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ビョウソウ/ピヨヒコ

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 祖父が死んでからの数日間を私はよく覚えています。ちょうど今日みたいに穏やかな春の日、祖父は老衰で他界しました。歳は確か八十を超えていたと思います。
 幼い私は老衰を理解していませんでした。人が死ぬということは、病気であったりあるいは事故であったり、何かに奪い去られるものだと信じていました。寿命という概念自体が希薄だったのです。祖父が亡くなった当時、私は七歳だったと覚えていますが、そのくらいの子どもにはさして珍しくない思い違いではないでしょうか。
 ですから、いわゆる長寿としての大往生に対する感慨や尊敬なんて微塵もありませんでした。けれど周りの大人は違ったのです。八十を超え、大した病気をするでもなく、投げたボールがやがて止まるような示し合わせの内に死んだ祖父を、彼らはさして涙も流さずに受け入れたのです。もちろん今となってはその気持もわかります。天寿を全うして逝った人間は、しばしば笑顔をもって送られるのですから。ただ、そのような大人達の対応に少なからず不信感を覚えたのも事実でした。
 私といったら祖父が亡くなったことがただ悲しくて泣くばかりでした。それまで弱りながらも動いていた祖父が、今度はまったく動かなくなり置物のようになったのです。祖父の娘である母はあちらこちらと動きまわり私の傍には居ませんでした。寂しくなった私は、祖母の姿を探して祖父の部屋へと向かいました。祖母は祖父の遺体の傍らでじっとしていました。
「ばあちゃん、じいちゃん死んだの?」
 と、私は問いました。ちがうよ、と言って欲しかったのでしょう。けれど祖母は静かにこう答えました。
「そうだよ」
 私はその言葉もさることながら、祖母すら泣いていないのを見つけて絶句しました。祖父と祖母は大変仲がよかったのです。祖父が臥せるまで二人は毎日のように散歩に出かけていたし、今際の世話も全て祖母がしていました。私はそんな祖母……おばあちゃんを優しさの塊だと思っていたのです。しかし、その祖母が泣いていない。悲しくないのだろうか、寂しくないのだろうか、どうして泣かないのだろうか、そんな事を一度に考えていたような気がします。
「どうしてみんな泣かないの?」
 と私が聞くと、祖母は
「これからが大変なの」
 とだけ答えました。これから、と言われても私には何のことだかさっぱりわからなかったのですが、一般的にそれは葬儀だったり届出だったりするのでしょう。もちろん、その一般に我が神林家も含まれていたのは確かですが、私たちは葬儀に関して少しだけ違いました。

 ふと私たちの下へ母が来ました。今思えばその時の無表情は敢えてのものだったのでしょう。母はしばらく言葉を選ぶように視線を泳がせ、やっと聞き取れるくらいの小声でいいました。
「ねえ、父さんって、ビョウソウよね」
 祖母はすぐに「ええ」とだけ答えました。その瞬間の空気がどれだけ張り詰めていたことか。幼い私でさえ感じ取るほどの緊張。そして母の躊躇い。私はまた涙目になって二人を交互に見たのです。
「それじゃ、本家へは私が」
 と母が言うと、祖母は
「いや、ミズキに行かせる」
 と私を見ました。寂しそうな、けれどまっすぐな瞳でした。
「そんな、それって、ミズキに立ち会わせるってこと?」
「そうだよ。本家には女の子どもが居ないから、どっちみちミズキが継ぐことになるんだ。身内の時に見ておくほうが力が強く出るのはお前もよく聞いているだろう」
 母は声を荒げて言いました。
「あんまりよ! それだったら私が!」
「何を言ってるんだい。お前はもう歳だし、そもそも令子さんがいらっしゃるんだから」
「それにしたって、ミズキはまだ小さいのに、そんなの酷すぎる!」
 母は今にも祖母へ掴みかかりそうになっていました。私は、目の前の大人二人が何を争っているのか知る由もなく、ただ怒気を隠さない母に怯えるばかりでした。いくらかの問答の末、祖母が強い口調でいいました。
「黙りなさい。村の習わしと私の夫の意向だ。小娘が口をだすんじゃない」
 母は顔を真っ赤にして祖母を睨み、何事かを諦めたように顔を歪め、私を見つめてただ一言「ごめんね」と言いました。それから静かに部屋を出て、翌朝になるまで私と母は顔を合わせませんでした。
「ミズキ、お願いがあるの」
 祖母は出し抜けに言いました。
「本家の令子さんの所へ行って、おじいちゃんが死んだことを伝えて。それから、あちらも承知していると思うけど、おじいちゃんはビョウソウにするとも伝えてちょうだい」
 本家の令子さんとは、当時四十歳を迎えていた女性です。ですから今はもう五十歳をとうに過ぎているでしょう。
 私の家は分家ですから、盆や正月あるいは祭事の毎に本家へ挨拶に向かうのですが、私はそこにいる令子さんが苦手でした。身なりは小奇麗で物腰も穏やかなのに、どこか病的な眼差しを持った人で、本家に出向いた私を見つけては品定めするかのように、じとつく視線で舐めまわしてくるのです。それと、これは思い過ごしなのかもしれませんが、令子さんは私をよく触ってきました。体を検めると言うと妙ですが、しかしその気配はありました。そして、私の体をまさぐった後で決まって「立派になるわ」と言うのです。
 そのようなこともあったので、本家の令子さんと聞いた私は嫌がりました。
「本家いくの? 令子さんとお話するの怖い」
「こらミズキ、滅多なことを言うんじゃありません。令子さんは、おじいちゃんを天国へ連れていってくれる優しい人なんだから」
 それでもぐずった私に、祖母は
「おじいちゃんのためだよ」
 とずるい言葉を遣いました。そうと聞いては私もごねてはいられなくなり、不承不承に頷くを得ません。令子さんと会うのは怖かったけれど、それよりも大好きなおじいちゃんのために頑張らなければいけないと思ったのです。
 私は本家へ行くことを了解しました。祖母は私の頭を撫でて、偉いね偉いねと何度も繰り返しました。私はそれだけで随分と気持ちが軽くなりました。
 祖母は、祖父の遺体から髪の毛を数本抜くと懐紙に包んで私に持たせました。
「これを令子さんに渡して」
「これ何? なんで髪の毛持っていくの?」
 祖母は黙ります。私はまた不安になります。
「ミズキ、頑張りな」
 そして私は半ば追い出されるように使いへ出されたのです。

 私の村は全員が神林姓です。山間に集落を作り、地主だった神林家から分家を多数出して今に至ります。村の外から来る者、例えば私の父などがそうですが、そういった者がその人の姓を名乗ることはまずありません。必ず神林姓になります。また、村の外の人間を婿入りさせるにしても、古くから付き合いのある隣村の人間以外は決して許されませんでした。元々、私の村は隣村から分裂したのだと聞いていますが、詳しいことはよく知りません。ですが、私の村独自の風習を鑑みれば、もしかしたら分裂と言うよりは追放が近かったのかとも思います。
 このような村において本家の存在は絶対でした。差別意識こそ無いものの、本家に対してはどの村民も必ず従順になるのです。それにはやはり、ビョウソウを行えるのが本家の人間に限るという規則が大きく関わっていました。本家の女が代々ビョウソウを執り行って来たのです。もっとも、令子さんのお子さんはどれも男の子ばかりだったのですが。そのせいでビョウソウの役割が私の所へ巡ってきたのはまた後ほどお話しします。

 さて、本家へ出向いた私ですが、門の所ではすでに令子さんが待ち構えていました。
「あら、ミズキちゃんが来たのね、偉いわねえ」
「あの、おじいちゃんが死んじゃって、えっと、死んじゃったので、ビョウソウ? にするっておばあちゃんが言ってくださいって言ってました」
 緊張している私を見て、令子さんは柔和な微笑を浮かべました。けれど私はその瞳が淀んでいるのを見逃しませんでした。やはり、怖い。私は祖父の毛髪を包んだ懐紙を令子さんに渡すと、足早に本家を去ろうとしました。
「お待ちなさいな」
 けれどそれは許されませんでした。
「少し上がって行きなさい。お菓子あるわよ」

 チョコレート、ケーキ、ふ菓子、飴玉、スナック菓子、お団子、オレンジジュース、ココア……客間へ通された私の目の前に次々にお菓子が運ばれてきました。それはもう一人では食べきれない量でした。令子さんは、好きなのを好きなだけ食べて良いと言って、私はそれになんの疑問も持たずにお菓子を食べました。今でも、あの時食べたふ菓子の黒糖がよく香ったのを思い出します。
「ふ菓子好き?」
「はい、ふ菓子好きです」
「チョコは?」
「チョコも好きです美味しいから」
「オレンジジュース飲んでね?」
「はいオレンジジュース飲みます」
 次から次へとお菓子が私のお腹へ消えました。どうしてこんなに美味しい物を食べさせてくれるのだろう。お腹が膨れてきた頃になってやっと私は疑問に思いました。令子さんを見ても例の淀んだ笑顔で私を見つめるだけでした。私は急に恥ずかしく、そして恐ろしくなり、服についたお菓子の食べかすを払おうとしました。
「食べかす払っちゃだめよ」
 令子さんが張りのある声で言いました。私の肩は驚きに跳ねて動作が完全に止まりました。
「ダメよ、せっかくいっぱいこぼしたんだから」
「え、でも、汚」
「いいからそのままにしなさい」
 令子さんは言い放つと薄ら笑いを浮かべてぶつぶつ話しを始めました。
「懐かしいわねえ、私も初めてビョウソウを見たのはミズキちゃんと同じくらいの時だった。私の弟が四つで死んでね、悲しかったなぁ。毎日一緒に遊んだのよ弟とはそれはもうよく遊んだのよ本当よ。でもちょっとした拍子にあっさり死んでしまって、私には弟が死んだことなんて理解できなかったけど、大好きな大好きな大好きな弟がもう二度と動かないだなんて信じられなかった。ずっと一緒にいたいと思った。そうやって私はお母さんに泣きついたの。えーん……えーん……弟とずっと一緒にいたいよう……」
 目はうつろ、言葉はおぼろ、令子さんは体をゆっくり揺らしながら話しを続けました。
「そしたらお母さん言うのよ、令子や、この村にはビョウソウという伝統があり、それをすれば弟の魂は彼方と此方を自在に逝き生(き)できる。この世にいるのにいないモノ、古くから人間と共に暮らしてきたモノ、その力を借りれば永久となる……。
 いろは唄ご存知よね、色は匂えと散りぬるを……我か世たれそ常ならむ……有為の奥山けふ越えて……浅き夢見し酔ひもせす……この村は古くから有為の奥山を自在に往来しているの」
 令子さんの言葉は私にとってまるで理解出来ないものでした。それでも令子さんは続けます。思えばそれは、私が触れた最初の狂気でした。
「人が死んだらそれきりだなんて間違っている。人を有為と無為どちらかに置こうだなんて間違っている。この村はね、死を極端に恐れた人間の集まりなのよ」
 令子さんは私を見てけらけらと笑いました。
「ミズキちゃん、おじいちゃんとずっと一緒にいたい?」
 私は気圧されて頷きました。
「よろしい。それではついてらっしゃい」

 本家の庭はとてつもなく広く、その一隅に竹林があります。竹林の中には古い蔵が潜んでおり、私はその前へと案内されました。
「ミズキちゃん、怪我とかしてないわよね?」
「え? してないです」
「そう」
 令子さんは閂を外し扉を開きました。
「臭い!」
 そう、蔵の中はとてつもなく臭かったのです。尿糞便と腐臭、獣の匂いとでも言うのでしょうか、どこか油が腐りきったような臭いが蔵の奥から溢れてきたのです。私は顔をしかめて蔵を覗き込みました。光の届かないしじまに光る玉が無数に浮いているのが見えました。
「この子たちと一晩過ごしてちょうだい」
 令子さんは私の手を掴み、蔵の中へ入って行きました。肌にまとわりつく湿気、鼻を突く臭い、そして微かに聞こえて来たのは
「猫ちゃん?」
 猫の鳴き声でした。闇に浮かぶ光は猫の瞳だったのです。こちらの光を反射して、猫のつり上がった瞳がいくつも震えていました。威嚇なのでしょうか、鼻息を荒げる鳴き声も四方八方から聞こえてきます。
「この子達、もう随分と食べさせてないからそろそろ限界ね。ミズキちゃん、本当に怪我してないわよね? もししていたら大変なことになるわ」
 私は答えられません。怖くて怖くて逃げ出したい気持ちでした。けれど令子さんはしっかりと私の手を握っています。
「不安だわぁ……すこし調べさせてね」
 無抵抗な私を、令子さんは体の隅々まで見て触れて、執拗に見て触れて、念入りに見て触れて、それから私を抱きしめて言いました。
「本当に、立派になりそう」
 耳に当たる妙に熱い息がとても気持ち悪く、私は身を捩りました。
「さて、最初の練習よ。ミズキちゃん、この髪の毛を床に撒いて」
 令子さんは私に懐紙を渡しました。それは、祖父の毛髪でした。私はもう従うしかなく、懐紙を解いてそれを床に散らしました。すると、奥のほうで警戒していた猫たちが、髪の毛をめがけて飛び出してきたのです。
「うん、やっぱり限界ねこの子達。これなら全て上手く行く」
 髪の毛に群がった猫たちはそのどれもが極端に痩せこけていました。肋骨が浮き上がり、尻尾は垂れ下がり、牙をむき出し殺気立っていました。そして、猫たちは呻きながら祖父の髪の毛を食べ始めたのです。髪の毛を食べるほどの飢えとはどのようなものなのでしょう。私は今でも上手く想像できません。
「ミズキちゃん、一晩ここにいて猫たちの声を聞きなさい。それじゃ、朝になったら来るから」
「え? 令子さん」
 令子さんは手際よく扉を閉めて、私は閉じ込められました。扉をいくら押しても、閂を破る事などできるはずもありません。天井に一つだけ窓があり、そこから差し込む光はありましたが、もとより竹林の中の蔵ですので、辺りはとても暗くなりました。
 猫たちはまだ髪の毛に群がっているようでした。私は状況を飲み込めず、大声で令子さんの名を呼びました。けれど外は静かなままです。私の大声に、猫たちが機嫌悪そうに一声鳴きました。

 烏が無く頃には、もう蔵の中は真っ暗でした。唯一の窓から外を見上げると、竹の葉の間に薄明るい空が見えましたが、その光は殆ど蔵へは届きません。猫たちは髪の毛をたいらげ、闖入者である私を光る目で遠巻きに警戒していました。私は扉に背中をくっつけてうずくまり、泣きながら令子さんが来るのを待つことにしました。しかし、令子さんの言った通り、私は蔵の中で夜を明かす事になるのです。
 深夜でしょうか、あるいは宵の口だったのかもしれません。私は泣きつかれて眠ってしまっていたようです。眠気を払い目を開いても何も見えず、充満する腐臭だけが目立ちました。
 ふと、私の腕になにかざらついた感触が現れました。ざりざり、ざりざり、服の上が何かで撫でられています。猫でした。猫が、私の服を舐めていたのです。妙な話ですが、こんな時なのに私は猫に舐められて少しだけ嬉しくなりました。まるで「友だちになろうよ、私たちは怖くないんだよ」とでも言っているように感ぜられたのです。ああ、そうだよね、猫ちゃんは可愛いもの、私も怖い人じゃないよ、ほらおいで、お友達になろうよ。
 しかしそれは思い違いでした。
 最初は一匹だった猫が、また一匹、また一匹と増えてきたのです。猫たちは揃って私の服を舐めます。ざりざり、ざりざり、猫のざらついた舌が私の上を這って行きます。やがて私は猫に埋もれました。蔵の中に居た猫が全て私の所へ来ていたのだと思います。
 その内、猫同士が喧嘩を始めました。私を舐めていた猫の所に別の猫が割り込もうとすると、赤子が泣くような声で威嚇し、やがて取っ組み合いの喧嘩をはじめるのです。私はこの光景を見たことがありました。己の獲物を守ろうと、独占しようとする猫の習性。肉食動物の性。私は、猫たちにとって、食べ物として見られていたのです。
 喰われる!
 私は飛び起きました。このままでは猫に喰われてしまう。私は猫たちから逃れ扉にへばりつきました。
「やだ! 怖いよ! 出して!」
 叫べど叫べど応えはありません。振り向けば、微かな光を弾く猫たちの目が、私を取り囲み見上げていました。
「いやだっ! いやだあ!」
 今思えば、令子さんが私にありったけのお菓子を振舞ったのは、その食べかすを服につけさせたり、匂いを染みこませるためだったのかも知れません。いえ、あるいは私が飢えないためとか、このような行為に対する侘びだとかあるのかもしれませんが、どちらにせよ私は猫に喰われる恐怖に支配されました。
 その内、一匹が私に飛びかかって来ました。猫がそのような行動に出るなんて、それを愛玩動物としてしか知り得なかった私には驚愕でした。猫は紛れも無く獣です。その猫は私の脛にかじりつきました。幸い服のお陰で大した怪我にはなりませんでしたが、それを皮切りとして周囲の猫も私に襲いかかってきたのです。
 悪臭に満ちた暗闇の中、私は猫に喰われそうになりました。体のあちこちに爪や牙が襲いかかり、私は絶叫しながら蔵の中を逃げ惑います。蔵の中はがらんとしていたので何かに躓くこともなく、延々と猫たちに狩られる立場が続きました。逃げても逃げても、猫たちはいつの間にか私の脇にいる。飛びかかってくるまで気配は無く、闇そのものに嬲られている気にさえなりました。
 やがてもう全てを諦めようかとしたとき、ふと祖父の顔が頭に浮かんできました。優しかったおじいちゃん、格好良かったおじいちゃん、大好きなおじいちゃん。私は、おじいちゃんのためにお使いに来たんだ。こんな所で食べられてはダメだ。猫に食べられるなんて馬鹿げている。私は足を止め、闇雲に腕と足を振り回しました。そのうちの一つが猫に当たり、その子は遠くまで飛ばされたように思いました。すると、猫たちの攻撃は止まりました。それでも光る無数の目が私を向いていたので、私は暴れるのを止めませんでした。その内またひとつ、私の足が猫を蹴り飛ばしました。そうすると、猫たちは諦めたように私から遠のき、私は生きていることを実感したのです。

 翌朝まで私は一睡もできませんでした。いつ喰われるかわからない恐怖のため、刹那も気を抜くことができなかったのです。蔵に光が差し込む頃になって、ようやく令子さんが扉を開けてくれました。私は令子さんを許せなくて、眩しい外にいる彼女を睨みつけました。
「あら、良い顔になって……。怪我もしてるのね、でも生きてるのね、やっぱりあなた立派になるわよ」
 私は怒りたかったのですが、外の様子を見るとびっくりして黙ってしまいました。令子さんは白装束に身を包み、周りには本家の男の方が二名ほどいらっしゃいました。令子さんのお父さんとお兄さんで、お二人とも白装束でした。三人の後ろには軽トラックが止められていて、幌付きの荷台に柵が張られているのが見えました。
「それではこれよりビョウソウへ向かいます。ミズキちゃん、怖がらなくてもいいからね」
 令子さんが合図をすると、私は本家のお兄さんに担がれトラックの荷台へ載せられました。お兄さんは「頑張ってなミズキちゃん」と私の頭を撫でてくれました。次いで、本家のお父さんがキャットフードの袋を持って蔵へと入り、おびき出された猫たちを手早く捕まえて、私の載せられた荷台へ次々に放り込んできました。
「ミズキちゃん! 猫が逃げないようにしてくれや!」
 本家のお父さんに言われて、私はとにかく猫たちの前に立ちふさがりました。昨晩の猫への暴行もあってか、猫たちは私に怯え、一匹も逃げようとはしませんでした。
「おお、さっそく手懐けたかぁ! 立派だねえ!」
 お兄さんが私を褒めてくれました。私はちっとも嬉しくありませんでした。
 全ての猫がトラックに積まれると、柵に鍵がされ、お兄さんが私と一緒に荷台へ乗りました。
「それでは分家へ向かいます。これより男性は何事があっても口を開かないこと。よろしくお願いいたします」
 私は本家のお兄さんに「お家帰るの?」と聞きましたが、お兄さんは目を閉じて何も応えてはくれませんでした。

 走るトラックの中で猫を数えると二十一匹いました。光の下で見た猫たちは、やはり悲惨なほど痩せていました。柵越しに見る景色でトラックが私の家へ向かっているのがわかりました。間もなく、予想通りに私の家の前でトラックは止まり、令子さんが玄関へ消えました。
 ようやく帰れるんだ。令子さんが閉じ込めたんだから、私が怒られることはないな。そんな間抜けなことを考えていたと思います。令子さんが戻ると、トラックは我が家の庭へ進入しました。玄関前で切り返し、バックで進むと庭に見慣れない囲いがありました。
 囲いは四方を四メートルほどの白布で覆ったものでした。白布と地面は杭で強固に繋がれており、外からは中の様子が見えません。トラックが荷台を白布の寸前まで寄せると、どこからか母が出てきて白布を開きました。
 祖父の遺体が中央に仰臥していました。
 私はいよいよ混乱しました。おじいちゃんが庭で寝てるどうして庭でどうしてお母さんは何も言わないどうして……。トラックは白布の内側に進み、そこでエンジンが止まりました。本家の男性が柵を開き、私と猫を白布の中へ入れます。私の後ろから本家のお兄さんが出てきて、猫が逃げないように見はりました。猫たちはよろよろと四方へ散り、弱々しい鳴き声を上げていました。トラックが出ると、白布は再び地面と繋がれ、別の入り口から祖母が入って来ました。祖母を見ると、猫の見張りをしていたお兄さんは白布から出て行きました。
「おばあちゃん!」
 私は祖母の下へ駆け寄り抱きつきました。祖母は皺にまみれた手で私を撫でました。抱きついた祖母の服から、我が家の匂いがしてきて、私はつい泣いてしまうのです。
「怖かったようよう、おばあちゃん怖かったようよう」
 嗚咽する私に祖母は言葉をかけてはくれませんでした。祖母は、私の頭をひとしきり撫でた後、私の体を祖父の遺体へと向けました。白布の中、その中央に祖父はありました。死装束に包まれて、うすべりの上で目を閉じていました。
 しばらくしてから令子さんが現れ言いました。
「それではビョウソウを始めます。裂きは本家令子が、守りは外にて本家男衆が務めます。見届けは妻ツル、番外として孫ミズキが務めます。ビョウは雌二十一匹これに相違なし」
 令子さんは懐から白木拵えの短刀を抜きました。不穏。私は、頼むからやめてくれと叫びたくなりましたが、声など出ようはずもなく、祖父の喉元にそれは食い込んだのです。

 喉から下腹部へ一筋、臍を通るように横へ一筋、鳩尾を横へ一筋、両肩から両手首に一筋、足の付け根よりつま先へ、左右両方に一筋。祖父は死装束を脱がされ、数多の赤い線をひかれました。死体も捌けば血が流れるのです。令子さんは短刀を滑らせるようにして、祖父を裂いていきました。私はそれを見て失禁しました。
 令子さんは懐紙で短刀の血を拭き取ると、祖父を離れ背筋を伸ばしたまま静止しました。すると、血の匂いを嗅いだのでしょうか、散り散りになっていた猫たちが祖父の下へゆっくりと近寄っていったのです。
「あ、」
 やっと出た私の声。それは誰にも聞こえていなかったでしょう。祖母は私の肩に手を置き、念仏のような言葉を唱えていました。
 猫が祖父に近寄り、ざり、と舐めました。昨夜私を舐めた、あのざらついた舌先が、祖父の血を掬うのです。ほらまた一匹、また一匹、猫たちが群がり、祖父は舐められる。否、喰われるのです。
 猫が祖父を喰う。猫が祖父を喰らっている。にゃんにゃん、ごろごろ、可愛らしい声と喰われる祖父。祖父の腹部は猫に人気がありました。そこを猫たちは執拗に舐めとるのです。舐めて舐めて、飲んで飲んで、やがて強欲な一匹が祖父の腹から長い管を引きずりだした所で、私は失神しました。

「見なさい」
 私は令子さんに叩き起こされました。霞む視界に令子さんの淀んだ目が映りました。
「ビョウソウは将来ミズキちゃんがすることになるのよ。本家に女の子が生まれなかったから、次に大きなあなたの家に役が移るの。だからちゃんと見て、覚えなさい」
 私が首を振ると、令子さんの平手が頬に叩きこまれました。私は泣き叫んで祖母に駆け寄りましたが、祖母は目を閉じてひたすら念仏を唱えていたのです。何を言っても祖母は応えてくれません。逃げ出そうにも令子さんが私を掴んで離しません。
 私にはどうすることもできなかったのです。
 祖父はまだ喰われていました。もう腹部には何もなく、背骨一本で上半身と下半身が繋がっていました。猫はそれぞれが好みの場所に顔を埋めています。私は顔を伏せましたが、令子さんはそれすらも許さず、私の頭を食い荒らされる祖父に向けて動けなくしました。
「こうやって食べてもらえば体は猫の一部となる。猫はもともと神聖な生き物なの。あちらにもいてこちらにもいる。それを忘れてはいけない。愛する人はいずれ消えるけど、消えたまま納得するなんておかしい。私たちは抗うのよ、死に」
 やがて、祖父は骨だけになりました。猫により葬るので、これを猫葬と呼びます。

 ◇

 私どもの風習を信じようと信じまいと構いません。けれど次に猫ちゃんをご覧になったときはよく耳を澄まして下さいな。この世とあの夜を繋ぐ、霊にも似た存在だから、猫には足音が無いそうです。

 以上
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