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四章「戦いぬくための作法」

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 電車の窓を大雨が打ち付けていた。
 外の風景は煙を落としたように霞んでいて、雨粒も相まってよく見えない。春だというのに、梅雨を間近に迎えたような天候に、吊り革につかまって揺れる人、イヤホンを耳に着けている人、床に座り込んでいる人、誰もが不快に眉根を寄せている。俺もこの、雨ばっかりが続く梅雨という季節が嫌いだ。昔は、そんなことはなかったものなんだが、記憶というものは正直だ。
 電車の口が開き、客を吐き出して、また吸い込む。この辺りはまだ開発途中で田舎の風情が残っていて、それに伴って客足もそれほど多くはない。腰掛ける席は十分に空いていたが、俺は扉近くの手すりにもたれかかって、雨垂れ落ちる窓越しに曇りがかった風景を眺める。
 民家や森林が続いていたものの中に、段々と工場らしき建物、高層ビルが紛れ込んでくる。
 この辺で一番開発が進んでいるのがここ、金池町だ。昔は商業が盛んで特に屋台が活発なことから、屋台横丁街とも呼ばれている。もちろん街のシンボルである屋台は今日も好評営業中なのだろう。電車が街の中心部に近づくと、それらしき明かりがぽつぽつと見えてくる。俺は郷愁の思いになって、少しだけ嬉しい気分にもなった。
 もう、十年ほど前だろうか。
 高校に進学するために、俺、中村雅親はこの街を出た。この街の高校に進学しても良かったかもしれないが、俺には警察官になるという夢があった。警察学校まではさすがにこんな地方都市にはなかったから、ならばと俺は高校生になった時点で外へ出る覚悟を決めた。それくらい自分を追い込まなければ、夢は達成できないと思ったからだ。
 俺は高校を無事に卒業し、警察学校を受験した。
 深く語ることもないから、猛勉強の末に警察官になれたとだけ言っておこう。
 晴れて警察官になった俺は、しばらくはその学校があった地域の署で勤務した。本当はすぐにでもこの街に戻ってきたかったが、くだらない矜持と、受け入れ難い現実とがあって、俺は少しの間この街を忌避した。実家に帰ることもなかった。帰ろうものなら俺の中にいるもう一人の俺に、喉元を掻っ切られてしまいそうだった。
 警察官としての職務を果たしていく上で、俺は精神科なんかに通いながら、徐々に克服していった。
 寝る前にいつも見えていたびしょぬれになったブラウス姿も見えなくなってきて、金池を受け入れるようにもなった。
 完全に克服出来たかは分からない。分からないうちに俺は転属を命じられた。
 かねてより望んでいた、金池町での勤務だった。
 引っ越しの荷物も運び終え、最後の手荷物だけを持って俺は電車に揺られていた。
 ベルが鳴り、扉が開く。金池の看板を確認して、俺は電車から吐き出される。この駅の乗車マナーは相変わらずひどい。まだ降車していない人がいるというのに、我先にと乗り込もうとする人が多い。こういったマナーを守らないのは、俺視点で言えば若者より年配の人のほうが多い気がする。乗車中のマナーが悪いのが若者であれば、乗り降りのマナーが悪いのは年配の方々。そんなイメージが強かった。
 県内有数の地方都市とあって、構内はそれなりに人が多い。田舎特有のスマートフォンをいじりながらでも人とぶつかることがない、という現象は見られず、前を見て歩かなければすぐに正面衝突してしまいそうだ。
 俺はキャリーバッグがすれ違う人の足を踏まないように細心の注意を払いながら、まだダンボールが散らかっている自分の部屋があるアパートとは、異なる方向へ足を進めた。
 駅を出て、ビルの群れをかいくぐっていくと、田園風景が広がっている。地方都市ならでは、といったところか。
 懐かしい故郷に思いを馳せる間もなく、俺は田畑の間にあるかろうじて敷かれたアスファルトの上を歩いて行く。このまま進んでいくと森林に入る直前で、この人口の道は途切れてしまう。その近辺に目的地はある。
 がらがらと音を立てながら、雨の降りしきる田畑の隘路を進んでいく。
 目的地が、段々とその姿を表す。
 雨ではっきりとは見えないが、四角い石が、立ち並んでいる光景。
 町のはずれに作られた、共同墓地。
 近づけば分かるが手入れはほとんどされておらず、雑草は生え放題、木々は各々の思うがままに枝を伸ばしている。
 俺はキャリーバッグを持ち上げ、墓地に踏み入る。墓石の数は多くない。元々は個人の有志で作られたものだから、普通の人はきちんと拵えられた場所の墓地に墓標を築く。町のはずれは何かと便が悪く、嫌われがちというのもある。
 だからこそ、俺にとっては都合が良かった。
 雨が、その激しさをいっそう強めた気がした。
 右手で数えられるほどしかない数の墓石の前を通り過ぎ、あるひとつの前で立ち止まる。
 聞こえていた雨音が、少しだけ、遠くなる。
 墓石はとても小さなものだったが、その表面には震えた手で書いたような文字が、刻まれている。

『秦野由美子之墓』

 少し前に、変なメールが届いた。
 差出人は不明。本分は空白。タイトル部分に、明日生まれ変われたらどうなりたいか、みたいなことが書かれていた。
 そのメールに対して、俺はこう、返信した。

『彼女と同い年になりたい』

「……帰ってきたぞ、由美子」
 秦野由美子。
 ある家の三人姉弟の長女であり、中学の頃から俺の彼女だった、由美子。
 高校受験前に命を落とした、由美子。
 “俺の所為で――”。
「駄目だ。思い出さないって、誓ったはずだ」
 いつの間にか傘を下ろしていて、雨で濡れていた髪の毛をくしゃくしゃと掻きむしる。
 俺は携えていた、水くたになった花束を、由美子の好きだったシロツメクサの花かんむりとともに墓石の前に置くと、しゃがみこんでから、目を瞑った。
 こうすれば、瞼の裏の世界で由美子と逢えるような気がした。
 無邪気で、天真爛漫で、いつも俺の前を走っていた、由美子に。
 いつの間にか後ろにいた事に気付けなかった、由美子に。
 だけど夢はいつも、残酷に醒める。
 俺は瞼を開いて、少しだけ微笑んだ。
 雨が降っていてよかった。
 
 由美子の家には、親がいなかった。早くに事故で他界したそうだ。
 長女の由美子と、ちょっと歳の離れた次女と、もっと歳が離れた弟が一人。三人暮らしだった。しばらくは親の貯金で暮らしていたそうだったが、当然そんな日々を続けられるわけがなかった。俺がそれにもっと早く気付くべきだったんだ。
 学校の給食費も払えなくなり、崖っぷちに追いやられていた秦野家。
 当時その事実を理解していた由美子でさえも、まだ中学生だ。働き口などなければ、支援してくれる人もいなかった。周りに相談するということも、出来なかったんだろう。由美子は両親がいるという体を崩さずに、明るく振舞っていた。家にあった、親が残したものを売るなどして、食いつないでいたと聞いた。
 そしてとうとう、売れるものもなくなってしまった。
 由美子は一人で懊悩していた。なぜ俺はそれを汲み取ってやれなかったのか、今でも後悔の念が強く残る。
 もし俺が、何か助けになれていたら。
 助けになれなくても、周囲に助けを求めたりできていたら。
 由美子は命を落とさずに済んだかもしれない。
 ――違う。
 由美子は“殺されずに”済んだかもしれない。
 俺が精神的に病み、病院に通い詰めるまでになった理由。
 自分にかけられた生命保険の存在を知った由美子が、俺にかけた言葉。

「まーくん――――私を、殺して?」

 遠くに聞こえていた雨音が、耳を劈いた。
 同じように雨が打ち付けていた、中学三年生の時の六月一〇日。
 秦野由美子は、俺の手によって電車の走る線路に押し出されて、轟音とともに壊れた。
 由美子と俺は小学校を卒業してから付き合い始めた。
俺は中学に入ってから、お前はリーダーシップに満ちていてみんなを引っ張っていく存在と慕われていたが、実際そんなことはなくて、多くは由美子に教えてもらったことばかりだった。
 みんなに慕われる人になるには、人のために動くこと。自分のことは最後に回して、影で動くこと。
 どんな意見でも否定せずに受け入れた上で、違う意見を提案してみること。
 どれも、由美子に教えてもらって身に付けたことばかりだった。
 由美子は俺が指揮を振るう傍らで支え続けてくれていた、唯一無二の存在だった。だから俺は由美子の指示には全て従った。俺は由美子がいなければ、風紀委員長などの仕事を全うできなかっただろう。
 あの忌まわしい事件も、由美子が俺に指示したことによって、勃発した。

『まーくん――――私を、殺して?』

 由美子に呼び出されて、人の少ない踏切の前で電車を待ちながら、由美子はそう言った。
 俺はその時初めて、由美子が抱えていたものの正体の片鱗を見た。
 育ててくれる親もおらず、妹と弟の世話をしながら学校に通っていた由美子。その話を聞いた時、由美子がなぜここまで人を育てていく知識が豊富なのか、理解できた気がした。
 当然俺はまくし立てる勢いで非難した。涙が溢れ始めていた。
 保険があるからといって、死ぬことは正しい選択ではないと。
 生きて周囲に助けを求めれば、まだ道は開けるはずだと。
 それでも、由美子は俺の手を握って、取り繕った笑顔で言った。

『ワタシヲ、コロシテ?』

 由美子の瞳が、疲れきったものになっているのに気付いた。
 カンカンと音を立てながら、遮断機が降りる。
 早く、早く。誰も見ていない。誰にも分からない。まーくんが殺したことなんて、誰にも知られない。
 だから、殺して。ワタシヲコロシテ、フタリヲタスケテ。
 由美子の双眸が、滲みそうになりながらそう訴えかけていた。手が震えていた。
 中学三年生の頭は混乱に満ちていた。常識的に考えるのであれば、殺すことなんて出来ない。そんなことは誰も望んでいない。しかし、俺の敬愛する由美子はそれを望んでいる。由美子の言うことに従えば間違いは起こらない。だからと言って、由美子を殺すのは、電車の走る線路の中に押し出すのは、間違ったことではないというのか? いや、それは違う。人を殺すのは間違ったことだ。いくら由美子の言うことでも、それは聞けない相談だ。
 頭の中で、色んな考えがせめぎ合った。
 どれも言葉にはなってくれず、雨の中で涙を流しながら、俺は歯の根が合わなくなるのを感じた。
 それを見て、由美子は言った。
『大丈夫、すぐに――――終わるから』
 由美子はきっと、俺が何と言おうと、死ぬつもりだったのだろう。
 握っていた俺の手を離すと、由美子は背後にあった線路へ、後ずさった。
 声にならない叫びを上げたのを覚えている。
 雨だか涙だかわからないほど、顔がびしょ濡れになったのを覚えている。
 由美子ははち切れんばかりの笑顔と共に電車に飲み込まれ――――その生命を壊された。
 急激に強くなった雨の中に、電車の甲高いブレーキ音が響き渡った。
 血飛沫が飛んできた。
 雨と伴して、俺の身体を濡らした。
 言葉にならなかった。
 由美子の血液で視界が真っ赤に染まって、そしてすぐに、世界が闇に落ちた。

     ○

 あの日と同じくらい強い雨が、ざあざあと降っている。
 墓地を後にして、俺はまた都市部へと戻っていた。突然の雨を予想出来ていなかったのだろう、サラリーマンの男性は鞄を傘に走り、自転車にのる人はかっぱを着て先を急いでいる。
 俺は傘を差しながら、取り残されたようにゆっくりと歩いていた。
 その後、警察が来て、俺は事情聴取を受けた。まだ中学生であったこともあったのか、俺は自分が殺したという主張を繰り返したが受け入れられず、最終的には名前だけの保護観察処分となった。残された二人には由美子が死んだ事による保険金がおり、また由美子が死んだことにより両親不在であったことも明るみになって、生活保護が受けられることになった。しばらくの間は、近所の人が面倒を見てくれることにもなった。
 それが、由美子の望んだ結果だったかは分からない。由美子の死によって悲しみにくれた人は決して少なくない。由美子の骨しか入っていない、小さな墓が作られるまでは、由美子が死んだという実感さえなかった。由美子の名前が刻まれた墓石を見た瞬間、ああ、由美子は死んだ、いや俺が殺したも同然だと、俺は胸にぽっかりと穴が開いた気持ちになった。
 死ぬ直前、由美子の手は震えていた。
 由美子は、死んでしまうのが怖かったんだと思う。
 だから由美子は、俺に対して自分を殺してと頼むことで、少しでもその恐怖を受け入れようとした。
 治療を重ねていく内に、そう考えていくようになった。
 先生に何度も言われたことだ。
『彼女に言われていたんだろう。自分のことは最後に考えるんだって。だから彼女はそれに則って、自分の命を最期に回すことで、自分の愛する人を守った。君は彼女を殺したわけじゃない。彼女の行動の手助けをしただけだ。気に病むことはない。何よりも、君だって彼女に守られた内の一人だ。そんな君が深く閉じこもってしまったら、彼女はどう思うだろう?』
 そこで俺は、自分に残された使命に気付いた。
 俺のやるべきことは、彼女の死を悔やんで、贖罪に苛まされながら生きることじゃない。
 彼女の分まで、力強く生きていく事こそが、俺に託された由美子の最後の願いだ。
 だからこそ、彼女のような人間を、二度と出してはいけない。
 理由があるとはいえ、自分の愛すべき人を捨てて去っていく人間を、これ以上増やしてはいけない。
 それを取り締まる人間に、俺はなりたい。
 俺はこうして、警察官を志すことを決めた。
 雨が、降り続く。アパートに帰り着くまで、どうやら止みそうにはない。
「大丈夫だ由美子。俺はもう、過去を振り返って、後悔するなんてことはしない」
 走り去る人々とすれ違いながら、俺は空に向かって呟いた。
 不思議と雨足が遠のいていくような、そんな気がした。
 梅雨という季節は嫌いだ。正確には雨が嫌いだった。“あの日”のことを思い出してしまうから。
 でも、今日改めて彼女の墓までやって来て、俺は決別した。
 雨が嫌いなのは、この雨がきっと、由美子の涙だからだ。俺がいつまでも過去を引きずって生きているから、由美子は悲しんで涙を流す。由美子が悲しむのが嫌だから、俺は自然と雨を嫌う。
 俺は過去を全て受け入れて、前を向いて生きていかないといけない。
 こうも言っていたよな、由美子。
「君の生きている今日は、昨日死んだ人が願った明日だって」
 由美子は自分の命を賭してまで、愛する人が明日を生きることを願った。
 かつては自分の命を落として、由美子と同じ歳のまま全て終えたかった俺だったけど、今は違う。
 俺は人のために、生きていく。
 自分の生まれ育ったこの金池で、二度と同じ過ちを繰り返さないように。


19, 18

  

     ○

 金池の警察官としての日々は、それはそれは順調なものだった。
 大きな事件も起こらず、上司も同僚も皆優しい人ばかり。昔いた町ということもあって、俺を覚えてくれている人なんかもいたりした。その誰もが昔よりしわが増えていたり、子どもをつれていたりして、俺もやっぱり歳を重ねたんだなと多少なりとも実感した。昔良く遊んでいた公園がなくなってレジャー施設になっているのを見て、悲しくもなった。
 それでも形を変えずに残っていたのは、電車の中でも見た屋台横丁だ。
 金池に戻って二ヶ月ほど経ったある日の夜、俺は記憶を頼りに屋台横丁の入口までやって来た。大方、色んな複合施設の登場によって、屋台も廃れているだろうなと考えながら、屋台横丁に足を踏み入れた。
 思わず、声が漏れてしまった。
「変わって……ない」
 何にも、変わってなどいない。
 一歩踏み込めば一斉に漂ってくる、焼きそばやら綿菓子やらの匂いが混ざった、ちょっと変な匂い。赤ちょうちんをぶら下げた居酒屋台の群れ。お祭りの縁日のように、日常的に金魚すくいやヨーヨー釣り、的当てなどの屋台が広がる風景。その昔由美子と怖がりながら進んだ手作り感に満ち溢れたお化け屋敷。親友のヒロトと花火で遊び散らかして怒られた、横丁の隅にあるひっそりと苔むした寺社の階段。ひぐらしの声を聞きながら、下駄を鳴らして歩いた、日曜日。
 ああ、何も、変わってない。
 悲しみとは違う涙で、少しだけ目が潤んだ。
 屋台の数はむしろ、かつての記憶よりも多い気がした。
 何か催しでもあるのかと散策していると、ひとつの看板を見つけた。
『第一回金池屋台祭り 地域活性化のため開催』
 ほう、と俺は思わず感心した。金池の屋台はあまり街から関心を持たれていない存在だった記憶がある。だがこれほど都市化しても根ざしているところを見て、金池のお偉い方も納得したんだろう。確かにこの屋台横丁があれば、金池は更に活性化するに違いない。毎日のように開いている屋台を目的にする観光客も増えるかもしれない。祭りの日程はまだ少し先にも関わらず、屋台横丁は人で溢れ、賑わっている。俺は嬉しくなって、自然と足取りが軽くなった。
 せっかくだから、今日は少し飲んでいくか。
 俺は適当な屋台を選び、暖簾をくぐった。
「おやじ、熱燗を一つと、何かおすすめのつまみをくれ」
「あいよ。お客さん、あまり見ない顔だね」
「まあ、そうだろうな」俺は空席に荷物を置きながら答えた。「ついこの間、この街に戻ってきたばかりなんだ」
「へえ、外に出ていたのかい」
「世を取り締まる生業の公務員でね。転属って奴で、生まれ育った街に舞い戻ってきたんだ」
「おう、そりゃあ良いことだ。この街はとても、いいところだからねえ」
「おやじも、ここの出身なのかい?」俺は差し出された焼き鳥を頬張りながら尋ねた。
「私は、この街に惹かれて住むことにした者の一人だよ」
 おやじは愛想の良い笑顔を浮かべて、煙で丸眼鏡を曇らせる。
「昼間はカフェを経営して、夜はこうして屋台をしているんだ。充実した人生だよ」
「ふーん、商売が好きなんだな」
「商売というより、こうして色んな人と話ができるのが生きがいだね。あんた、歳はいくつだい?」
「ん? 二五、六ってところだ」
「おお、そうなのか。そりゃ良かった。実はもうすぐ常連が来るんだが、彼も君と同じくらいの歳なんだ」
「へえ……」熱燗を飲み下しながら、俺は半分聞き流し始めていた。酒は好きだが、どうにも弱いのだ。
 その時、俺以外の誰かが屋台の暖簾を揺らした。
「おやじ、熱燗と鶏皮ね」
 その男は入ってくるなり、慣れた口調で注文した。おやじの方もそれを知っていたようで、即座に熱燗を差し出した。それがよほど面白かったのか、男はくっくっと笑った。
 俺はその時、少しだけ良いが醒めた。
 声に、聞き覚えがあったのだ。
「その笑い声は……まさか、ヒロトか?」
 俺がそう呼ぶと、男は驚いた目をしてこっちを向いた。
 訝った表情をしているが、若干くたびれた二重の両目と、特徴的なそばかす。
「まさかお前、雅親?」
 その言葉を聞いて、俺の考えは確信へと変わった。
「ああ! そうだ、雅親だ覚えてるか!」
「うおう、なんて偶然だよ」
 俺は興奮気味に、ヒロトと肩を組んだ。ヒロトは中学校の時に、互いに夢を誓い合った親友だ。まさか、こんなところで再会できるなんて、夢にも思わなかった。
「驚いたぜ、雅親がこの街に戻ってきてるなんてな」
「最近異動になったばっかりなんだよ」
 興奮冷めやらぬまま、ビールを追加注文した。
「まあ、とりあえず飲もうぜ」

 俺は由美子のことを隠しながら、高校に行ってから転属するまでの経緯を話した。
 ヒロトは昔から俺の話を真剣に聞いてくれる奴で、まったく目を逸らさなかった。俺は不思議と泣きそうになってしまったが、すんでのところで堪えた。
 ひと通り話し終えたところで、俺はひとつ深呼吸をする。
「まったく、警察官ってのも楽じゃないぜ。おやじ、ビールおかわり」
「おいおい、あまり飲み過ぎるなよ」
 雅親が笑いながら言う。飲み過ぎないようにしたいところだが、本能がそれを許してくれない。
「そういやヒロトは、画家にはなれたのか?」
 流れで聞いたつもりだった。俺が警察官になると約束した時、ヒロトも画家を目指すと与して誓った。ヒロトは絵の才がある奴だった。勉強を続けていけば、絶対に有能な画家になる。俺は確信気味に思っていた。
 俺の問いかけを聞いて、ヒロトは一瞬だけ閉口した。
「いや、まだ見習いだ。バイトしながら、絵を描き続けている」
「そうかそうか、お前なら大丈夫だ、ヒロト! 俺が見込んだ絵描きだからな、ハハハ」
「そりゃどうも」ヒロトは苦笑いしながら、ビールを一気に飲み干した。
 それが嘘だと、すぐに分かった。
 嘘をついた時、手元にある食べ物を一気に食べたり、飲み物を一気に飲んだりするのは、ヒロトの昔からの癖だ。
「おやじ、俺もビールおかわりだ」
 俺はなにかあったのか聞いてみようと思ったが、辞めた。
 俺に隠し事があるのと同じように、ヒロトにも俺には言えない何かがあるに違いない。
 そんなことで話が詰まってしまうなら、いっそのこと飲みまくって、潰れてしまおう。
 俺はその夜、限界まで飲み続けようと決めた。
 それからのことは、よく覚えていない。ヒロトに対して偉そうになにか語ったり、おやじに対して演説のようなしゃべりを続けたような気もしたが、ここまで酒が回ったのは初めてだったので、記憶から抜け落ちてしまっている。気付けば俺は、ヒロトに連れられてアパートまで送ってもらい、そのまま玄関でうつ伏せになっていた。ヒロトが連れてきたのかも覚えていなかったが、ヒロトならきっとそうしてくれると思っていた。
 酔いが若干冷めてきた俺は、そのまま玄関で目を閉じた。
 明日は非番だ。荷物の整理も後にして、今夜は幸せな記憶が残っている内に、もう寝てしまおう。
 ふらつく頭でそんなことを考えながら、俺の意識は瞼の裏の世界へ、とろんと落ちた。

 翌日の午後。
 起きた俺のもとに、金池署からある連絡が来た。
 幼い少女が何者かによって、連れ去られてしまったと。
 更にその翌日、俺は同僚と金池の街を捜索していた。
 犯人はまだ、遠くまで逃げてはいないはずだ。だから諸君は金池の捜索に当たってくれ。
 それが上の考えだ。俺もそれには同意だった。
 誘拐犯はすぐには現場を離れない。警察による捜索が別の場所に移った頃、こっそりと移動を始めるのだ。だからまだ一週間ほどは、この街で逃亡の準備を始める可能性が高い。そこを押さえられなければ、おそらく捕まえることは出来ないだろう。だから最大限の力を以って、捜索に当たらなければならない。
 晴れやかだった気分から一転、俺の気分は緊張で張り詰めていた。
 誘拐も同じだ。愛すべき人同士を切り離す行為。だから俺はその犯人を捕らえて、然るべき罰を与えなければならない。
 俺のその信念を知っていた相棒は、俺の直感を信じて随伴してくれていた。
 単に俺の目が殺人鬼的に鋭かったから、黙って付いて来ていただけかもしれないが、俺は気にも留めなかった。
 幼い少女の誘拐なんて、許されざる行為だ。そんな蛮行を働く輩を、みすみす逃がす訳にはいかない。
 俺は青空広がる金池の街で、狩人のように目を光らせていた。

     【六月十日】

「二手に別れよう。そのほうが効率がいい」
 俺は相棒にそう提案して、単独で捜査を始めた。最低でも二人以上で捜索するように命じられているので、見つかればどやされるかもしれない。それでも構わない。一人でなければ、どうにも集中できなかった。自責の念があるのかは分からないが、こういう事件の時に複数で捜査していると、どうも効率が悪いような気がしてならないのだ。
 一人のほうが不思議と、勘が働く気がする。
 俺は自分の感覚だけを頼りに、金池の都市部へ踏み込んだ。
 誘拐事件のことなど、知らない人のほうが多いだろう。まだ、大々的に報道はされていない。混乱に乗じて犯人が逃げるのを防ぐためだ。だから街は今日も平常運転だ。
 犯人の顔は明らかになっていなかったが、連れ去られた少女の詳細は明らかになっていた。少女の叔父と称する人物が証言したのだ。警察は少女のことが割れていると犯人に知られないように、その事実を秘匿した。そうすれば、犯人も油断して街を離れるのが遅くなるかもしれない。そこをつけば、全て片がつく。
 小さい子どもを連れた人に注意を走らせながら、俺はある通りへ出た。
 すぐに、そこにできていた人だかりに気が付いた。
「……何か、催しでもあるのか?」
 そう呟いた刹那、俺の目はある男と、その男と手をつないだ少女を捉えた。
 少女の姿は紛れも無く、誘拐された少女のそれだった。髪型も、履いている靴も一致している。俺の目に間違いはなかった。なかったはずなのに、俺はしばらくその場で立ち尽くした。
 すぐにでも飛び出して、犯人の両手に手錠をかけてやりたいところだった。
 でも、それが出来なかった。
 そう――
「嘘だろ……ヒロト?」
 その少女を連れていたのが、一昨日酒を飲み交わしたばかりの親友、橘博人だったのだ。
 見間違えるはずがない。目つきや引き結んだ口元も、一昨日会ったばかりの友人と全く同じだった。
 自分の目を疑いたかった。画家を目指していたはずのヒロトが、まさか誘拐に手を染めているなんて現実のものとは思えなかった。何か理由があるに違いないと思いたかった。視界が揺らいで、少しだけ気分が悪くなった。
 俺は一体、どうすればいいんだ?
 すると次の瞬間、ヒロトは少女を置き去りにして、突発的に走りだした。
 もしかして、感付かれたか。
 俺はぐらついていた頭を振って、ヒロトの後を追って人混みの中に飛び込んだ。
 何はともあれ、どうしてこんなことをしたのか問いたださなければならない。
 一人の警察官として、俺は誘拐犯を裁く必要がある。
 ヒロト自身にあの日誓った言葉を呟きながら、俺は野次馬の間を縫って走った。


 ビルの上から落ちてくる人の姿など、俺の目には映っていなかった。



 四章「戦いぬくための作法」
21, 20

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