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第六話「バッドドリームス」

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 土埃に塗れながら、律花はキャップをかぶり直し、手元の赤いギターを見下ろす。チェリーレッドのギブソンSGは依然として艶やかで美しかった。
 今夜はとても月が綺麗だった。折角の月なのに今は何も見えないのが残念だな、と律花は微笑んでから、両手でギターのネックをしっかりと握り締めると目を閉じる。
 相手の起こした土埃で塗れて何も見えない。徹底して私の視界を奪いに来ている。恐らく律花が近接に特化していると知っているからの作戦だ。
 相手の五感を奪うのはいい戦法だ、と律花は自分の不器用さを比較対象にして相手を胸裏で褒めた。口には出さない。絶対に。
 モッシュピットは人の想いが生み出した空間であり、人の感情に強く左右される場所。気合、と言ったら聞こえは悪いが、やりかた次第でなんだって出来る。身体能力から感覚まで十二分な恩恵を受けているのならば、例えば徹底的に感覚を研ぎ澄ますことだって可能な筈だと、律花は思っていた。
 その日の体調、気分、思考、疲労度。今日はよく眠れたとか、とても良い天気だとか、何かいいことがあったとか。いい気分であればあるほど、ヘドロのように貯まったマイナスを吐き出して感情をプラスにしたいと思える。人間だれしも鬱屈とした気分でいたいとは思わないだろうから。
 今日は月が綺麗だ。沢山の人にも注目されている。相手は強く、気を抜けば決着がつく可能性だって少なくはない相手だ。そんな人物を打ち負かし、喝采を受け取ることが出来たなら、どんなに気分が良いことだろう。
――左、土煙の先から微かな砂利の音。
――ネックを握り直してる。衣擦れが聞こえる。
 研ぎ澄ませ、もっと研ぎ澄ませ。音と肌に感じる圧迫感。視界が封じられたからこそ、その他を研ぎ澄ませ。
 一つ、また一つと自分に必要の無い情報がシャットアウトされていく感覚。圧迫感や音の距離を元に今倒すべき相手の現在地を割り出し、脳内でマッピングしていく。
 滑り台、ベンチ、アスレチック、囲む群衆、その中を一人駆け回る存在。いつ、どこから来るかを彼はきっと伺っている。慎重な人だ。けれど、臆病だとは思わない。私はこれまで相手に自分の近接戦を見せすぎてしまっているから、仕方の無いことだ。
 仕方無いからこそ、私は次を目指す。ここで屈したら、きっと誰もが撹乱を以って私に向かってくるだろう。だから、そんな事を考える敵でもねじ伏せることが出来るとアピールしなくてはならない。
 その為に、私は鋭利になる必要がある。感覚を尖らせて、触れた全てを逆に傷つけるくらいに鋭利に。
 研ぎ澄ませ、研ぎ澄ませ。
 私の脳から全身へ、私の身体からモッシュピット全体へ。
 研ぎ澄ませ、研ぎ澄ませ……。

――土埃が揺らいだ。

 律花は目を見開いて、ギブソンを横薙ぎに振る。後方左斜め西南西の位置に向かって渾身の一振り。
 律花の動作から遅れて土埃の中からプレイヤーが現れ、そして眼前に迫るギブソンSGの凶暴な赤に思わず目を見開いた。傍から見れば見惚れいるようにも見えた。どこまで理解していたのか、いつ感付かれたのか、スローになる思考の中で膨大な問答が繰り返された末に、彼が辿り着いた言葉は、やられた、という一言だった。
 ドンピシャの一撃が彼の意識を吹き飛ばす。蓄積しきれないダメージが彼の手元のストラトキャスターを掻き消し、吹き飛んだ先のベンチに彼は激突し、くたり、と寄りかかるようにして倒れ込む。
 土埃が晴れていく。観衆達は姿を現すそのシルエットをじっと見つめている。
 掲げられた腕の先には、真っ赤なギブソンSG。キャップで顔を遮りながらも、ちらりと見える口許は確かな感触に歓びを隠しきれる満足気だった。
 誰もが思った。こんな月の綺麗な夜なのだから、仕方が無い、と。
 彼女は、ムーンマーガレット。
 夜にこそ輝く女性なのだから。

   ・

 その日、珍しく律花は授業中居眠りをした。普段素行から何まで完璧な彼女が睡眠不足に追われる事なんて無かっただけに、クラスメイトや教師から心配され、挙句には保健室のベッドに送り込まれてしまった。
 保健室の匂いは嫌いではないけれど、ベッドは嫌いだった。こんなところで休んでいていいわけがない。こうしている間にも自分がやるべきことは溜まっていくのだと思わされると、怖くて仕方が無かった。白部律花は完璧でなくてはいけない。その為にこなすべき事が幾つもあって、休めば休むほど綻びが生まれてしまう。
 そう思いながらも、睡魔は確実に自分の身体を蝕んでいく。この間のブッキングのダメージが残っているのかもしれない。相手に食らった攻撃、ではない。意識を研ぎ澄ませるという行為の反動に違いない。
 でも、勝てた。名のある相手だったし、観衆の数も相当数だった。レーベルにも入らなかったのは注目度を上げる点で大きかったし、その前の一対集団のブッキングも、勝ちは逃したが良い宣伝になった。
「私は、確実に強くなってる」
 額に載せた腕の影から蛍光灯の光を眺め、律花は呟く。あの世界の自分が活躍があるお陰で、私はこちらの世界でもうまくやれている。破綻寸前の張り詰めた糸も、あの世界があるお陰でどうにか渡り続けられている。
 からり、とドアがレールを滑る音がした。誰か来たらしい。ベッドを取り囲むような白いカーテンのせいで来訪者の姿は見られない。いや、誰にも見られていない分気が楽だからこのままが良かった。
「白部さん」
 弦子の声がカーテン越しに聞こえた。カーテンを手で避けて、その間をくぐるようにして入ってきた彼女に、律花は笑みを浮かべた。
「何かありました?」
「心配になって見に来ただけ」弦子はそう言ってはにかむと、ベッドの下にしまわれていた丸椅子を引っ張りだして座った。
「大分疲れてるみたいね」
「そんなこと無いわ、少し休んだらすぐに動けるから、気にしないで」
 そう言って起き上がろうとする律花の両肩を、弦子は抑える。
「目元の隈、隠せてる気になってるんだろうけど、近くで見たらすぐ分かる。それに声も覇気がない」
「でも」
「今少し休むのと、後で倒れて長く休む羽目になるのと、どっちがいい?」
 問われた選択肢に、律花は何も言えず、俯いてしまう。弦子はそんな彼女を再び寝かせると、起き上がって乱れたタオルケットをかけ直した。
「どんなに完璧でも、人はロボットじゃないし、ロボットだって疲労や摩耗はするんだから、人はそれ以上に早くガタが来る。完璧を求めるのもいいけと、その分しっかり身体を休めないといけないよ。無理をするのと、頑張るのは、全くの別物だから」
 律花はタオルケットを鼻先まで上げると、顔を背けてしまった。横で彼女のことを見ながら、弦子は困ったような表情を浮かべた後、小さく吐息を一つ、吐き出してから、ポケットに手を突っ込んでキャンディを一つ袋を取り去って口に含んだ。
 柑橘の甘い匂いが仄かに臭う室内のエタノールの匂いを遮った。檸檬の匂い。律花はその匂いを嗅ぎながら、再び睡魔がやってくるのを感じた。
 素直に寝ておけと言われて、身体は安堵しているみたいだ。でも心の方は、眠ることを酷く怖がっている。まるで足の付かない海の中漂っているような気分で、足掻くのをやめたら負けな気がしてしまう。
「なんで、弦子さんはその飴をいつも舐めているの?」
 背中越しの質問に弦子は暫くきょとんとして、それからキャンディを咥えたまま腕組みをすると、うむう、と唸った。
「昔から口が寂しくなると唇を舐めちゃう癖があってね。気が付くとガッサガサになっちゃってたの。それでお母さんが見かねていつもキャンディを持たせるようになってね。それからかな」
「小さな頃からある癖なんだ」
「白部さんはそういうの無い?」
 私は、どうだろう。律花は自分のこれまでを辿りながら考えてみる。仲の良かった頃の兄、あまり表に出てこない母、厳しい父。普段から家庭の空気はあまり良くなかったし、自分の事は自分で出来るようにならないといけなかったから、そういった癖みたいなものも良くない気がして全て矯正してしまっていた気がする。
 いつも何か心配な事があると、兄に相談していた。これはやっていいことかな、これは大丈夫かな、という具合に。そうやって聞くと、兄はにっこり笑って答えてくれて、心配事を解決してくれた。だから、そういう癖みたいなものが何もないのは、多分兄のお陰だと律花は思う。
 今ではもう、そんな兄の姿は見る影も無いのだが。
 気になる癖は全部直したと、家庭の状況を省く形で伝えると、弦子はそうか、と答え、でもなんだかそれはそれで寂しい気もすると言った。
 どうして、と律花は言った。少し強めの語調になってしまって、どうして自分がそんなにも強く言ってしまったのか戸惑った。一体何に怯えているのだろう。
「何一つ問題のない人間なんていないし、誰もがどうにかしてそれを克服したいって気持ちは持っているし、私だってたまにこの口を弄りたくなる癖が恥ずかしくてどうしようもないと思う時があるけどね、同時にこの癖があると、ああ、私だなって安心もするのよ」
「そんなこと、思ったことない。だって癖なんてあっても良い事ないじゃない」
「そうだろうね、でもむしろ私は、そういうものがあったほうが、ああこの人はこんな事が癖なんだ、こういうことが苦手なんだなって安心する。その方が温かみがある気がするの」
「……私には、無いってこと?」
 きっと、これは眠気のせいだ。まどろんでいるせいで、普段なら大したことない風に対処できる事にいちいち突っかかってしまうに違いない。だって、完璧であることを目指している私にそういうことを言うってことは、つまり、喧嘩を売っているようなものなのだから。
 きっと今私がモッシュピットにいたのなら、彼女を問答無用で殴っていると思う。一発一発、渾身の力を込めて、来週丸々七日間ぶっ倒れて動けなくなるくらい叩き伏せてやりたい。
 シーツをぎゅっと握り締めながらそんなことを考えていると、そんな律花の拳にそっと弦子の手が添えられる。暖かで、優しく包み込むような感触に、律花は自分がとぷん、ととうとう頭まで浸かってしまったように感じた。
「誰よりも温かいと思うよ。私とか、他の人以上に、貴方は、きっと温かい」
「どうして?」
「誰かの事ばかりで、自分のことを考えない子だからだよ。私は他人の為にそこまで出来ないもの。貴方はきっと完璧よ。でも、その中身はきっと、もっと純粋なものを求めているに違いないって、そう思うの」
 やめて、と言いたかった。なのに、瞼がゆっくりと閉じられて、身体が全くいうことを聞かなくなっていく。これ以上関わらないで、と言いたいのに、言いたいはずなのに、どうして私は今、泣きそうになっているのだろう、安堵しているのだろう。
 頭を撫でられている。多分私より少し体温の高い彼女の手に触れられる度に、体中の凝り固まった得体の知れない何かが解れていく気がした。眠くて眠くてたまらない。起きなくちゃいけないのに、なんで私はこんなにも眠いのだろう。
「少し眠るといいよ。時間になっても起きなかったら、私が起こしてあげるから」
 余計なお世話なのに、私は……。
 重たい身体を捻って律花は寝返りを打つと、おぼろげな視界の中に弦子の姿を入れて、手を伸ばす。彼女は伸ばされた手を受け取ると、優しく握り返してくれた。
「ゆっくりお休み、律花」
 その一言は聞こえていたのだろうか。目を閉じて静かな寝息を立てる律花の寝姿を眺めながら、弦子は穏やかな視線を彼女に向けた。いや、届いていなくても、届いていても、結局辿り着くところは同じだ。
 彼女の事を、支えてやりたいと思うのは、多分、一度自分が守りきれなかった事があるからだ。
 受け取った手をそっとタオルケットの中に戻してやると、弦子は携帯を取り出す。ディスプレイに映った名前をじっと見つめたまま、通話ボタンに親指をやって、弦子は暫く黙考する。
 その時、窓も扉も閉まっている筈なのに微かな風がカーテンを揺らした。
 カーテンの衣擦れがほんの少し起きて、弦子が目を向けた時にはもう風は止んでしまった。弦子はそれから再び眠る律花の横顔に目を向けた。
 穏やかで、年頃の少女みたいにあどけない顔をしている。きっと、普通なら他愛のない話をして、単純な恋をして、未来の自分に不安を抱きながらも、進む先を模索しているのだろう。誰かに支えてもらいながら、誰かを支えながら。
「きっとこれは相当なお節介なんだろうっていうのは分かってるんだ。でも、私はもう二度と、自分が好きになった子と会えなくなるのは嫌でね、その為には、私自身が嫌われてでも、こうするしか無いと思うの」
 これから自分のすることは、調沢弦子の行動は独り善がりで、自己満足であり、自分の贖罪の為の行為だ。きっと多くの人に迷惑をかけるに違いない。でも、こうして目の前で疲弊しきっている彼女を楽にするには、誰かが汚泥を被らなくてはいけないと思うのだ。
「きっと貴方なら乗り越えられると思うの……。だって貴方は、ムーンマーガレットだもの」
 囁いた言葉に彼女が苦しそうに小さく呻き、少し寝相を変えたが、変わらず熟睡しているようだった。しかめっ面のまま眠る律花を目の前にしながら、弦子は通話ボタンを押した。
 着信音を待つ間、でも、彼女が一人で乗り越えることが出来なかったらどうなるのだろう、と考える。いや、もしもの時は、きっとどうにかしてくれる人間が一人だけいる。私は起点を作るだけ、その後に行動を起こすのは、彼女と、きっと彼に違いない。
 だって彼は、律花の背中を追って突き進んでいるのだから。
「……もし心が折れても心配しないでね、律花」
 不意に、嘗ての記憶が蘇る。とても仲が良くて、でも彼女の内面に気付いてあげられず、姿を消してしまった友人の姿だ。
 ブルーのリッケンバッカーのベースを手にした彼女は、とても強かった。でもそれは、どこか哀しげで、そうなるしか道が無かった故の強さだった。
 強さを求め、名声を求め続けた結果、彼女は姿を消した。
 現実からも、弦子の元からも。
 スリーコールの後で、電話が繋がった。
『誰だ』
「……ねえ、ムーンマーガレットの正体、知りたくない?」
 通話相手は暫く無言になってから、やがて何が目的かと弦子に問いかけた。
 情報はナマモノであり、重要であればあるほど売る時高値で売れる。特にこの情報は何よりも高値で売れるものだ。弦子がこの秘密に気付いたのも、本当に偶然だったのだから。
 見返りをはじめに聞く辺り、それなりに期待が持てる相手だと思った。弦子は一呼吸入れてから、通話先の相手に、条件を口にした。
「二度とムーンマーガレットが立ち直れないようにすること。貴方なら簡単でしょう?」
 これは、最低で、最悪で、でも彼女が本来の姿を手にするには必要な事だと弦子は信じて疑わない。いつか悩んで失敗したあの後悔に比べたら、恨まれることも、敵意を向けられるかもしれないという恐怖も些細な事だ。
『詳細を聞こう』
 通話先の相手はそう答えると、場所と時間を告げる。弦子は直接顔を合わせることを了承すると、通話を切った。目の前の彼女は今も無防備に眠っている。弦子は彼女の頬にそっと手を添えると、つう、と人差し指で輪郭をなぞった。柔らかくて、陶器みたいに綺麗な白い肌だった。
「ごめんね、でも、きっと大丈夫だから。例え貴方が一人で折れてしまっても、二人でならきっと立ち直れる。それに、ピンチのヒロインを放っておくようなヒーローは絶対にいないわ。きっとすぐに駆け付けて、貴方の力になってくれるはずだから」

――ねえ、そうでしょう、鳴海クン。

 風がもう一度吹いた気がした。今度はさっきよりも少し強い風で、カーテンがばさり、ばさりと大きな音を立てて揺れた。


17, 16

  



 いつからか、張り出された試験結果にまるで興味が湧かなくなってしまった。律花にとってその位置は当たり前であり、父にとっても日常で、娘がいるべき位置にいつものように彼女がいるという、ただそれだけの事で、一つも新鮮味は無くなっていた。
 だが、この位置から少しでも落ちれば待っているのは落胆だ。そうして崩れていった兄の姿を律花は今でも覚えている。
 息子の為、娘の為、そう言って求められた完璧を熟しても、彼は一度も振り向くことが無かった。多分、兄が壊れてしまったのもきっとそれが原因なのだろう。彼は、父に認められ、褒められたかった。自慢の息子と思われたかったのだ。
 律花は、優しかった兄の変わり果て、小さくなっていく背中を見て育つ内に、堕ちれば堕ちる程に苦しむ兄の姿が辛くて堪らなくなった。父の事なんてどうでも良かった。ただ、兄が感じている負担を代わりに背負いたかったのだ。
 そうやって、彼女は完璧で、自慢の娘という絵画を描き始めた。口調と姿勢を正し、マナーを身に付け、学業に留まらず様々な知識に貪欲であり、より良い交友関係を築き上げ、誰もが敵わないと思わせる白部律花という存在は出来上がった。
 だが、彼女がその絵を描けば描くほど、兄は更に堕落していった。父はとっくに彼を見限っていたし、母も荒んでいく彼にどう接すればいいか分からず、自分の殻にこもってしまった。
 白部律花という存在が生まれても、何一つとしてこの世界は良い方に変わらなかった。恐らくそれが第一の彼女の精神負担であり、根本に位置するものだ。
 そして、白部律花が出来上がれば出来上がるほど、その絵画に色を付けている人間は果たして誰であるのかが分からなくなってしまった。同じ白部律花という名前を持っている筈なのに、双子のような、精神が二つに分裂してしまったような感覚を時々覚えるようになった。
 果たして私は私なのか、白部律花は一体誰の事を指しているのか。
 分からなくなって、とうとう限界を迎えた時、ムーンマーガレットという新たな名称を手に入れることで、律花はようやく自身の精神の安定を得るに至った。
 好戦的で本能のままのムーンマーガレット。
 才色兼備な学生の白部律花。
 二人に、それぞれ見合う名称が生まれた。
 だが、それが一過性のものでしか無いことを彼女は知らない。結局のところ、自分は一人でしかなく、二人分の負担を一手に引き受けられるほどのキャパシティは存在しない。
 二重の生活が限界に達した時、そして、そのどちらもが結局自分でしか無いことに気がついた時の事を、律花はまだ知らない。

   ・

 帰宅後、リビングの扉を開けると、父、惣治の姿がそこにあった。普段より早い帰宅だ。母は恐らく夕食の買い出しに行ったのだろう。リビング奥のキッチンで火を掛けた鍋がくつくつと揺れているのを見てすぐに分かった。
 父は律花の帰宅を新聞越しにちらりと見てから、再び紙面に目を戻し、側に置かれた珈琲を一口飲んだ。
 律花は少し躊躇ってから、ただいま帰りました、と帰宅の挨拶を告げ、リビングを後にしようとしたところで、彼から言葉をかけられた。
「最近、金曜日だけやけに遅いが、何をしているんだ」
 氷をひと欠片入れられたみたいに背筋がぴんとなって、全身が総毛立つのを感じた。
「そんなに、遅かったですか?」
「確かその曜日には特に何のスケジュールも入っていなかった筈だろう」
 誤魔化し誤魔化しきたつもりだったが、いつか来るとは思っていた内容だった。
「……クラスメイトに、転校してきた人がいるんです」
「ほう」父の返事に、律花は胸の奥がぎゅっと掴まれるような想いを抱いてしまう。
「それで、勉強も以前の学校と差異があるので、私ができるだけ追いつくことが出来るようにと教えているんです。クラスメイトですから、休憩に雑談も挟みますし、それで最近は少し、帰宅が遅くなっています」
 嘘だ。そんな事はしていない。白部律花はその時姿を偽って人を殴り倒している。そう伝えられたらどんなに簡単なことだろう。だが、モッシュピットを知らない人間にあの世界の事は口に出来ない。
 この言い訳は調沢弦子が転校してきた時点で考えていた内容だった。別に彼女が授業に追いつけていない事実も無ければ、私を頼った事だってない。だが、いずれ来るこの質問に対するスケープゴートは必ず必要だった。その時々で変えていた言い訳が、偶然に彼女になっただけなのだ。
 でもどうしてだろう、弦子をダシにして嘘をついた瞬間、父の威圧とはまた違った胸の痛みを感じた。律花は自分の胸に手を当てながら、けれどこの言い訳を通さなければ最悪の状況だって発生し得ないのだから、と自分に言い聞かせる。
 父は新聞を置いた。それまで隠れていた鋭い双眸がじっと律花を睨む。いや、睨んでいるわけではないのかもしれないが、少なくとも律花にはそう見えた。真実だけを掬い取ろうとする慈悲のない冷酷な、貫くような視線。
「まあ、れっきとした理由があるのなら責めはしない。何より夜遊びをするような娘でも無いだろう」
 父の言葉に、乗り切った、と律花は思った。
 だが、父の言葉はそこでは終わらなかった。
「奏汰のような堕落しきった生活にだけは浸るんじゃないぞ。アイツはもう駄目だが、お前は今日まで道を踏み外すこと無く来れているからな。お前がその在り方をしっかりと維持し、白部家の優秀な娘であることを忘れずにいるのなら、どこで何をしようが構わない」
 律花は下唇を噛み締め、拳を握りしめる。ヘラヘラと笑いながら私にちょっかいを出してくる、嫉妬に塗れた言葉を投げ掛けてくる兄、奏汰の姿が脳裏に思い浮かぶ。
 違う、と思った。兄はあんな人じゃなかった。それをあんな風にしてしまったのは、高圧的な父と、何もしない母と、どうにかしようとしてできなかった私ではないか。
 もっと父が兄の想いに気付いていたら。
 もっと母が父に強く出ることが出来ていたなら。
 もっと私が兄を支えられていたなら……。
 こんな風にはならなかったのではないだろうか。時々白部律花として過ごしながら思っていたことだ。
 兄が道を外したのではなく、私達が兄を突き落としたのではないか、と。
「それに、お前の級友にしてもそうだ。いつまでもまごつくような奴と同じ歩幅でいてもお前が損をするだけだ。もし今後お前の足を引っ張るようなら、さっさと縁を切りなさい。人にはそれぞれペースがある。お前のペースを乱してまで他を助けるような意味は……」


 床に思い切り投げ捨てられた鞄の音が、リビングに響いた。


 父は遮られ開いたままの口を表情も変えずに戻し、テーブルの上で両手を組むと、律花をじっと見据える。
 どうして自分はこんなにも怒りを覚えているのだろうか。嘗ての兄と今の兄の姿を知っていて、それを貶されたからか、徹底的な私に対する羨望に嫌気がさしたからか。
 いや、多分、そこじゃない。
「弦子は、そんな子じゃない!」
 転校してきて間もなくて、会話だって数度の相手だ。なのにどうしてこんなにも、腹の底から怒りが沸き上がってくるのだろう。
「私のことをちゃんと見てくれて、ちょっと体調が悪い時に様子を見てくれたり、それまで学校にいた人達とは全く別の人で、ちゃんと私が普段何を思っているのか、見てくれる人で、だから……!」
 支離滅裂で、言葉遣いだってめちゃくちゃなその言葉の羅列を、父は無言のまま聞いていた。
「私にふさわしい友達って何? 一緒に他愛ない会話が出来て、心を許せて、一緒にいて楽しいだけじゃ駄目なの? 勉学に励んで、高みを目指せて、上に強いコネクションを持っている人と関係を持つことが友達を作ることなの? 分からないよ! だって弦子といるのすごく楽しいんだもん! 出会ってから間もないのに、一緒にいて一番落ち着くの!」
 律花の脳裏に弦子の笑みが浮かぶ。レモンの匂いのする彼女のはにかみと、自分よりも少し暖かな手の感触。
 次に、幼い頃、頭をよく撫でてくれた兄の顔。今みたいな意地の悪いものではなく、明朗快活なカラッと乾いた洗濯物みたいな柔らかくて、いい匂いのする笑顔だった。
 そして、最後にあの青年の姿。
 ロストマンと名乗った彼は、どこまでも純粋に自分の理想を追い求め、ただただ全力で走り続けていた。
 追いつきたいと言ってくれた彼だって、本当の私を見てくれた人だ。
「私のことをちゃんと見てくれた人達の事を、悪く言わないで」
 火が付いたみたいに全身が、顔が、胸の奥が熱い。叩き付けるような言葉の後、乱れた荒い呼吸を吐き出しながら、握り締められた拳が自然と解けていくのを感じた。感情のままに現れた言葉達の後に残った冷静な理性は、今の律花が特に危ない状態であると告げている。
 だが、それで良かった。多分これで良かったのだと律花は思っていた。いつか起きていた爆発が、今来ただけだ。それが、モッシュピットを経て出会ったものや弦子との出会いで早まっただけ。
「ごめんなさい、少し出てきます」
 名前を呼ばれた気がしたが、私は構わずにリビングの扉を閉め、床に転がった鞄から財布だけを抜き出して玄関に向かう。きちんと揃えられていたローファを端に除けて靴箱の奥に閉まっておいたスニーカーに足を突っ込んで家を飛び出す。
 家を出てすぐ目の前私道を駆け抜けながら、やっぱりスニーカーの方が動きやすくて便利だと思った。握り締めた財布の中に一体いくら入っているかも分からない。携帯は置いてきた。制服のままだから悪目立ちするかもしれない。
 でも、なんだか心地良かった。
 自由になんてなれたわけではないのに、突拍子もない自分の行動一つ一つが、なんだかムーンマーガレットみたいで、モッシュピットにしかいなかった筈の私が現実に戻ってきた気がした。
 モッシュピットが、すごく恋しかった。

   ・

 レーベル「オーパーツ」の面々が屯するアジトに、ずるずると麺を啜る音だけが響く。
 この日は珍しく鳴海とレモンドロップスだけで、ほぼ終日いるジョニーでさえも出払っていた。
 鳴海クン、とレモンドロップスに声を掛けられた時、鳴海は啜っていたカップ麺から麺を咥えたまま顔を上げた。
 レモンドロップスはいつものようにキャンディを口に咥えたまま、ぼんやりと宙を見つめていた。いつも元気な彼女がまた珍しい、と鳴海は思ったが、ふぁい、と麺を変わらず啜りながら返事をした。
「大切な人を守るために、あえてその人を苦境に落としちゃうのってどう思う?」
「ふぉうひはんふぇふはふぉふふぇん」
「何言ってるかわかんない」鳴海は麺をゴクリと飲み込むと、眉を顰めた。
「どうしたんですか突然、って言ったんですよ」
「ああ、なるほど。まあ、ちょっと色々あってね」
「実生活の方の話ですか? あんまそういうの語りたがらないのに珍しい」
 普段から実生活とモッシュピットでの生活は別けたいと、彼女が尊敬するジョニーにすら彼女は自分をあまり語らない。その在り方に全面的に賛成するが、何故そこに至ったのかを彼女は絶対に語らないのだ。
「それに、人が抱える問題に他者が干渉しちゃいけないって言ったの、貴方ですよ」
 そうよねえ、と彼女は顔を抱いていた膝に埋めて深く溜息をついた。なんだなんだと鳴海が怪訝な顔をしていると、やっぱり、間違ったかなあ、と彼女は囁くように呟いた。その声が少し濡れているように思えて、鳴海はカップ麺のスープまでを全て飲み干すと、大きく一度げっぷをしてごちそうさま、と手を合わせてから彼女の隣に座る。
「まあ、俺はレモンさんの言葉を無視しちゃいましたし、責められた義理じゃないんですけどね」
「何、もしかしてアンタあの砥上君にまた会ったの?」
 埋めた顔を少し浮かせて、彼女は目を細めて鳴海を睨む。何よそのレモンさんって、という言葉を付けて。だって長いんですもんと鳴海は彼女の眼力に狼狽しながら取り繕った笑みで答えた。
「レモンさんが、どんな状況で他人に干渉したのかは知りません。きっと一度それで後悔したことがあったから俺を止めたんですよね」
「妙に察しの良いところあるわよね、鳴海クン」
 へへへ、と笑う鳴海に褒めてない、とレモンドロップスは低い声で言った。
「俺の夢は、悩みも苦しみも、嫌なこと沢山抱えていても、気にせず楽器一本で殴り抜けて、なんもかんもぶち壊せる人間なんですよ」
「好きなアニメのヒロインみたいな女が好み、とね」
「その言い方はないじゃないですか」
「あはは、ごめんごめん、そんな怒らないで」
 そう言っておどけるレモンドロップスに鳴海はもう、と呆れて肩を竦める。
「他人の事なんて知らない、自分は自分のしたいこと、欲しいものを手に入れるだけ。結局人が辿り着くところってそこだと思うんです。誰かの目が気になるのも、自分の事を考えているからで、何より自分自身が、俺が一番生き易い世界を作るために必死こいてるだけ」
「そんなもんかしらね」
「そんなもんです。ただ、自分勝手をした先に厄介なもんが残りますけどね」
「何?」
「責任ですよ。遊んで散らかしたら、片付けなくちゃいけないでしょう?」
「責任、ね」
「自分がしたいことに対して発生する責任を背負うかどうか。それが、自分勝手にするための条件じゃないですかね。まあそれも、一生背負うものと、途中で背負う必要が無くなるものまで色々ですけど」
「鳴海クンは、それを全部背負っていくつもりなの?」
 鳴海は頷く。レモンドロップスがつまらなそうな顔を浮かべていると、突然彼は立ち上がって、両手を思い切り広げた。
「だって俺、ここに来てやっと、夢見ていた世界をこの手に掴んだんですよ。戦う術は未だにどうにもならないけれど、俺は夢に着実に近づけている。あの、ヴェスパに乗って青いリッケンを振り回していた破天荒な彼女みたいな道を」
 だから、俺は背負うんです。と鳴海は笑顔で言った。
「俺にどんだけ解決できるものがあるかは分からないけれど、そんなもん知るかってぶち壊して、背負い込んで、そうやってくだらないとか単純だとか言ってオレのことを笑っても、相手が笑えばいいんです。ずっと一人で考えていたところから二人で考えるようになるだけで、少なくとも負担は減りますから」
「そんなことを、一生するつもり?」
「俺の身体が持つ限りは……。とは言えこの考え方、無謀ですよね、やっぱり」
 そう言って苦笑する鳴海を見て、レモンドロップスは暫く呆気にとられた顔を浮かべ、次に盛大に笑い始めた。そんな笑うことないじゃないかと鳴海が不満そうにしていると、違う違う、とレモンドロップスは止まらない笑いの合間でどうにか言葉で返し、腹を抱えながらヒーヒー苦しむ。
 やがて、笑いが収まると、目に浮かぶ涙を拭いながら、あー笑った、と吐息と共に声を漏らす。
「……そうねえ、もしかしたら、君はそういう子だから、ここに呼ばれたのかもしれないわね」
「どういうことです?」彼女は鳴海の言葉には答えず、代わりに人差し指を一本立てた。
「今週の金曜日、なんでもいいから楽器を持って、モッシュピットにいらっしゃい。場所は私が指示するわ。といっても、多分すぐに分かるだろうけど」
「なんで楽器を持って……。顕現出来ないことを誤魔化してなんになるんです?」
「アンタをヒーローにしてあげるって言ってるの。黙って従いなさい」
 ぴしゃりと言って人差し指を彼の喉元につきつけると、彼は腑に落ちないながらも首を縦に振った。よろしい、とレモンドロップスはにっこりと笑う。
 うん、やっぱり君に決めた、とレモンドロップスは頷く。
 律花を救ってくれるのは、きっと君しかいないよ、鳴海クン。
 レモンドロップスは、調沢弦子は怪訝な顔をする古都原鳴海を見ながら、もう一度頷いたのだった。

   ・

 金曜の夜、仕事を終え、週末を待ち望み、休日を求める人々や、愉快に酔い潰れる者達が溢れ返る繁華街の煌めきの中、それとはまるで違った楽しみを追い求める人々がいる。自身の生活によって生まれた抑圧を吐き出して、何もかもを忘れて自由になりたい者達は、より仄暗い道を歩き、寂れた街の片隅へ向かう。
 恐らく今日は事件になるに違いないと、誰もが思っていた。日中は幼子達の心を擽る遊具達もまるで時が凍りついたように表情を無くし、錆びまみれの姿を露わにしている。どうしてこうも陽の光から街灯の明かりになっただけで公園は不気味に映るのだろう。風で微かに揺れるブランコのチェーンの軋む音がやけに響くその場所でそんな事を考えながら、幾人もが集まり、その時をじっと待ち続けていた。
 それはさながら、ライブ前の高揚感と似ていた。サウンドチェックを行うローディー達のギターの音色やベースの音、ボーカルマイクのチェック、ドラムの音。ライブが始まる前の数分間は、人々の欲を掻き立てる。
 ライブと違うのは、彼らもまたプレイヤーである事だ。自ら戦闘に赴くことができるし、ステージを見上げるだけではなく参加も出来る権利を持っている。
 だが、そんな権利さえも呑み込めてしまえるような瞬間がある。誰もが認める強者と強者のぶつかり合いは、まさにプレイヤーである彼らをオーディエンスにしてしまう。
 ざわめきが聞こえた。
 その時が来たのだと、そのざわめきは伝播して、チェーンの軋む音すら聞こえていた空間に、一斉に熱が灯り始める。
 時刻は十八時五十五分。モッシュピット発生まで五分を切っている。
 入り口から、本日のメインである二人が並んで今日の「ステージ」に足を踏み入れる。
 片方は目深にキャップを被り、白いシャツに黒の七分袖、デニム生地のホットパンツと黒いタイツの組み合わせ。ムーンマーガレットと名付けられた新進気鋭の少女は、今日も不敵な笑みをキャップ越しに覗かせている。
 対するもう一人は、グレーのパーカーと黒のスキニーといった無難な組み合わせで、フードを深く被り、顔には犬の面を付けている、隣の少女より随分と背の高い男だった。肩の辺りに丁度彼女の頭が来るその身長差に思わず二人を交互に観る者が多かった。
 パイドパイパーに属する男で、巫山戯た犬の面とは裏腹に実直に勝利を重ねているプレイヤー。デッド・オブ・ナイトという名前の通り、ブッキングを組んだ相手の夜を確実に終わらせて、連勝記録を重ねる実力派だ。
 パイドパイパーでも十二分な実力を持つ彼が、とうとうムーンマーガレットに目を付けた。その大きなニュースは瞬く間にプレイヤー間を広がり、今日のこの観衆を生み出した。
 ムーンマーガレットとデッド・オブ・ナイトは公園の中心で向かい合うように立つと、互いにじっと相手を見つめる。互いに顔を隠しながらの対峙ではあるが、ふたりとも、互いに向けられた戦意にはしっかりと気付いている。
「アンタを倒したら、ラスト・ホリデイは出てくるの?」
 返答は無かった。ノーと取るべきか、それとも肯定と取るべきか、恐らく答える気はないというのが正解だろうとムーンマーガレットは思った。舐められているのだ。時期尚早だとでも思われているのかもしれない。
「仲良くお話をする気はないってこと、ね……。いいわ、なら思いっきりアンタのツラに叩き込んで、その巫山戯た仮面を叩き割ってからもう一度聞いてやるわ」
 モッシュピット発生の一分前。ムーンマーガレットは腰を深く落として身構える。対するデッド・オブ・ナイトは変わらず直立不動のまま、相対する彼女の姿をじっと面越しに見ていた。

――五、四、三、ニ、一……

 誰もが心の中でしていたに違いない。時計の時刻が十九時を示す数秒間。
 ゼロ、という誰かの言葉と共に、プツリ、とサブリミナルみたいな一瞬のノイズが発生し、現実から切り離された感覚を皆が感じた。
 同じ光景だが、全く違う瓜二つの擬似空間『モッシュピット』に移動したのだ。

――砂利を強く踏み、地面を擦る音。

 モッシュピットと現実が移り変わると同時にムーンマーガレットの姿が消え、五メートル程空いていたデッド・オブ・ナイトとの距離が一瞬にして縮まる。
 コンバンワ、と彼の目の前でにっこり笑ってみせると、間髪入れずに右手に握り締められた赤いSGを横薙ぎに払った。
 顔面に向けた強烈な赤い線が走る。だが彼はそれをスウェーで避ける。挨拶代わりの一発を避けられてムーンマーガレットは一瞬驚いたが、ならと横薙ぎのギターの勢いに任せて全身を回転させ、ギリギリで避けた彼に回し蹴りを見舞う。
「――!」
 鈍い打撃音と共に、確かな感触を左足に感じた。
 少し距離を置くようによろめくデッド・オブ・ナイトの姿を見て、観衆が沸く声が聞こえる。そうだ、もっと喚け、声を張り上げろ、私の姿を見て拳を握り締めろ。
「私は、ムーンマーガレットだ」
 小言を呟くように口から漏れ出た言葉は、果たして周囲の為だったのだろうか。それとも、自分を鼓舞するためだったのか。それは、彼女自身にも判断の付かないものだった。
 犬の面を被った男は左脇を抑えながら、しかし覗き穴からじっと彼女の事を見つめていた。観察するような、彼女を知るような嫌な視線は、ムーンマーガレットの全てを識ろうと動いている。
「そんなに見て、何? アタシに気でもあるの?」
 気味が悪かった。挑発めいた言葉を口にしてみたけれど、動くことも無く、攻撃も受けて、ただ自分の事を見つめ続ける彼がとても不気味で、嫌な感じだった。
「何かしてきなさいよっ」
 ギターを脇構えにムーンマーガレットは再び跳躍。脇腹を手で抑えたままのデッド・オブ・ナイトとの間を一気に詰めると左足を踏み込み、下段を狙う。両足を刈り取るように解き放たれた赤い打撃はしかし、彼の足のあった場所に赤い弧線を描いただけに終わる。
――飛んだ? 彼の消えた方に視線を向けようと顔を上げた瞬間、目の前で星が飛び、地面に顔を叩きつけられてしまう。それだけで済んだならまだ良かった。無様に苦い土と砂利に塗れながら追撃に備えようと身を翻そうとしたが、彼女の反応より半テンポ早く劈くようなギターチョーキングが鳴り響き、這いつくばったままの彼女は為す術なくその音の衝撃を目一杯に食らって吹き飛ぶ。
 観衆は、その光景を見て騒然としていた。スタートダッシュと共に華麗に、赤い閃光を従え疾駆する彼女の優勢が、たった一瞬で覆ったのだから。ムーンマーガレットは吹き飛んだ先のベンチに背中を強く打ち付けると勢い余って更に奥の生け垣に突っ込んだ。
 黒い足だけが投げ出されたまま、暫く彼女は動かない。
 打撃と、音撃の自然なまでの組み合わせに、誰もが息を呑んだ。
 パイドパイパーは、ラスト・ホリデイに目を掛けられた者だけが入れるレーベルだ。それはつまり、一定水準の実力を持っているという意味でもある。
 生け垣に転がったままのムーンマーガレットはまだ動かない。だがギターは未だ顕現したまま。まだ戦意は喪失していない。
――破竹の勢いだった彼女もここまでか。
 たった一瞬の攻防に、彼女を推していた観衆達の間に、不安が広がっていく。
「……ったいな」
 生け垣の枝を折る音と葉の擦れる音がして、ムーンマーガレットは起き上がると、キャップを目深にかぶり直し、ツバの端から、敵意に満ちた視線を彼に向け、立ち上がった。
 一撃が重い。一発一発的確に急所に叩き込まれた。
 破れたタイツに目をやり、土埃を払い、再び駈け出し彼との間合いを詰めていく。
 右、左、ベンチの背もたれを使って跳躍、急激なストップ・アンド・ゴー、ゼロ距離まで近づいてから数メートル離れる。フェイントを重ねながら彼の目の動きにだけ意識を集中。
――いくら回避が得意だとしても、その一瞬は必ず現れるは……

――最初に感じたのは、深い静寂だった。

 縦横無尽に動いていた筈なのに、気が付くと彼女の目の前には地面が広がっていて、うつ伏せに寝転んだ状態になっていた。背中に感じる重たい違和感に、ムーンマーガレットは顔を歪ませる。
 狙い撃たれたのだ。撹乱の為駆け回る自分の動作を予測されて、先回りされて容赦の無い一撃を貰った。
「あはは……、アンタ、すっごく強いわ」
 全身を襲うけだるい感覚からして消耗が酷い。もしかしたら、こんなに切迫した状況は、ここに初めて来て以来かもしれない。右も左も分からないままブッキングに突っ込んだあの時以来感じていなかった敗北の恐怖。
 でも、だからこそ血が滾った。簡単な敵や拮抗した相手に勝ちたいんじゃない。より格上をブチのめしていきたいのだ。
 ムーンマーガレットは、両手でギターネックを握り締め、正眼の構えを彼に向け、深く深呼吸をする。自分に彼のような打撃からの音撃を繰り出すことは出来ない。何より自分の音はどんなにやっても不協和音になってしまうから、大した威力にはならない。
 自分にあるのは、打撃だけ。叩いて伏せる。それだけだ。これまでだってそうやってきた。音撃にも負けない一撃を繰り出して、相手の綺麗な音をぶち壊してやることが出来ると証明してきたのだ。
「やっぱり、ブッキングはこうでなくっちゃ駄目ね」
 対するデッド・オブ・ナイトの返答は無い。変わらず相手を見つめ、手に握ったギターを構えるだけ。今になって気がついたが、彼の握っているのは黒くて、まるで羽を広げるみたいにVの字の凶悪なフォルムをしている。なるほど、真夜中という言葉にはうってつけのギターだと思った。これで犬の面なんてしていなければ、十分に死神の如く扱われていたかもしれない。
「アタシね、ラスト・ホリデイを倒したいの。皆がムーンマーガレットって名前を忘れないように、アタシの姿を認識してもらうには、最強になるのが手っ取り早いでしょ? だから、アンタ程度で引っかかってる暇は無いの。まだまだ倒さなくちゃいけない奴らだらけなんだから」
 構えのまま、ムーンマーガレットはざりり、と後ろに左足を滑らせ、爪先に力を込め、前傾姿勢のまま身を沈めていく。まるで格好の餌を見つけた獣のように歯をむき出しにして、彼女は嗤う。
「アンタを喰って、先に行ってやるんだ」
 ムーンマーガレットを本物にするために。
 大嫌いな白部律花で塗り固められてしまわないように。

――疾駆。

 疾く、疾く、疾く、たった一瞬に全てを込めて。

 自らが疾くなればなるほど、視界に映る映像がスローに見えた。
 初めは走馬灯かと思ったが、違う。彼の一挙一動を見極め、完璧に対応するために集中しているからだ。ゆっくりと動く彼のギターを手にした右手。恐らく受け止めようとしているに違いない。コマ送りの如く着実に二人の間を遮るような位置に動いていくギターの動作に、ムーンマーガレットは目をこじ開けて凝視する。コンマ数秒の差だ。間に合えば確実な一撃。間に合わなければいなされ、恐らくは返す刀での渾身の一撃が待っている。

 疾く、疾く、もっと疾く。

 あのコンマ数秒を乗り越えるくらい疾く。

 踏み込まれた左足の爪先が、土を削り取っていく、一本の線を地面に爪痕のように描きながら、彼女は更にその足に力を込める。
 振り被った赤いギターが月の光を受けて紅く輝き、その光は直下する雷光のように一直線に、ガードの体勢を取ろうとする彼の巫山戯た犬の面に雷鳴の如き唸りを上げて落ちる。
 全力の一撃を顔面に食らった彼は後方に吹き飛んでいく。
 縦に割れた犬の面が舞うように外れ、きりもみしてムーンマーガレットの目の前にふわりと落ちた。プラスチック製の縁日によくあるような造りのそれを見て、次に、仰向けに倒れ込んだデッド・オブ・ナイトの姿を見て、ムーンマーガレットは、深く深呼吸をすると、あは、と吐息を漏らすように笑った。
 彼女の笑みを切っ掛けに歓声が周囲から上がる。
 誰もが一度は疑ったムーンマーガレットの敗北を、彼女自身が打ち消したのだ。対等にやれる。彼女にはまだ上に昇れる可能性がある。あの最強を打ち倒せるかもしれないと、そんな夢を抱かせるような、強烈な一撃とアピールだった。
「みんな、騒ぎすぎ……まだ、勝ったわけじゃないんだから」
 野次と喝采に包まれながらムーンマーガレットはそう口にしたが、内心この一撃は確かなものだという確信を憶えていた。ガードすらさせない一撃。これを他の動作とのコンビネーションで出せたなら、恐らく、もっと先へ行けるはずだと。
 目の端で、パーカーの彼が呻く声と共に起き上がるのが見えた。ムーンマーガレットは満足感に満ちた吐息と一つ吐いて、彼に向けて胸を張ってみせる。
「どうよ、アンタのその巫山戯た面を叩き割って……」

 それは、彼女が今日この場で始めて見せた姿だった。怯えたように弱々しく、震えていく声に、たじろぐ身体。目深に被った状態でも分かるほどに、その表情は、怯えていた。
「ど、どうして……? そんなの、私聞いてない……」
 狼狽える律花に対し、デッド・オブ・ナイトの名を冠したパーカーの男は、フードを深く被り、顔を隠すように俯いたまま一歩、また一歩とギターを握り締めたまま彼女に歩み寄っていく。
 彼から逃げようと後退りする律花だが、足にうまく力が入らないのか大した距離を取ることが出来ない。彼はそんな彼女に構わず大股に歩み寄り、遂に彼女のもとに辿り着くと、その胸元を掴み、引き寄せ、耳元に顔を寄せると、小さな声で、そっと囁いたのだ。
「……向こうとは随分雰囲気が違うじゃないか、律花」
 パイドパイパー所属、デッド・オブ・ナイトこと白部奏汰は、そう言うと、数センチもない至近距離で律花だけに見えるように微笑み、懐からもう一つ、造りのしっかりしたマスクを取り出すと顔に付ける。
 真っ白い、髑髏を象った不気味な仮面だった。

   ・

 そこからは、圧倒的な展開だった。逃げ惑うムーンマーガレットと、それを捕まえては打ちのめすデッド・オブ・ナイト。血気盛んに相手に挑む彼女の姿はそこになく、逃げ惑い、甲高い悲鳴を上げながら這い蹲って逃げ惑うか弱いただの少女がいるだけだった。
 何を囁いたら彼女をこんな風にしてしまえるのか、観衆達は呆気に取られたまま、無様な彼女の姿を見ていることしか出来なかった。
 傷だらけの服に、土まみれの身体、握り締めたギターを左右に振り回しながら必死に彼から距離を取ろうとする彼女の姿。
 誰もが、その姿を見たくないとでも言うように、期待を裏切られたように項垂れ、額に手を当てていた。
 どんな敵にも勇猛果敢に向かっていくムーンマーガレットの姿は、もうそこにはなかった。
 何度目かの打撃が腹に入った。いかに痛みや怪我にならないといっても、食らえば感覚的に気分は悪くなるし、実際に食らったようなイメージは抱いてしまう。かは、と肺の空気を絞り出すような声と共に、律花が吹き飛び、地面を転がり、くたり、と倒れ込んだまま動かない。
 奏汰は、そんな彼女の姿をマスク越しに冷ややかな目で見下しながら近寄ると、しゃがみ込んで彼女を乱暴に引き起こすと耳元で囁く。
「現実ではあれだけ優秀さを装いながら、その実好戦的で口の悪いこちらが本当だと知られたら、どうなるんだろうね」
「それだけは、やめて……」
「聞けば今お前、家出中らしいじゃないか。それも含めて全て親父に公開してみようか。白部律花は才色兼備を装っているだけで、本音では全く違う事を考えています、と。学校にも、家にも、お前の全てを暴露したらどうなるかな」
 つう、と頬から涙が一筋流れ出す。潤んだ弱々しい声で、やめて、と律花は言った。
「お前が必死で作り上げたイメージが壊れた先に、何が待ってるのか、俺は楽しみで仕方が無いよ。どうだ、お前も楽しみだろう?」
「嫌……嫌……」
 胸ぐらを掴んだまま奏汰は律花を真上に放り投げる。為す術ないまま飛び上がり、そのまま落下してくる彼女を眺めながら、奏汰はギターを構え、弦を思い切り掻き鳴らした。
――音撃。
 彼を中心とした周囲に音の壁が生まれ、衝撃となった音の壁は律花をピンボールみたいに弾き飛ばし、公園を囲むフェンスに叩き込む。磔刑に掛けられたような状態のまま、律花はぐったりと頭を垂らす。
 赤いSGはもうどこにも無かった。
 それは、彼女が完全に戦意を喪失したことを知らせる合図だった。
 ムーンマーガレットは、負けたのだ。
 誰もがそれを理解しながら、しかし、構わずに彼女に歩み寄るデッド・オブ・ナイトの姿を眺めていることしか出来なかった。それほどまでに、彼の攻撃は凶悪て、容赦がなく、冷酷無比なものだった。
 これが、パイドパイパーのメンバーの実力。
 静まりきったモッシュピットの中で、彼の砂利を踏む音と、ブランコのチェーンの軋む音だけが響いていた。
「なあ、律花、俺もそこまで鬼じゃない。このことは黙っておいてやってもいい」
 フェンスに寄りかかったまま動かない律花の身体が、ぴくりと反応した。
「ほんと……?」
 奏汰はマスクをずらすと、意地の悪い笑みを彼女に見せる。
 昔の、頭をよく撫でてくれた兄の笑みとはまるで違う、怖くて、気味が悪くて、嫌いな笑い方だった。
「ムーンマーガレットを辞めろ。二度とプレイヤーとして活動するな」
 それを聞いて、彼女は思わず目を見開いた。
――ムーンマーガレットを辞める?
 それは、もう一人の、いや、本当の私を捨てろと、そういう事だろうか。一生を、父や周りから頼られ、完璧な白部律花でい続けろということだろうか。
「そんなの、出来るわけない……」
「出来る出来ないじゃない。ムーンマーガレットを辞めなければ、お前のリアルでの生活は終わるんだよ。これは、命令だ。お前の本心がバレたら、きっと今まで築いてきたものが崩れ去るだろうな。親父にも見限られるだろう。全てを失う事をお望みか? 俺はどっちでも良いんだ、さあ、決めろよ」
 律花は、彼の歪んだ笑みを涙で潤んだ目で見つめていた。
 またいつか、あの優しい匂いのする兄が戻ってくると思って、父とも、母ともうまく関係を作って、笑って食事がしたかったのに。
 一人で頑張る必要は無いんだと、兄を支えたくて、選んだ筈だったのに、どうして、こうなってしまったのだろう。
 律花は俯いて、固く食いしばる。言いたくない、これを言ってしまったら、自分はもう二度とムーンマーガレットに戻れなくなる。
 だが、言わなければ、実生活ごと白部律花はめちゃくちゃにされてしまう。

――ただ、私は、幸せになりたかっただけなのになぁ。

 律花は、食い縛った口を緩めると、やがて、言葉を口にするために、小さく息を吸った。







 それは、突然の出来事だった。
 律花と、奏汰の間を分断するように、一本の楽器が振り下ろされたのだ。
 奏汰は予想外の一撃に戸惑い、突然の奇襲を回避すると十分な距離を取って、マスクを直してから、突然の闖入者を威嚇した。
「なんだお前は!」
 律花はゆっくりと、顔を上げた。
 見たことのある後ろ姿だった。
 確か、彼は、私の戦う姿を見て、「カッコイイ」と言ってくれた人だ。

―月に触れたいんだ―

 そう漏らした彼が、今、律花の目の前に、エレキベースを握り締めて、仁王立ちしている。
「久しぶり、ムーンマーガレット。確か、ファミレスで別れて以来かな」
 そう、彼はあの日の事をきっと憶えていない。
 酔い潰れた私に向かって言ったことも、何一つ記憶に無いのだろう。
 けれど、彼はあの日言った言葉の通りに、きっと私を追いかけてきたのだ。
 律花は、彼の背中を眺めながらなんとなくぼんやりと思った。

――この世界にヒーローがいるとしたら、きっとこんな風に登場するんだろうな、と。

 横目で律花を見た後、古都原鳴海は目の前の髑髏マスクのパーカー男に向け、右手に全力を込め、重たいエレキベースを突き付け、挑発気味の笑みを浮かべてみせた。
「別に、ただの週末限定の|ロストマン《迷子ヤロー》さ」

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