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風呂場に落ちてきた天使

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 5月の、うきうきするような日差しが障子を透かしていた。気付いたら、朝だ。う~ん、中々あたたかくて気持ちがいい。生きててよかった、なんて言葉はここで使っておきたいものだ。
「ん、っと」
 僕は体を起こす。相変わらず散らかったままの部屋。テレビは流石に消えていた。今何時だろう。まぁ朝だろう。テレビや新聞のおかげで今が何年の何月くらいかはわかるが、詳細な日や時間はもう忘れてしまいそうだ。というか、忘れた。
 そんなもの、どうだっていい物差しだ、僕にとっては。
「あら、起きたの。お風呂にでも入ったら?」
 と母の声。僕の世界である六畳の和室には、最近あまり入ってこない。ただ、校内放送のように声がドアのあたりから飛んでくるだけだ。別に、それで何か問題もないから、それでいい。
「……そうだね、風呂、入るよ」
 僕は大体家ではジャージ姿だ。高校に入学して本来の役目を果たすはずだったそれは、今じゃ僕の体の一部みたいなものになってしまった。もちろん、ちゃんと風呂にも入るし洗濯もするから、いや~な汗のにおいが香ったりはしない。それに、まだ僕だって高校二年生だ。親父のような中年臭さはまだしないだろう。

 おもむろに青いジャージを脱ぎ、がらがら、と引き戸を開けて僕は風呂場に足を踏み入れた。友達がトトロにこんな場面あった、とかなんとか人の風呂に勝手に足を踏み入れてつぶやいていた、そんな雰囲気の場所だ。そいつは数日後、本当にトトロのDVDを持ってきた。もちろん、見ていない。面倒くさい。

「…………」

 風呂桶の中のお湯に、軽く手を入れてみる。なるほど、悪くない湯加減。僕に声をかけきただけあって、母もしっかりと準備はしていたようだ。

「ふぅーっ、ふっ、ふっ」

 軽く体を洗い流してから、足先からゆっくりと湯の中につかる。あぁ、布団の中で凝り固まっていた体が解凍されていくようだ。気持ちがいい。

 僕は完全に脱力していた。全身の筋肉が弛緩する、とはこのことを言うのだろう。あぁ、ずっとこうしていたい。このまま水死体のようにぷかぷかと浮いていたい。どうせ、僕はこのまま家にいればいい。周りの人間は僕に勝手に集まってくるんだ、だから、もう――――

「勝手にしやがれ」

 と僕がアゴを上げてうめいた時だった。

 視線の先に、瞳があった。あぁ、その間には窓のサッシと窓があって、つまりは窓越しでその瞳とはち合わせたわけなんだけど。

 がらがら、と窓が開いた。

「ハ、ハロー」

 何も考えてなさそうな、間の抜けた女の子の声が聞こえた。声の主は――――日本人では無さそうだ。ちょっと明るい赤毛の、くりくりとした瞳の異邦人が、ちょっと微笑んでいた。



 十秒くらい、お互い見つめ合った。僕はぷかぷか浮いていて、彼女は微笑んでいる。わけのわからない十秒間。先に沈黙を破ったのは僕の声だった。
「なんだい、君」
「あっ、えっ?」
 途端、慌て始める女の子。彼女は一体どういう目的で、どういういきさつで僕の家の風呂場に顔をのぞかせたのだろう。きっとそこに至るまでには色々ストーリーがあったに違いない、けれど、今の僕にはそんなことはどうでもよかった。
「君、名前は」
「あっ、はい~」
 案外こういう状況になっても、人間とは冷静にいられるものなのだろうか。まぁ、恐らく、僕のようにどんな風に人と関わっても安全だと、完全に舐めきっているから故にこんなことを口走っているのかもしれないが。
「あたし、リリーっていいます」
「日本語、うまいね」
 素直にそう思った。
「えへへ」
 笑うリリー。声だけが笑っているような笑い方だ。
「あなたと同じです。よく言われます」
「まぁそりゃ、僕は日本人だからね。君が今喋ったのと同じ、日本語を喋るよ」
 僕は至極当たり前のことだと言わんばかりに、ふっ、と笑った。
「で、なんだい。日本語が上手なリリーさん。何か僕に用でしょうか」
「……」
 リリーの返事は無い。下を向いて、少し不満そうに頬をふくらませている。なんだろう、何かしゃくに触ることでも言ってしまったのだろうか。

 僕は、久しぶりに感じた。コミュニケーションの不一致を。

「あの、違うんです」
「違うようだね。そんな顔してるってことは」
「はい、違います。私が日本語を喋れるっていうのは、あなたと、同じだって、だから『同じ』って言ったんです」

 僕は首を傾げた。どういうことだ。リリーは何をもって僕と同じだと言っているのだろう。皆目見当がつかない。

「あの、あなた、名前はなんていいますか?」
「僕? 菅原孔太だけど」
 僕は、久しくフルで呼ばれたことが無い自分の名前を口にした。
「あぁ、やっぱり……間違いないですね」
 リリーは顔を窓から一旦引っ込めると、ゴソゴソと何かしている。
「日本の、この都市の、この町の、スガワラ……」
 一つ一つ、確認するようにつぶやいて。
「ええっと、あの! スガワラさん!」
 再び、ぴょんと跳ねて窓に顔を出して。
「あっ、きゃぁ!」
 小さく叫び声を上げて、再びリリーは消えた。
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