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第四話「Live forever」

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 初めての音の感覚は、スタジオを出た後も変わらず私の身体に残っており、ふとあの低音を思い出すだけで身が震えた。心臓が強く脈を打って、噛みしめた唇と握り締めた両の拳は、その高揚の吐き出し口を求めていた。
 背負ったベースはとても重くて、肩にじわりと食い込んで痛む。けれども、とても充足感の中に自分が浸っていることがたまらなく嬉しくて、そんな重みでさえも私は気にすることはなくなっていた。
 薄ら暗い夜道を駆けて、それから自宅の扉に鍵を突っ込んでノブを回した。灯りはついていない。母がまだ帰ってきていないことを確認してから、部屋に楽器を立てかけると、ベッドに腰を落とす。ついこの間日干しをしたせいか、やけに感触が柔らかい。クローゼットの中に立てかけられたベースの青を眺めながら、両足を前後にふらつかせ、それから壁に立てかけられた全身鏡でその姿を見て、また恥ずかしくなる。
――表情が、崩れ過ぎている。
 私は首を振って、夕飯の支度を始めよう、家事を一つ一つこなして、それから予習だと、その鏡の中のにやけた自分をごまかすように動き始める。
「……私、こんな砕けた表情、できたんだ」
 いつからか被るようになった、温かみも冷たさもない、無機質の笑顔が彫り込まれた仮面。それが当たり前であった筈なのに。
 私は、少しづつ壊れているようだ。
 それが怖くもあり、そして、喜ばしいことでもあって、とても複雑な気分だ。

   ―第四話「Live Forever」―

 放課後、橙色と濃いグレーが支配する教室の中で私は、一人鞄に荷物を詰めていた。幾つかの女子グループに誘われたが、用事があるのだと断っていった結果、私一人となっていた。
 ここ最近はそうやって、一人で帰宅することが増えた。
 別に交友関係を避けているわけではないし、誰かと一緒にいるのはとても安心するから嫌いではない。ただ、今の私が話題に口を出すと、どこかでこの安藤奈津という存在にぼろが出てしまう気がしていた。これまで作ってきた私という評価が一つ変わる。意外、という言葉でさえ私にとってはとても怖かった。
 それに、今日は本当に用事があるから大丈夫。本当なんだもの、と私は自分自身に言い聞かせるように小さく呟き、それから鞄を肩にかけて教室の扉を開けて一歩外に出た。
「安藤さん」
 廊下に出たところで言葉をかけられ、その声に私は振り向いた。
「ちょっと、手伝って……」
 安田君は、情けない声をあげ、足をふらつかせながら大量の袋を腕に提げていた。割と細身で、文学少年、といった印象の強い彼がこんな量を運べるとはとても思わなかったし、第一自らの限界が分かっているのなら無理をする必要性はないはずだ。
「自分の限界はちゃんと見極めないといけないよ」
 溜息をひとつ吐いて、それから彼の腕にぶら下がる袋を二、三手にする。なるほど確かに重かった。
「はは、かえって格好悪いところを見せちゃったなぁ」
 安田君はそう言って自嘲気味に笑うと、それからありがとう、と微笑み、それから私を先導するかたちで廊下を歩いていく。

 運搬作業の間は、私たちの間にけっして会話はなかった。いつもはもう少し談笑をしていた気がするのだが、何か私が気まずくさせるような行動でもとってしまっただろうか。無言でただ歩き続けるその細い後ろ姿を見つめ、私は下唇を軽く噛んだ。
「安藤さんはさ」
 やっと彼はしゃべった。けれども、視界に映るのは背中だけで、彼のいつもの笑みを浮かべた奇麗な顔はない。私は「ん?」とたった一文字を彼に向けて放った。多分、なんとなく、その問いが私にとっても、彼にとっても良いものではないような気がしたのだ。
「大したことじゃないんだけど――」
「あ、いた。安藤さん」
 だから、その声がした時、私はとても安堵したのだ。ああ、まだ私は彼に現実を突きつけなくて良いのだと、最低の考えを抱きながら……。
 私と安田君が振り向くと、そこにはあのすがすがしいほどの笑みを浮かべた蜜柑が立っていて、右手を大きく振り、背中のギグバッグを上下に揺らしながらこちらに駆け寄ってきていた。
「探したよ。時間になっても全然来ないから」
 そう言うと、彼は携帯を開いて画面を私に見せた。確かに液晶に映る時計は約束から二十分ほど先の数字を指示していた。
「ごめん、ちょっと手伝いをしてて」
「僕が頼んでしまったんだ。約束があるとは知らなかったもので……」
 安田君が私より一歩前に出ると、そう言って軽く頭を下げた。蜜柑はその謝罪に戸惑いつつ、いやいや、と両手を左右に振った。ほんの少し悪戯気味に言ったつもりの言葉を、ここまで誠実に返されるとは思わなかったのだろう。
「それで、俺も手伝うよ。見たところまだ、ええと……」
「安田です。安田和也」
「ああ、どうも。安田君もまだ荷物重そうだしね。俺は園田蜜柑です。柑橘類をそのまま男の名前にされてしまって、あんまり好きではない名前なんだけど」
 そう言って彼は頭を掻き、安田君の腕にかかる袋のうち半数を担ぐと、さて、どこに向かえばいい。と彼に笑いかけた。
「それはありがたい。会室まであと少しだから、よろしく頼むよ」
 安田君はそう言って小さく笑った。

   ―――――

 生徒会室はその名前の割には簡素な造りで、部室を変わらない教室の中に、鉄製の書類棚が置かれ、中央には長机が二つほど並べて置かれ、パイプ椅子が粗雑に三、四ほど置かれていた。
「思ったよりも狭いね」
「他の教室や部室をなんら変わらないよ。まあお茶とか自由にさせてもらえるのがありがたいけどね」
 そう言って彼は窓際のポッドを沸かし始める。私はパイプ椅子に腰かけると、初めての部屋に対する新鮮さを味わっていた。
「あれ、アコギ?」
 周囲をきょろきょろと忙しなく見回していた彼はそう言うと、目を輝かせながらそれを手に取る。木目の奇麗に浮き出たボディに、べっ甲のピックガードが取り付けられているデザインのものだった。
「ああ、よく触ってるんだ。ここだと人がいない時は一人でのんびり弾いてられるしね」
「へぇ、軽音部には入らないの?」
 蜜柑は簡単にチューニングを合わせながら、彼にそう問いかける。六弦はE、五弦はA 、四弦はD……と、その慣れた手つきを見る限り、彼にはある程度正確な音がインプットされているようだ。まあ、あれだけ歌もギターも安定している実力者なのだから、当り前か。
「そういう君も入ってはないんだろう?」
「まあ、そうなるよな」
 二人は渋い顔を浮かべながら目を合わせ、それから肩をすくめる。軽音部に入らない理由がどうやらこの二人は共通しているようだ。何か入りにくいきっかけでもあるのだろうか。
「園田君はどんなのを弾くんだい?」
 安田君の問いに、園田はギターの音色で応える。アコースティックギター特有の温かみと、程よいリヴァーヴ感の滲む音が部屋に響いた。
「なんでも。何かリクエストしてよ」
 安田君は沸いたお湯を注いだカップにティーパックを落とし込み、長机に人数分を置いた。透明色の液体の上を、鮮やかな紅が泳ぎ回る。この底の深いプールを彼が泳ぎ終えたときが待ち遠しい。
「そうだな、オアシスは?」
「いいね、曲は?」
「live forever」
 安田君のリクエストに、蜜柑は強く頷くと目を閉じた。彼は今、脳内できっとこれから演奏する曲を咀嚼している。そうやって呑みこむことで、彼は彼なりの歌として、ギターとして、その音を掻きならす。
 知り合ってまだ少しだけれど、なんとなくそれだけは理解し始めていた。彼の演奏と、実際の原曲は違う。それは本人であるか、ということではなく、彼なりにその音の世界に対する解釈を表現しようとしているのだ。
「maybe….」
彼の中で、その曲に対する想いがまとまったようだ。彼は静かに、落ち着いた様子で弦をストロークしていく。まるでギターを愛でるかのように、だ。

――多分、本当は知りたくないのかもしれない。

 彼の済んだ高い声質とよく合う曲だと思った。彼はただ眼をじっと固く閉じ、ひたすらに詩を音にして吐き出し続ける。私はその姿をじっと見つめているうちに、ふと安田君のことを考えてしまう。

――でも今は泣いている時じゃない。

 彼は何故この曲を、今この場で選んだのだろうか。
 蜜柑が歌っている筈なのに、蜜柑が必死に感情を込めている筈なのに、何故だか私は横に座る彼の方が、蜜柑以上にこの曲に対して感情が込められているような、そんな気がしてならなかった。
 歌うことに感情が入るように、選ぶという行為にもその人物の感情は入りこむ。

――生き続けるんだ、永遠に……。

  ―――――

 安田君は蜜柑の歌声を気に入ったらしく、しばらく蜜柑と音楽について会話を交わす(私にはとてもではないが入ることのできない世界であった)と、非常に嬉しそうに笑ってくれた。それまでが少し気持ちが落ち込んでいる様子がしていたので、彼のあの表情を見れてとても安心できた。
「それじゃあ安田君、また明日」
「君とは是非また話がしたいよ」
 是非、と蜜柑は笑って言った。そんな二人の姿を見ながら、好きな音楽について語る二人の姿をとてもうらやましく思っていた。淹れた紅茶だってすっかり濃くてぬるくなるまで二人とも口をつけない、ギターを互いに手にしては嬉しそうにお気に入りのフレーズを弾き語る。終いには蜜柑の持ってきていたエレキを取り出して二人でセッションを始める始末だ。
 洋楽邦楽問わず次から次へと音を掻き鳴らしていく二人は、とても輝いていた。
 私にはない、とても繊細で、純粋な輝きだった。
 もしあの輪の中に入ることができていたなら、私も一緒に笑えたのだろうか。微笑んでいるだけじゃなくて、本当に心の底から笑う事が。
 もっと練習をしたいと、強く思った。
「さっきはごめんね」
「え、なんで?」
「安藤さんをほっといちゃったし、折角のスタジオももう三十分以上遅刻確定しちゃってるし」
 彼はそう言って苦笑いと共にこちらを見た。私は首を強く振る。そして、二歩、三歩彼に詰め寄ると、じっと彼の顔を見つめ、そして口を開く。
「ねえ、もっと私に音楽を教えて。私も、あの中に入りたい」
 本心から願ったことを、そのまま口にした。蜜柑はしばらく目を見開いていた。驚く、というよりはそんなことか、といった呆れ顔のようにも感じられた。
「お安い御用だよ」
 そう言って彼は笑った。

   ―――――

 スタジオ「ライラ」に着いた頃にはすっかり辺りは陰が広がくなり、静寂がひょっこりと顔を出してそこらじゅうを闊歩していた。
 私は二度目のスタジオに胸を高鳴らせ、扉をぎゅっと強く握ると、それから思い切り押し込んで中に飛び込んだ。
「こんにちは!」
 その一言で、ロビー中の人間がこちらに視線を向けてきた。ああ、そういうところではないのかと、大声をひどく後悔し、熱くなる顔を俯かせた。後ろでは突然の出来事がツボに入ったのか、蜜柑がとても楽しそうに笑い声をあげている。
「いらっしゃい、なっちゃん、だっけかな?」
 唯一温かな反応を見せてくれたおじさんを見てなんだか更に恥ずかしい気持ちになる。
「あれ、貴方、安藤奈津?」
 そんな時、ふとかかった声に私は振り向いた。
 あの時のショートヘアーの女性が、驚きに満ちた表情を浮かべ、人差し指をこちらに示したまま固まっていた。
「あ、はい……安藤奈津です」
「驚いた、貴方音楽やるのね」
 彼女の言葉の端々に、どこか棘のようなものを感じた。やっていて何が悪いと、少し強気に出てみたいと思いもしたが、ぐっとこらえることにした。
「おまけに園田君も。何このメンツ?」
 ああ、と蜜柑は少し面倒くさそうに彼女と私を見た後、一度深くため息を吐き、再び私に視線を戻した。
「彼女は、軽音部に所属している子で、斉藤宙って子なんだ。パートはドラムで、比較的人口の少ないパートだから非常に重宝されてる」
「どうも……」
 すっかり彼女の空気に気押されながらも、なんとか口から言葉を絞り出した。
「園田君はもう部に戻ってこないの? ちょっと頭下げればすぐ戻れるよ」
 頭を下げれば、という言葉に私は思わず反応してしまう。さきほどの安田君との会話での反応もそうだが、軽音学部に一体なにがあるというのだろうか。確かに彼ほどの人材が帰宅部であることもおかしいとはどこかで思っていた。
「戻らない。元々合わなかった。それだけさ」
 彼ははきはきとそう吐き出して、それから少し笑った。少しも後悔はない。そんな表情だった。
「残念、貴方の演奏意外と好きだったのに」
「部活動以外で呼んでくれるならいつでもセッションには付き合うよ」
「そう、ありがたいわ」
 じゃあ練習だから、と斉藤さんはスティックケースを手にすると、先日と同じ奥の部屋へと歩いていく。
 そこで、ふと足を止めたかと思うと、彼女は振り返って私をじっと見つめ、それから早足に私の元へと歩み寄ると、顔を近づける。
「貴方、楽器始めたばかり?」
「え、あ、はい……」
「園田君、この子どんな具合なの? スタジオ連れてきたってことは合わせられる曲はあるのよね」
 一体、これから何が始まると言うのだろう。そんな私の横でああ、と蜜柑は腕を組むと暫く考え込む。
「ループ&ループに、生活に、あとは今日やるつもりで練習してもらってたのが、Can’t stop……」
 ふむ、と彼女は少し顎に手をあてた後、よし、と笑ってこちらを見た。
「レッチリならいける。一緒に合わせましょ」
 そう言うと私の腕を取り、彼女は奥の部屋へと連れて行く。後方を見れば呆け顔の蜜柑がいるし、私は私で現状をよく理解しきれていないし。

 一体、何が始まろうというのだろうか。
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