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ふりがな

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 めでたく名前を書きおおせた貴兄が次に取りかかるべきはふりがなである。なあんだ、ふりがなかよ、そう漏らした貴兄には漏れなく一流の楢材を用いて作った警策による一撃を見舞うことに決めている。ふりがなひとつで大問題の世の中である。そうでなければ、いったい何故マークシート式試験の時に、漢字表記で名前を書かせた上ふりがなまでも一つひとつマークさせるのか。
 読み方で同姓同名の人物を弁別できることもあるから? 間違いではなかろうが、本質はそこに無い。
 ふりがなには、たましいが込められているからである。

 例えば、ここに鬼車権造という名前の男がいたとしよう。我々が彼に対して通常抱き得る「ああ、頭大きそうだな」とか「足臭そうだな」「四十半ばで酒臭くて童貞」といったイメージは、間違いなく鬼車権造という漢字表記に付随してもたらされる「おにぐるまごんぞう」という音の響きに依拠したものである。
 これが「きしゃけんぞう」という名前で在ってみ給え。いくら四十半ばで頭が馬鹿に大きくて足から納豆臭の漏れる酒臭い童貞であるところの「鬼車権造」が街中を歩いていたとしても、彼が自己を「きしゃけんぞう」として生きている限りは誰も振り向かない。素通りである。
 他言語はともかくとして、日本で通常用いられる日本語には幸か不幸か「字面」というものがいつも付き纏う。肝心なのは、貴兄がいま書こうとしているそのふりがなが、先般貴兄が悩んだ末に生み出した漢字表記の名前の字面の内実を保ち得ているか、という点にある。
 ふりがなが漢字の字面の内実を保ち得るものであること、これが大事であるということはここまででひとつ確認できた。しかし「では書いてみ給え」、そう言うと貴兄はまたも躊躇ってしまうのである。何故か。
 「もう先天的に決まってしまっているふりがなに対して、我々はどう相対していけばいいのだろう」貴兄は言う。
「竿やあ~竿竹」竿竹屋は言う。
「二本で千円、二本で千円」竿竹屋はまた言う。
「『きしゃけんぞう』として生まれ落ちてきてしまった男は、世界と向き合っていく術を持ち得ないのか」貴兄は言う。
「…………」竿竹屋はもう行ってしまった。
竿竹屋が通り過ぎてしまった今、代わりとなるのは警策である。……ではなく、ふりがなが先天的に決まってしまった今、貴兄にできるのは、あるべきふりがなの存在を「演じる」こと、「きしゃけんぞう」である鬼車権造が「おにぐるまごんぞう」を名乗り、演じることである。彼が自己を「おにぐるまごんぞう」として生きている場合にのみ、先天的なしがらみは乗り越えられるものとなる。

名前:勝新太郎

 さて、ふりがなを書き給え。もちろんここまでの話を聞いてきた殊勝な貴兄であれば、「しょうしんたろう」とか「しょうにいたろう」では字面に合わないと心得ていることだろう。「かつしんたろう」と添えていく。……だがやはり惜しい。実に惜しい。ここでもう一つ飛躍できれば、貴兄の真人間としての価値はいっそう高まるに違いない。
 そう助言され、貴兄は静かに「Show-Newたろう」とふりがなを改める。完璧である。おめでとう、これで「勝新太郎=Show-Newたろう」としての貴兄の存在が措定された。それは常に新しい存在(つまり「Brand-Newたろう」でもある)として現代を生くるという貴兄の確固たる所信表明であり、揺るぎない貴兄の存在の基盤である。
 さらに付け加えるならば、「New=にゅう=乳」という意味合いも加えることができるだろう。ここまでのプロセスを応用して逆の発想を用いる。つまり、ふりがなの段階から漢字の字面を規定していくのである。「にゅうたろう」。つまり、乳飲み子の頃の記憶を取り戻す、始原の記憶を取り戻していく、その意思表示に用いるのである。

 ついでながら中村玉緒にもふりがなを振ってやると良い。「マロニーのひと」でも、「からくりTVによくでてるひと」でも良い。上手い具合に付け給え。ここまで来れば免許皆伝、貴兄に伝えるべきことは何も無い。

 いよいよ性別と生年月日に取り掛かろうというところで、やはり貴兄はふと手を止める。貴兄も身体で解ってきたのだ。エントリーシートに対する貴兄のその一挙手一投足が、批評行為との二重写しの様相を呈していることを。
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