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赦してはいけない、光

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「奥様、なかなかわかってくれませんねぇ」



 蒸気船の舳先、甲板の最先端の欄干で、真嶋慶は赤く染まった海を眺めていた。
 どう見ても夕焼け空を照り返しているにしては赤すぎるのだが、気にしている様子もなく、かといって気づいていないわけもない。
 紐の切れた草舟のような視線が、進みゆく船に打ち寄せては砕け散る波濤を追っている。
 そんな主人の憂鬱症など見飽きた絵本のように無視してエンプティは、身を乗り出して欄干にもたれている。

「せっかく慶様がこんなに頑張っているのに……」
「思ったよりも、怒ってたな」

 他人事のように慶は言う。指を突き出して、海原を飛ぶカモメの数を検めている。だが、それにもすぐ飽きたのかやめてしまった。
 エンプティは、隣にいる慶を見る。

「そういえば、慶様と奥様の馴れ初めを聞いていませんでした。教えてください」
「言ったって意味ねぇよ、今更」
「そんなことありませんよ、それにね、慶様は私のわがままを聞く義務があるんです」

 ずいっとエンプティは、ガラスのように割れた模様の刺青が刻まれた顔を慶に近づける。
 踏みにじられても咲く向日葵のように、それでいてどこか太陽のように逆らいがたく、彼女は己が問いかけを引っ込める気はなさそうだった。
 慶は少し視線を切ってから、語り出す。

「……馴れ初めもなにも、べつに、なにもない。好きだ嫌いだをやってないからな」
「ほほう。というと? 幼馴染がそのままずるずると惰性で一緒になったけど、やっぱり家族になるとなにかしっくり来なくて……みたいな?」
「おまえどこで覚えてくるんだそんなの」
「答えてくださいってば」
「……あいつは親父が連れてきたんだ。結婚しろってな。お互いに金持ちの子供同士、くっつけておけば何かと都合がよかったんだろう」
「それって……政略ケッコン、ですか? バ、バカな、慶様に限ってそんな……とてもいいところのご子息には見えな……あ、いえ、すみません。続きをどうぞ」
「俺ともあろうものが、親の命令で結婚だからな。おもしろいだろ?」
「その通りですね!」
「……おまえ、容赦を知らんのか?」
「まあまあ。でも、最初はそういう、仕組まれた出会いだったとしても、段々好きになっていったんでしょう? だから、こんなところまで、やってきたんでしょう?」
「いや」

 慶は答えを探すように、波間に視線を投げている。


「だいぶ後に、読んだんだ」
「え……?」
「日記……あいつが死んで、かなり経ってた。どっかで誰かと勝負しにいく途中だったのは覚えてる。それが誰だったのか、思い出せない。それでも俺は寝台列車のベッドに寝転んで、到着まで時間があまりに余って、それまでずっと先延ばしにしてたものに手を出した。自分が読んでいいのかどうか迷ってた、そんな言い訳ばかりしてた。でも、あのとき不意に読んだんだから、俺はきっと、いつも持ち歩いてたんだな。あいつが死んでからずっと」
「日記……ですか」
「あいつ、几帳面だったんだな。つまらん毎日でも、宝物みたいに書く。俺には理解できない。俺にとっては、その一日に値打ちがあるかどうかは、勝ったかどうかが全部だ。負けりゃあ振り返りたくもない最悪の日だし、勝つも負けるもしなかったのなら、それは自分が存在してないに等しい日……」
「それは、寂しい、考え方ですね」
「そうなんだろうな。だから、最初はパラパラとめくるだけだった。俺を待っていたけど、帰って来なかったから、一人でごはんを食べた。そんなことばかり延々と書いてあった。もういい加減に書いても無駄だ、それが普通で、書き留める価値なんてないんだって気づけばいい」

 慶の目が、何かを懐かしむように、悔いるように、深い青色に沈み込む。顔を伏せ、目を閉じて、記憶を掘り起こす。せいぜい、薄布一枚越し程度にしか覆えていないその光景を。

「努力したって、無駄なのに。無理やり一緒にされて、お芝居以上になれるわけがない。それを意地になって、どうしようって言うんだ」
「……慶様」
「あいつは俺を待ってた。あの日も、俺を待ってた。俺は、あいつを道具扱いして、存在も思い出さずに、勝つか負けるかにのめり込んでるだけだった。言い訳だけどな、俺は、生きるってそういうもんだと思ってた。なんにも報われずに生きていくのが当たり前で、期待するやつがバカなんだ……欲しいものがあれば、力ずくで手に入れなくちゃならない。どんなに汚れたやり方でも、勝たなきゃ……なんの値打ちも、ない」
「……賭博師、だから?」
「負けられなかった。負けた後、どうすりゃいいのかわからない。だったら勝てば簡単だ、全部手に入れて、全部守れる……俺が守りたいもの、傷つけられたくないと思うものすべて。勝てばいいんだ、勝てば……いったい誰が俺に吹き込んだんだろうな? そんな都合のいい嘘を」

 慶は身体に巻き付いた見えない鎖を伸ばすように、うーんと背中を広げた。心地よさげな、失望と幻滅の微笑を浮かべて。

「恨んでいてくれれば助かった。憎んでくれて構わなかった。……嘘でも自分を待っててくれてたやつを、この手で死なせるよりはずっとラクだった。ああ、最悪の気分だったよ」

 首を振り、欄干を握り締め、慶は呟いた。

「だから、俺は乗ったんだ」



 この船に。
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