引きたくないカードほど
見覚えは、ないはずだった。
ラバー造りの柄は握ってみると安っぽく、玩具のようだった。一度、森にでも捨てられたのか土に塗れていたのをボロ布で拭き取ったかのように汚れが付着している。
用意された小道具でもなければ、指で押せば刃が引っ込むレプリカでもなかった。ナイフの刀身は血まみれで、濯ぎさえもしなかったようだ。刺された人間の血が、刀身を押し返そうとしているかのように、べっとりと張りついている。
リザナは、ふと刀身が細かく振動していることに気づいた。わずかに残った刃の下地に、自分の瞳が震えながら映っている。ナイフをテーブルに置いて、掌を眺めてみると、小刻みに痙攣していた。
なぜ自分の手がぶるぶると揺れ続けるのか、静かに考えてみたが、答えはやはり出なかった。
知らないことに怯えるはずもないのに。
リザナはツ……、と対斜面に座るアルクレムを見やった。
「覚えていません。このナイフで本当に、私は自殺した……の、ですか」
「もし、そうだとしたら、なんで自殺しようと思ったんだろうな」
「え……」
「理由もなく自殺する。どうなんだろうな、そういうやつもいるのかな。自分がそういう人間だと思うか?」
アルクレムは静かに問いかける。
「俺は、あんたがどうして死んだのか知らない。正解はここにあるけどな」
といって、胸ポケットを指差す。
「だから、俺からは何も言えない。知ってることは教えてやれるけど、俺に期待するのはやめたほうがいい。俺はあんたが死んだとき、そばにいなかったし、べつに俺が殺したわけでもない」
「……そんな問いかけを、どうやって解けばいいんです。なんのヒントもない」
「そうだな。ま、諦めるしかない。切羽詰まった土壇場で、ヒントなんてないさ。最初からアテにしない方がいい。とりあえず、ゆっくり考えなよ」
そう言って、アルクレムは勝手にヴェムコットのティーセットから紅茶を淹れて、リザナの前に置いてくれた。
他のメンバーが戻ってくる気配は、まだない。
アルクが自分も紅茶を淹れて、ちびちびと砂糖を正確に小さじで掬い取って投入しようとしている瞬間をわざと狙って、リザナは言った。
「あなたは、自殺しようと思ったこと、ありますか?」
砂糖はアルクレムが望んだよりも三倍増しで紅茶に沈んだ。
うーん、今かな、とぼやきながら、アルクは椅子に座り直し甘すぎる紅茶のカップを指で弾く。
「死にたいなんて、毎日のように思ってたよ。俺の人生は、つまらなかったからな」
「そう、ですか。どんなふうに?」
「どんなふう? そりゃ、思ったように生きられないからさ。俺にはなんの取り柄もなくてな……世の中の期待に合わせて、そつなく、カッコよく生きようと思ったんだけど、ダメなんだな。俺は何があってもボタンをかけ違え続けなきゃいけなかったんだよ」
「それで、死にたくなった?」
「死ななかったけどね。俺は死ぬのが怖かった」
アルクは紅茶をすする。うえ、と甘すぎる紅茶に舌を出したが、我慢して飲み進めた。
「ま、怖くても死んじまうんだけどな。……あんたもそうだ。自殺にしろ、他殺にしろ、このナイフであんたは死んだ。それだけは間違いない」
「……私は、死にたかったのでしょうか。あの人は、私が自殺したから、生き返らせようとしてる……の、ですか」
「考えてみなよ。どうせいつか、みんな考えることもできなくなるんだ」
あくびをするアルクを、リザナは観察している。眠そうに見えるが、目尻に涙は輝いていなかった。
「ま、でも、少しヒントをやろうかな」
「……ずいぶんともったいぶりましたね」
じとっとリザナに睨まれて、アルクレムはへらへらと笑う。
「なーに、これがゲームマスターの楽しみってやつよ。そんな怒るなって。よし、じゃあ教えてやる。――あんたが死んだ日、どうやって過ごしていたか」
リザナはぽつん、と雨が降り始めた瞬間のように聞き返した。
「死んだ日……」
「ああ」
アルクレムは熟練した詐欺師のように空中を見上げながら、眼を細めて語り始めた。
「天気のいい日だったな。朝からよく晴れてた。その頃はまだ俺も生きてたから、覚えてるよ。抜けるような青空の、よく乾いた四月だった。あんたと家族は安いボロアパートに暮らしてて、あんたはその日、一人で目を覚ました。家族は旅行に行っていて、何日か前から不在だった。その日は、その家族が帰ってくる予定になっていた。だからあんたは少し寝坊して、昼ちょっと前くらいに布団から抜け出した。ま、だらけた休日ってやつだ」
「…………。はい?」
「あっ、えーと、その……ゆ、優雅なおやすみの日に、普段から溜まっていた疲れを癒やしつつ、あなたはほどほどの頃合いにお目覚めになられました」
「はい」
「…………。うん、ま、そういうわけで……家族が帰ってくるのは夜のはずだったから、あんたは地元の商店街で、夕飯の食材を買い揃えていた。ま、これでその夜、自殺したというなら、相当いろいろ溜め込んでいたか、なにか耐え難い現実にぶち当たったんだろうな。
とにかくあんたは買い物を済ませると、アパートに帰って、テレビをつけて、のんびりと茶菓子をかじりながら、時間を潰していた。やけに時計の音が耳に気になりながらな。寂しい時っていうのは、いろんな物音が聞こえるもんだ。
そしてあんたは時計を見て、少し夕飯を作るには早すぎる時間に、台所に立った。あんたは親からきつく礼儀作法について叩き込まれていたから、掃除洗濯料理、何をやらせてもそつなくこなせた。
手際よく三品綺麗に揃えていったが、不思議とその料理は、帰ってくる誰かを迎えるには少なかった。
……あんたは知っていたんだな、誰かさんが今夜、帰ってこないかもしれないって。
それもそのはずで、もう何度もあんたは今夜帰ると約束されていたのに鳴らなかった呼び鈴を知ってた。
だから習慣で、もう料理は一人と半人前しか作らないことにしていた。だって、もし帰ってこなければ、一人で食べ切れる量にしておかなくちゃいけないし、帰ってきたら、いつも少食な自分がすくなめによそえばいいだけだから。
そしてやっぱりその夜も、あんたは一人でごはんを食べた。
箸を持つ手は油が切れたみたいに動きが悪かったし、崩して座った膝は古傷のように痛んだ。
どこかから聞こえてくる笑い声が、自分を責めているような気がして――
習慣になっていた日記を、できる範囲の量だけ書いたら、時間はもうすぐ日付が変わる頃合いだったが、あんたは全然、眠くなかった。眠ろうとも思えなかった」
アルクレムは語るのを止めた。
リザナは、じっと暗闇を見つめている。その船室には、いつでも見つめられるように、高質な浄闇が周囲に充満していた。
「それから」
「あんたは死んだ。なぜだろう。それが問いかけ。もうヒントはない」
アルクレムは深々と椅子に座り直した。
「これは俺の勝手な想像だけど……きっと、死ぬのはそんなに嫌じゃなかったと思うよ、あんたは」
リザナは答えなかった。だがその瞳に、拒絶や否定の彩眼は浮かばなかった。
それから、しばらくして、言った。
「信じられないんです」
「ん?」
「何もかも」
視線を逸らし、リザナは己の心を見つめている。
「誰かが私に親切にしてくれても、裏があるのではないかと思ってしまう。いつか平然と裏切って、積み上げてきた伏線を回収して、醜い真実を打ち明けてくるのではないか……そう思うと、不安なんです。あれほど私に尽くしてくれたヴェムコットでさえ……私は心から信頼していないのかもしれません。私は、ひどい女です。
だから、思うんです。
そんな女が、生きていた頃は違っていたとは思えない。
私は、この船で目覚めてから、何一つ変わっていない。一秒だって時間が進んでいないんです。死んだ心が凍っているだけ……
だから、とても信じられません。
現実から何がなんでも逃避しようとする激しさも、
……死ねばきっとこのつらさをわかってくれると、誰かに期待できる優しさも、
私には、ない……」
リザナはテーブルのナイフを手にとって、その柄尻をくるりとアルクレムに差し出した。
「私が自殺したか、と質問しましたね。
答えは、ノーです」
ぱちぱち。
ぱちぱちぱち。
アルクレムが小さく拍手している。感じ入ったように何度も頷き、胡散臭い微笑みを浮かべながら。
「当たり前だよな。そうとも、あんたが自殺するはずがない。……あんたは、俺のお仲間さ」
「……では、殺されたのですね、私は」
「ああ。その夜、あんたはいきなり玄関をぶち破られて、何人かの男どもに囲まれ、このナイフで思いっきり刺し殺された」
アルクレムはこともなげに言って、ナイフを鞘に仕舞った。それきりもう二度とそれを彼女に見せることはなかった。
リザナが、ふと気づく。
「……答えを見て確認しなくていいのですか?」
「え? いや、言っただろ。……正解は、『ここ』にあるって」
そう言って、ポケット越しに自分の胸を指し示したアルクレムと、その得意げな表情に向かって、リザナは死体のようにどろりと蕩けた極寒の視線を向けた。さすがにアルクレムも震え始める。そのままポケットに手を差し込み、何かをびくびくしながら取り出した。
「そんなに怒るなよ……ほら、いいものやるよ」
アルクレムがテーブルに置いたそれは、照明の光を跳ね返して悪夢のような虹色に輝いていた。
爪(プロング)につけられた宝石に亀裂が入り、そこから入射した散乱光が万華鏡のようにその結晶を輝かせてしまっている。
だからリザナがその刻印に気づいたのは、それを手に取って見てからだった。
指輪だった。
アームの裏に、M.Mと刻まれている。
「え……」
真嶋深癒(まじま みゆ)。
それは記憶ではなく、連想。
しかし、
当たってしまえばもう、偶然だろうと、必然だろうと、関係がない。