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オープン!

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 魔界に太陽は無いが、朝はある。魔王城の遥か向こう側から、赤い光がじんわりと差し込んできて、全体的に明るくなってくるのを朝と呼び、昼行性の魔物達が活動を始める。地上で迎える朝のような爽やかさはあまり無いが、神秘的な光景ではあるので、初めて魔界でそれを見た時俺は感動を覚えた。
 朦朧とする意識で、俺はその赤い光を眺める。年中無休のコンビニ経営者にとって、体調管理は重要な仕事の1つであり、俺はそれを怠った。後悔してもしきれない。報いはいくらでも受けよう。
 だが今日1日だけ、1日だけは無理をさせてくれ。
「春日さん。きつい言い方かもしれませんが、1日くらいあなたがいなくてもどうという事はありません。本部にも事情は伝えておきますし、私が春日さんの分も頑張りますから、とっとと病院行った後、黙って家で寝ていてください」
 古浪さんの口調は非常に冷たかったが、反面優しさに溢れていて、熱のせいなどではなく俺も涙腺が熱くなった。ぜぜえと息を漏らしながら、俺は制服の袖に腕を通す。
「オープン初日に、オーナーが店にいないなんて、そんな馬鹿な話がありますか。今日は……なん……としてで……も……」
 ぐらりと地面が揺れたかと思うと、俺の頭はひっくり返って床に落ちていた。気づけば首も肩もそれに倣って、逆ブリッジのような体勢になっている。
「……春日さん。逆に迷惑です。そんな調子ではいても邪魔になるだけですし、本当に心配はいりません。皆もちゃんと来てくれていますし」
 バックルームには、既に魔物のクルーも人間のクルーも集まってくれていた。初日なので、4人と4匹。皆それぞれ緊張していて、きっと俺の体調どころではないのだろうが、目の前でこんな物を見せられては気を遣わざるを得ない。それくらいの空気は読めるので、ますます申し訳ない気持ちになる。
「何より、お客様に風邪をうつしてしまうのが一番まずいです。そんな状態では、売り場には出せません」
 痛恨の正論が入り、俺はスライムのようになった体をどうにか引きずり上げ、椅子に座る。
「情けない……情けないです……俺は」
 危うく泣きそうになる。クルーからすれば、さあいざ働こうという初日からオーナーの涙を見せられたらたまった物ではないだろう。分かっているから堪えるが、鼻水は既にフライング気味に溢れ出している。
「……分かりました。バックルームにはいてもらって構わないですから、防犯カメラで店内の様子だけ見ていてください。その代わり、売り場には絶対に出てこないでくださいね。挨拶も、私が済ませますから」
 俺は無言で、というより何も口からは出せずに、古浪さんの妥協案に仕方なく頷く。
「あのぉ……」
 そんな時、後ろの方から名乗り出た1人の男がいた。俺は目線の焦点を合わせる。1人じゃない1匹だ。スライムのスベス君を食べた例のリストラ悪魔、名前は確か、バルジといったか。
「余計なお世話かもしれませんが、私から1つ提案がありまして……」
 俺は疑問符を浮かべるが、尋ねる元気さえない。
「もしよろしければ、その風邪、治してさしあげましょうか?」


 古今東西、悪魔からの提案にはロクな物がないし、それで幸せになった者もそう滅多にいない。
 しかし背に腹は変えられない。開店まであと10分。悪魔との契約でもしなければ、俺が店に立つ事は出来ないだろう。
「条件は……何ですか?」
 二つ返事するほどには俺の頭は茹だっていない。一応、ここは確認しておく。
「まあ、魂ですね。もちろん全部という訳ではなく、風邪を治すくらいの事ですから、ほんのちょこっとですけど」
 悪魔は親指と人差し指で隙間を作り、にかっと老けた笑顔を見せた。
「魂を渡すと、具体的にどうなるんですか?」
「えっとまあ、寿命が減りますね」
 さも当然のように生死の問題が浮上してきた。
「具体的に、どのくらいですか?」
「んー……5年、といったところでしょうか」
 5年。
 寿命5年分。
 平均的に生きるとして、80歳で死ぬ所が75歳で死ぬ事になる。
 俺は悩む。
 いや、正直その程度の違いなら、くれてやってもいい気分ではある。ただ、1度こういった契約に手を染めると、癖になるというのがお決まりのパターンという奴で、いわゆる人間の性という物だ。例えば店の経営が傾いてきた時、大変な発注ミスをしでかしてしまった時、シフトに穴があいて急遽埋めなくてはならなくなった時、いちいち契約していたら流石に俺も長生きできない。それに、悪魔と契約して店を経営しているというのは、他のクルーや、地上で経営する他店のオーナーに示しがつかない事だとも思う。この最初の1回を断れないという事は、これから先も確実にあると思っていい。だから5年分といえど、魂を引き渡すわけにはいかない。
 それは分かっている。
 分かっているが、どうにもならない。
 俺はオーナーだ。この店のオーナーなのだ。
「あの、お願いし……」
 そこまで言いかけた時、俺の頭に衝撃が走り、視界はぐるんと回転して、気づくと俺は天井を見ていた。身体は床に転がっている。頬からはじんじんと、物理的な痛みが沸いてきた。とてつもない威力のビンタを喰らったという事を、そこで初めて認識する。
「目を覚ましてください春日さん!」
 荒げた声の持ち主が誰か、最初は俺も分からなかった。いつもクールなこの人が、こんな風に人を怒鳴るなんて、思いもしなかったし、信じられもしなかったのだ。俺は「ふぇ?」と間抜けな声を出して、頬を擦りながら古浪さんを見る。
「あなたの覚悟はそんな物ですか? これから先、私たちは長い長い戦いをしていかなくてはならないんです。今日1日無理をして、それでプライドを保って、一体どうしようって言うんですか? 戦いは日常の中にこそあります。それに、あなたには私がついています」
 しかし涙と鼻水と熱でぐしゃぐしゃになった俺の視界では、古浪さんの表情を見る事は出来なかった。


 開店の時間だ。外にはかなり長い列が出来ており、扉が開くと同時に、がやがやと魔物の波が店内になだれ込んできた。あっという間に店内は魔物達で埋まり、レジはそれぞれ常時2人体制で回り始める。古浪さんは常に店内を周り、質問に答えたり商品を案内したりしている。俺はそんな光景を、ひんやりとする机に頭を置きながら、カメラ越しにただ眺めているだけ。
「いやぁ盛況じゃないですか」
 と、今日ばかりはスーツを脱いで、ローソンの制服を着た支倉SVが、ほとんどゾンビと見分けのつかなくなった俺に声をかける。
「そういえば、昼頃に1回、社長が様子を見に来るらしいですよ」
 何の気なしに放たれた言葉は、俺の首筋をかすめ、大動脈から血液が噴射する。
「あ、まあでも春日さんは気にせずに、後ろで休んでいてくださいよ。僕とみつきちゃんで対応しま……すか……ら。あはは……はは……」
 支倉SVの言葉から勢いが落ちていったのは、俺が自分の顔をそちらに向けたからに他ならないが、果たして俺がどんな表情をしていたのかは俺自身ではよく分からない。が、その後そそくさとバックルームから出て行った事から判断するに、俺はとても人に見せた事もないような顔をしていたのだろう。
 情けなさと、悔しさと、恥ずかしさと、怒りと、焦りと、隠し味に店が繁盛している事に対する喜びが加わって、それを高熱でコトコト煮込んでいれば、徐々に生きているのが嫌になる。ああ、もう嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。子供みたいに駄々をこねても、何ともならない現実がそこにあった。
 ふっと意識を無くした次の瞬間、時間は昼の12時を過ぎていた。伏した机に出来た涎の水溜りを慌てて拭いて、いきなり形の崩れ始めた新品の制服を整えて、這いずるように店に出る。いくら何でも社長の前でこんな姿は見せられないし、姿を見せないというのはもっとありえない。俺は根性としか表現できない力で立ち上がり、バックルームのドアを開いて店に出る。その瞬間、
「あらまあ! あんたどうしたの!?」
 と、偶然目の前にいたお客様から声をかけられた。緑色の肌のオークで、豹柄の服を着ている。ぴっちぴちのスカートと、腕に下げた買い物袋からして主婦だろう。おばちゃんと呼んでしまってもクレームはこない程度にほがらかだ。
「あらら、こりゃひどい風邪だわ。ほら、そういう時はこれ舐めて」
 そう言って取り出したのは、黄金色に輝く小さな飴玉1つ。包み紙を外し、そのオークおばちゃんは俺の首根っこをむんずと掴み、強引に口に押し込んだ。この間、俺に一切の抵抗無し。もし仮に体調が万全だったとしてもタイマンなら確実に負けていただろうが、せめて遠慮くらいはしたはずだ。
「この飴ね、マンドラゴラエキスたっぷり入ってるから、風邪によく効くのよ。うちのバカ息子が倒れたときも、これ1日中舐めてすぐ治ったんだから、あ、そうそう、それからご近所の……」
 おばちゃん特有の長話が始まった、と認識したそこからまた記憶が無い。次に目覚めた時は夕方で、客入りもぼちぼち落ち着いてきた頃だった。俺は再びバックルームで目覚め、跳ねるように身体を起こす。
 嘘みたいな話だが、風邪が治っていたのだ。完治とまではいかないが、熱はひいたし、頭痛も去った。
 支倉SVに聞いてみると、魔界の食べ物、特に漢方や医薬品に近い物は、人間の身体に合う物と合わない物の差が激しいらしく、どうやら俺にとってのマンドラゴラエキス入りの飴は、悪魔との取引並の治療効果があったようだ。その後、俺は遅れた分を取り返すように深夜まで働き、ローソン魔界9丁目店の初日は、慌しいままに過ぎていった。
 あのオークおばちゃんが次に来店された際には、何かお礼をしなければ。と、心に誓う俺だった。
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