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5:理想の明日はその背にあり

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3年ぶりの我が家だった…‥半ば家出するかのように家を飛び出した
私にとってこの家は捨て去りたい過去も同然だった。ゴミ屋敷とまではいかぬまでも、屋敷の中は暗く、陰鬱な空気が篭っていた。執事や使用人すらも雇う金もなく鬼家の貴族としてのメンツを保つためだけの最低限の維持費と生活費を
鬼家の本家より与えられているだけのこの惨めな暮らし……私はこんな生活がイヤでイヤでたまらなかった。一般的な甲皇国の平民に比べればまだマシなのかもしれない。だが、何処の甲皇国の貴族で骨の神ダヴの石像すら与えられない貴族が居るのだろうか。甲皇国の貴族としてダヴの石像の無い庭を持つことは 
一年も身体を清めていない悪臭を放つ男に陵辱されることに等しい屈辱だ。
鬼どころか、骨の一族としてすら生きる権利を奪われつつある こんな惨めな暮らしの何処に
生きる希望を見いだせるのだろう。私は、この絶望の家から逃げ出したのだ。

だが、過去はいつまでも私にしがみついてくる。
私は意を決して、屋敷に足を踏み入れた。
私の帰りをお帰りと言って迎えてくれる者など居るはずも無い。
分かりきっていたことだ。だけど、心に去来する一つの感情があった。

(……これが寂しいってことか……)

突き刺さるような胸の痛み。冷たく、内側から刃物で肉を切り裂かれるような痛み。
私はまるで他人事のように想った。もしも、自分事だと想ったのならきっと耐えられないと想ったからだ。
もっともこの家で過ごしてきて感じた負の感情はたったこれ一つだけでない。

3年前……私はこの家で過ごして生じるありとあらゆる負の感情に悩まされていた。
怒り、憎悪、悲しみ、絶望、苦しみ……それらの感情を受け止めた私の身体は私に女としての機能を止めさせた。
私の足はケイト・シバリンの許へと向かっていた。始めて出会った時と違いケイトと会うのもお忍びではなくなっていた。
というのも、アルフヘイムとの戦争以降、皇太子カールがケイトと同族の魔女オーボカ・ターを重宝したのがきっかけとなり、
これまで虐げられていた魔女の地位が向上したことがきっかけだった。
ただし、他者からの暴力……中でも緊縛に誘発されるマゾヒズムを快楽とするケイトとしては
そのせいで連行されてからの拷問を受ける機会がなくなって かなり落ち込んでいたようだったが。
(元々ケイトへの拷問は中断される予定だったらしい。というのも、
有刺鉄線による緊縛拷問で数え切れぬほど 快楽の絶頂のあまり果てたらしく、
身体中 血まみれと……その…………がまん……じる……で股を濡らしながら緊縛拷問をねだる
彼女を前に尋問官が逆に発狂してしまい、拷問する価値無しと判断されたそうだ。)

あの家の居心地が悪く、よく私はケイトの家に泊まり込むようになっていた。
母はどうせ父のことが心配で、私が連絡も無しに外泊しようと気にも留めていなかった。
後に、これは私の勘違いだったことが分かるが、それは先の話である。

過度の精神的苦痛による拒食症、それに併発される生理不順と診断された。
元々、子供など残すつもりなどなかった私にとってこれは逆に吉報だったと言えよう。
父があれほど欲して止まなかった名誉や富も全てはゴルトハウアー家の存続を願ってのものである。
子供の産めない身体になって父を悲しませることこそが、私たちを苦しめてきた父への復讐になると思ったのだ。

「おぬしの気持ちは分かった……だが、このままじゃと死ぬぞ!」
「……構わないわ……私が死ねば ゴルトハウアー家は途絶える……
あの父に私の苦しみを思い知らせるにはこうするしかない……それにね……」

私は股に手を当てて囁くように言った。

「生理が来なければ嘆かずに済むもの……あの苦痛に喘ぐ中……ここから流れる血を見て
私は絶望させられるの……
「嗚呼………この痛みはこの薄汚い血のせいだ……あの敗北者の父の血が入ってるせいだ。」って。」

後になってケイトが語ってくれたのだけれども、
あの時の私は楽しそうに微笑んでいたらしい。まるで、子供を授かった母親のように嬉しそうに。
言葉とは裏腹に嬉しそうに喜ぶ私の表情に心配し、ケイトは頬を震わせ、必死に説得しようと試みた。
ケイトは涙を堪えきれなくなると頬が震える癖がある……いつものケイトならすぐさまそこで
涙を流すのだけど、あの時のケイトは涙を流すことなく私の両腕を掴み、怒鳴った。

「……おぬしが父上を許せないのは分かる………!! 
だからこそ、おぬしは自由になりたいと言ってたではないか!
父上に縛られたくなんかないと……!! 今のおぬしは自ら父上に縛られる生き方を
望んでいるようにしか見えぬ!! どうしてなのじゃ……!!
辛い過去なんかに縛られず、未来を見て歩くと私と誓った……あの言葉は嘘だったのか!!」

ケイトの両目は訴えかけていた。怒鳴っているというよりも、懇願に近いものだった。

「……これは私が決めた生き方よ。」

ケイトはうなだれながら、傍にある扉を開けた。そこに居たのは母と……そして、父だった。

「どうしてなの……ケイト……!」
「……すまない」
父と母には目もくれず、私はケイトを睨みつけた。
ケイトと私は親友だった。だからこそ、父と母にも話せない……
いや、話したくないことだって話せたのだ。
父はおろか私のことを見向きもせず、ただ病床に伏せる
父の介護に勤しむ母なんかに私の言葉を聞かれたくはなかった。

「……あなただから……話したのに……!」
「……許して……アリエル……」
私はケイトへの深い失望と怒りに震え、彼女の両腕を掴み、壁へと背中を叩きつけた。
今でこそケイトの気持ちは分かる。父と母への深い憎悪と失望に支配されていた私を
何とか立ち直らせようとケイトは必死で苦悩していた。だけど、ケイト一人ではもはや
支えきれぬほどまで私は彼女を苦しませていたのだ。そんな彼女はもはや父と母に
娘の苦しみを話すしか解決出来ないと思ったのだ。
だけど、あの時の私はそんなケイトの苦しみを理解出来なかった。
ケイトの優しさを私は裏切りとしか捉えることが出来なかったのだ。

「……ざけないでよ……!!ケイト!!どうしてこんな……ッ!!」
「ゆるして……ゆるしでっ……アリエルっ……!」
ケイトは震えていた。嗚呼、本当になんて申し訳ないことをしたのだろう。
ケイトはケイトなりに私のことを親友だと想ってくれていたのだ。
そして、その行為が逆に私を傷つけたことをひどく後悔していたのだ。
あの震えはそうだったのだ。でも、あの未熟な私は彼女のそんな震えを理解してあげられなかった。

「アリエル!!!」

暴れ狂う私をケイトから引き剥がすかのように、母は私を突き飛ばした。
力なく私は机の上に並ぶ瓶や書物をあちこちに飛ばしながら仰向けに転倒した。


痛みを感じる暇などなく、私は母に胸ぐらを掴まれ
そのまま引き起こされ、先ほどのケイトと同じように壁へと背中から叩きつけられた。

「あぁぁああっ……!!ああぁっ!!」

先ほどの自暴自棄な私の言葉を涙を噛み締めながら聞いていたのだろう。
母は声にならぬ声を発しながら、私の胸に頭突きを食らわした。
そして、悶絶する私の胸の中で泣いた。

私は母から始めて殴られたことにショックを受け、呆然としていた。

今でこそ分かる……あの時の母の苦しみが。母も朽ち果てていく父の面倒で一杯一杯だったのに、
私は一切助けようともしなかった。
頼れる筈の娘からも邪険にされ、相談出来る相手も居らず それでも母は私に負担をかけまいと
必死に耐えていたのだ。あの娘が苦しいのはあの娘のせいじゃない。親である私たちの不甲斐なさだと……
愛した夫である筈のルトガーの増長を止めきれなかったのは自分の不甲斐なさのせいだと…‥
母は自分を責めていた。

その時、私は遠目に父の視線を感じ恐る恐る彼の顔を見た。
不思議なことにその時の父の顔を私は覚えていない……
目を見開き 怒りを堪えていたようにも思うし……
哀しみのあまりに涙を堪えていたようにも思うし……
申し訳なさから私をただ呆然と見つめていただけだったようにも思う。

ただ少なくとも私は父の表情に戦慄し、震え上がったことは確かだった。
私はその戦慄から来るあまりの恐怖に尿を漏らした。
それに気づいたのは股に焼けるような熱さを感じてのことだった。
まるで、血のように赤みを帯びた黄色い尿の海……気付いたことすら
気付かないほど私は状況をなかなか理解することが出来なかった。
母も尿塗れになりながらも私の胸の中で泣いていた。
私はそこで初めて泣いた。母やケイトを悲しませてしまったことではなく、
赤みを帯びた尿の中で  あの恐ろしい父と同じ血が流れているのだと改めて思い知らされた絶望感から
私は泣いた。私の反抗などあの父の前では無力なものだったと畏怖したのだ。


その日以来、私はケイトから処方された薬膳料理を貪るように食べた。
反省したのではない。一刻も早く身体を治し、あの父の居る家から出ていくために。


(……っ……なんでよ……なんで今更になってあんな想い出を……)

時間にしてほんの数秒だったのだろう。
だが、私の脳は一瞬にして3年前のあの日のことを心に思い起こさせていた。
私が父に初めて恐怖したあの日のことを……


私は振り返り、外へと続くドアノブに手をかける。
いっそのこと このまま引き返してしまいたかった。忌まわしき過去などもう忘れてしまえばいい。
今はただあのシュエンの許へと帰りたい一心だった。

(……シュエン)

私の告白に対する彼の返事の結果は知る由も無い。
だが、たとえどんな結果であろうが受け入れるつもりだ。
たとえ、私が彼の傍にいる女性としてふさわしくないと
彼から告げられたとしても 私は何の後悔も無い。ただ、シュエンに出会えたことが嬉しかった。
恋人としては無理だとしても、せめて親友として彼の傍には居たいと想っている。
そうなった場合、私も彼も別々の道を歩んでいくのだろう。
それでも、私はシュエン……貴方のことが大好きでした。

あなたに出会えて私は人生の味を知ることができた。
絶望ではなく、希望の味を。

誰の目に見ても、あの時の私は過去ではなく未来へと引き返すべきなのだったのだろう。
今でも思う……もし、あの時 引き返していたら……
あの時、私の思い描いていたシュエンとの日々は 今 私のいる此処にあったのだろうかと。
もし、それが叶ったのだとしたら何故 私はあの時、未来をつかもうとしなかったのだろう?

気が付くと私は未来へと引き返すことなく、父と母が居る寝室へと向かっていた。忌まわしき過去……遠ざけたかった筈の過去のある寝室へ……。
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