安くねえんだよ。それはお前が一番よく知ってるはずだろう」
 静先生の言っていることがよくわからない。
 部屋は開けてない? じゃあ、どうやって羽月はこの練習室に?
「とにかく、開いてるからって勝手に入るのはよせ。まずは俺に報告するのが先だ」
「ですが……」
「不思議そうな顔しやがるぜ。幽霊でも見てたんじゃないのか? 安部少年」
「ば、馬鹿言わないでください! 先生だって見たでしょうが、羽月のことは。大体、幽霊って言うなら――」
 そこで、言葉が飛び出そうになって、その勢いのまま喉につかえる。
「言うなら、なんだ」
「……あ、いえ」
 なんでもないです。そう締めくくってふと、あることを思いついた。
「ねえ、静先生」
 グランドピアノを労わりながら片付け、腕組みをして俯いたままの静先生へと向き直る。
「何だ?」
「質問があるんですけど、いいですか?」
「聞くだけなら、聞いてやらんこともないな」
 相変わらず持って回った言い方が好きな男だ。
 その男に対して、僕は息をするように、一つ尋ねた。
「先生は、もし――もしですよ」
 深い漆黒を湛える、双眸を見つめて、僕は続ける。
「誰かのせいで歌が歌えなくなったら、どうします?」

       

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