第五話 『Siamese 0 ―シャムレイ―』
人間の心とは記憶なのではないか。シャムレイはそう考えることがある。
人間には感情がある。
しかし、まがいものの人形にはそれがない。それは分かる。
シャムレイ自身の胸に手を当ててみても、暖かい鼓動も、脈打つ血潮も感じない。
ただの空洞、与えられた知識と経験が整理されて詰め込まれているだけだ。
けれど機械の中にも隙間はあって、主に目覚めさせてもらった瞬間からたった今まで動き続けてきた時間と空間のことをシャムレイは覚えている。
眩い光に顔をしかめながら眼を空けた時、自分を待っていてくれた彼、冷たい微笑みと獣の流し目を残しながら、彼はたった一度の勝負でこの蒸気船の小さな領地をその手の中に収めてしまった。
それから始まった勝ち続けるだけの彼の絵巻物――それををシャムレイの瞳は刻み続けてきた。
ずっと。ずっと……
けれど。
シャムレイは、彼以外のことはほとんど思い出せなかった。
彼が倒してきたバラストグールたちの顔を誰一人として、そして肉塊へと変わり果てた彼らの、主と一緒に確かに打った舌鼓をどうしても思い出せない。
なぜだろう。
なぜ自分の記憶には思い出せることとそうでないことがあるのか。
シャムレイはずっとそれを疑問に思っている。それはシャムレイから彼女自身への消えない質問だった。
そうして、おぼろげながら彼女が考えたのは、自分はきっと覚えていたいことだけを瞳の中の暗闇に封じ込めたのだ、ということ。
そして覚えていたい、と思うのは、それはどれほど小さく儚くとも、この冷たい器に宿った心、なのではないか――
そう思った。
だから、シャムレイはある収穫期の直前、八人のバラストグールを獣肉に仕立て上げたばかりのザルザロスに、その仮定を打ち明けた。
記憶を取捨選択すること。
それができるということが、つまり、あるはずのない〈器〉の心の存在証明なのではないか、と。
彼女の問に、ザルザロスは読みかけの本から顔も上げずにこう答えた。
「ありえない」
そうか、とシャムレイは納得した。
己が主に断言されて、疑問を挟む人形はいない。
主人がこう、と言ったらそうなのだ。それ以上、思考する価値はない。
だからシャムレイは人形にも心が宿るのではないか、などという考えは捨ててしまった。
これからきっと、それを拾って確かめることもしないだろう。
だから、この器の中で今、わずかに起きている振動のようなこの気配、これも感情では決してない。
シャムレイはクリスタルで出来た瞳を緩く背後に流した。
〈フーファイターの間〉を出て、シャムレイはザルザロスと、主の対戦相手であるバラストグール、そしてその所有物である奴隷人形を戦場へと誘っているところだった。
金髪の奴隷人形、確か〈エンプティ〉という固有名を瞳に刻まれた少女奴隷は、黒髪の同胞と視線が合うとまんまるな目で見返してきた。何度かなにか言おうと口を開きかけていたようだったが、シャムレイはそれを気配で拒絶した。
あう、と彼女の気圧に呑まれたエンプティはおずおずと真嶋慶のそばへ近寄っていき、何か話しかけたり質問したりしているようだ。真嶋慶も、それにぼそぼそと小さな声で答えている。視線は前を歩くザルザロスに据えながら――しかしシャムレイが気に入らないのは、真嶋慶の敵意などではなかった。
細く息を吐きながら、思う。
人形は主人の許可なく質問するべきではない。シャムレイもザルザロスからそう固く厳命されている。わずかにバラストグール収穫後の晩餐で会話することが許されているほか、シャムレイにはなんの発言権もない。
そのことについてシャムレイにはまったく不満などなかった。なぜならそのルールのおかげで、シャムレイはほかのどんな人形よりも強く重く、主の勝利を願えると信じているからだ。
主人の敗北と脂貨への変化を舌なめずりして待ち構えるなど、はしたない。
それに――奴隷人形シャムレイのたったひとりのマスターは、誰にも絶対、敗北を喫したりはしない。
だから、シャムレイが喰らうのは、愚かにも主の前に立つという過ちを犯した悪霊の肉だけだ。
――なのに。
このエンプティというスレイブドールは、当たり前のように己がバラストグールに口を利いている。友達か、兄妹か、あるいは――恋人のように。
それが主の勝利まで敬虔なる沈黙を貫き続けるだろうシャムレイという器をわずかに振動させていた。人間に置き換えれば、それは『虫唾が走っていた』とでも言えたかもしれない。
彼女には心があるのだろうか。
そんなふうにシャムレイは思わない。なぜなら人形に心など宿らないと主は答えてくれたから。
ザルザロスの言葉だけが、シャムレイの全てだった。疑うことも逆らうことも、彼女は知らないのだ。
〈フーファイターの間〉から、長く考え事をしてしまうほど続いた廊下の果てに一つの観音開きの扉があった。誰かの脳髄の中から引きずり出してきたような奇形のノブを掴み、開く。
「ここが、勝負の舞台になります、真嶋慶様」
主へと向かわない言葉は、高く広い空間に軽く響いて消えていく。
開け放たれた先は、蒸気船のデッキを三層ぶち抜きで作られた船内図書館だった。四人は二階のバルコニーにいる。回廊が壁に沿って続き、直線で象られた本の森が左右に広がっていた。下階はドミノのように本棚が続いており、ところどころに読書用のテーブルが設置されている。そこに次に置かれるものが名著か、それとも勝負か、それは誰にも分からない。
「いるいる」
嬉しそうにザルザロスが、手すりに両手を突いて一階を見下ろした。そこにはすでに招待されたバラストグールたちが散らばっている。下から上を見る目は燃えたもの、怯えたもの、楽しんでいるもの、馬鹿にしているもの、様々だった。
つい先刻、慶が開いた宴に参加していた者たちも多い。軽く何人かが手を挙げてきたが、慶は知らんぷりをしている。
「どうだ真嶋、燃えて来るだろ。雁首揃えてカモどもが、俺とお前に絞められるのを待ってるぜ」
「狭山」
「ん?」
「お前、こんなこと何度もやってるのか?」
「ああ。お前みたいに手こずる雑魚を相手にしたらな」
ザルザロスは気持ち良さそうに呼吸していた。晴れやかな表情は、とても真剣勝負の前とは思えない。ピクニックにでもいくかのような軽やかさだ。
慶はそんな旧敵に不審感を覚えないでもなかったが、しかし、今のところ何か仕組まれているとも思えない。〈シャットアイズ〉そのものはシンプルな|題材(ゲーム)だし、慶がやったことといえばまだレート選択の杯を取っただけだ。
小杯――廊下でエンプティにも囁き声で尋ねられたが、もっとも低いレートを選択してバラストグールどもに挑むに当たって、慶なりの考えはある。それがすでに釈迦の掌の上、ザルザロスに踊らされているのかもしれないが、これ以上のことは勝負が始まらなければ不確定要素が多すぎて推測の立てようがない。
慶はあらためて、戦場となった図書館を見渡した。
「……どうして船の中に図書館なんかが?」
「ここにあるのは本じゃない。譜だよ」
「譜?」
「この船の所有者がやってきたギャンブルの結果が紙にされてある。六戦目の〈フーファイター〉は必ずそいつになるようになっててな、だからここに残ってるのは最終戦まで勝ち残ったリターナーどもの記録だよ。よく知らねぇが」
「なんで。気にならねぇのか」
「俺はフーファイター。〈あいつ〉には挑まない……やらない強敵との勝負なんざより、目の前の雑魚のバラし方。そうだろ? ――考えるのと動くのじゃ千と一ほども違う。終わった勝負の残骸なんか置くやつの気持ちは分からんが、衝立代わりになるからな」
ザルザロスは柱のそばの棚に歩み寄り、そこにぎっしりと詰まっていた牌ケースを掴んで引っ張り出す。緑色の猟師服姿で革のケースなんかを持っていると、診察道具を携えた小さな国の青年医師のようにも見える。だが、その顔に浮かんだ冷たい薄ら笑いはとても教養がありそうとは言えなかった。
「牌はこんなふうに空いてる棚にいくらでもある。仕込み牌なんざ使ってるやつはいねぇが、気になるんだったらいくらでも交換しな。博打の道具は消耗品だが、ここには無限にあるから気にすんな。……そうそう、言い忘れてたがお前が選んだレートは一戦十万、俺が百万だ。じゃ、そういうことで」
じゃあな、と軽い口調と従者のシャムレイを残して、ザルザロスは譜の森の奥へと消えていった。回廊の先で、彼が壁にかかったベルをカランカランと鳴らすと、階下のバラストグールたちも目が覚めたように動き始める。
慶はしばらく、その場で固まっていた。
「慶様、あの、百万って……?」
「……アノヤロー」
慶は拳を作って、それを欄干に叩きつけた。錆びて赤くなり剥げている鉄柵がびりびりと小さな落雷に震える。
「ガキっぽいことしやがって……」
だが、と慶は思う。掌に握った土を目に振りかけるような、つまらない小細工だ。しかし、……狭山らしい。
ふうー、と白い息を吐く。
おもしろい。
「慶様、これからどうしましょう?」
エンプティが、早くも各自で牌を卓に散らし始めた階下の様子を見ながら尋ねた。
これはバトルロイヤル。
誰もが誰ともぶつかり合う。
「慶様が十万脂貨、ザルザロス様が百万脂貨。こちらが十勝しなければ、ザルザロス様の一勝に届きません、よね?」
「その代わり、やつはなかなか負けられねぇよ。負けたら一気に差が開く。あいつのことだ、どの勝負も吟味して時間を喰う。モタモタしてる間に俺が連勝すればいい。そういうことだろ? ……シャムレイ?」
シャムレイは主以外の男に話しかけられたことに不愉快そうな顔をしていたが、口を開いた。
「はい。我が主から、真嶋様に何かを尋ねられたらいくらでも答えてよいと仰せつかっております。――真嶋様がおっしゃっているのは、バラストグールたちと行う〈シャットアイズ〉の、レート以外のルール変更は可能か、ということでよろしいですか」
「ああ、出来るんだろ?」
「可能です。ゆえに、ザルザロス様は先に二勝した方が勝利の一勝負三ラウンド制を設定されていますが、真嶋様は一回戦のみ、といったことも可能です。逆に不安なら七回戦にしても構いませんし」
「下の連中、腕利きが揃ってる」
慶は欄干に背を預けながら言った。
「もう何人か狭山のところに向かったな。相手が強かろうが弱かろうが、稼げる方にいく――それが賭博者だ。狭山のやつも俺と同じ〈リターナー〉級に噛みつかれたらモタモタするだろ。あるかもな、七回戦――その間に俺は全勝で七十万脂貨、やつも勝って百万脂貨――シャムレイ、この勝負の制限時間は?」
シャムレイが給仕服のポケットから、小さな銀の針盤を取り出した。一本だけの長針は二を指している。
「それが十三になるまでが、勝負の時刻と相成ります」
「全勝なら追いつけないこともないな。よし」
「お言葉ですが……」
雪で砥いだ銀の針のような、鋭い視線で黒髪の向こうからシャムレイは慶を睨んだ。
「あなたには不可能です」
「賭けるか人形?」
答えを持たないシャムレイを、慶は牌ケースを棚から引きずり出した勢いのまま振り返って、微笑んだ。
「――俺は勝つ」
その姿は、彼女の仕える賭博師に、よく似ている。