ボディポーカー
カードを切る音がする。リザイングルナは、その音を聞いて自分が眠りかけていたことを知った。一瞬の睡魔だったが、何か長い夢を見終えたばかりのような気がする。消毒薬のにおいを嗅いで、自分が医務室にいることを思い出した。
「大丈夫か?」
カードを切る、どこか温和で気弱そうな雰囲気の男が尋ねた。テーブルを挟んでリザナの反対に腰掛けている。カードの山札を置くと、おもむろにリザナの右目に手を伸ばし瞼を広げてきた。リザナが嫌がって顔をそむける前に、ペンライトの光が瞳孔の奥を照らし終えていた。
「本当に眠いんだな」
と男が少し意外そうに言った。ペンライトを仕舞う服装は、しかし白衣ではなく黒の礼服だった。医師が結婚式場で、体調を崩した来賓の問診をしているように見える。リザナが銀の礼装だけあって、なおさらその印象は強くなる。
「少し休め、と言いたいところだがな……」
「必要ありません、ヴェムコット。少し、気が緩んだだけです」
「ならいいけどな。だが、無理はするなよ。ただでさえ、頻繁に記憶が飛んでるんだ。ゲームの最中に飛んだらまずい」
「今まで、そこまで短い期間で飛んだことはありませんから。……心配ですか?」
「当たり前だ。俺は君の主治医なんだからな」
ヴェムコットは、ちら、とリザナの銀の瞳を見る。そこの奥にあったものを表情によぎらせつつ、
「君はすでに、擦り切れている。再録しすぎたビデオテープみたいにな。この蒸気船に死者蘇生を願って訪れた賭博師(バラストグール)たちを、君はすべて葬り去ってきた。処刑人として。そんな生活、まともにやっててトチ狂わない方がおかしい」
「私、トチ狂って見えますか」リザナは猫を見つけたように微笑んだ。が、それは幻のようにすぐ消えた。
「それに、生活? ここに在ることを、そんな風に言う人を初めて見ました」
「何度も言ってる。君が忘れているだけだ」
吐き捨てるように言った後、少し悔いたように顔をしかめるのが、この男の善性なのだろう。
「すまん、言い過ぎた」
「構いません、事実ですから。……それに、私が忘れる度にあなたが教え直してくれる。それで充分です」
「……それが、辛いんだけどな」
ヴェムコットは深呼吸を一つつくと、卓上のカード束をポンと叩いた。
「じゃあ、始めようか。……ポーカーのルールは覚えているな?」
そう確認してくるということは、自分は今まで、それすら忘却し尽くして来なかったのだろう、とリザナは他人事のように思った。
「はい。五枚のカードを使って役を作る。自分のハンドに見合った額のチップを、相手と賭ける」
「ああ。奥は深いらしいが、シンプルなゲームだ。だが、普通は数字のカードを使うが……」
ヴェムコットは、山札をひっくり返して、扇状に広げてみせた。ほう、とリザナがその手捌きに目を瞠ったが、不器用な医師はそれに気づかない。
「このカードに数字はない。あるのは絵柄。頭部、胸部、右腕、左腕、右脚、左脚……この六種類のカードから五枚を配られて、役を作っていく。カードチェンジは一回」
「ペアを作っていけばいいんですね。……どの札が一番強いんですか?」
「頭部だ。そこから順に体の下のほうへさがっていく。さっき俺が言った順序に添って、左脚が最弱だ。だから、二人とも頭部のペアでショウダウンした場合は、他のカードの強さで勝敗を決める」
「捨てたカードは、相手に公開されますか」
「いや、されない」ヴェムコットがどこか嬉しそうな顔をした理由が、リザナにはわからなかった。
「だからそこから手を読まれることはない。自分から見せることは可能だけどな。そこは自由だ」
「お互いが同じ五枚をショウダウンするケースはありますか?」
山札の中身に関する質問。
「ある。山札は一種十二枚の合計七十二枚。それをワンゲームごとに更新する。だから対戦相手と同種同形の手札になる可能性は、ある。捨て札も公開されない以上、相手のハンドを札が配られた段階で読むことはできない。盤上ではね」
「その場合、掛け金は?」
「引き分けたら、掛け金は次の回に持ち越される。ディーラーに没収されたりはしない」
リザナは、医務室の窓をしばらく眺めていた。その表情に海の輝きが反射して瞬いている。やがて聡明な瞳が、ヴェムコットを顔を映した。
「ストレートは、ありますか?」
数字がないポーカーに、ストレートなどあるわけがない。
だが、ヴェムコットは言った。
「ある」
と。
「……つまり、作り方がある、と?」
「ああ。そして、そのストレートこそ、このボディポーカーでもっとも強い役になる」
ヴェムコットは六種の札を順番にリザナの前に並べた。
「ストレートは、この六枚を揃えること。だが、最初に配られるカードは五枚まで。だから……」
「追加ドローができるんですね。チェンジではなく」
「……ああ。その説明に入る前に、このボディポーカーをやる意味について説明する」
指を二本立て、ちょうどその頃、エンプティ=スレイブが真嶋慶にしたのと同じセリフをヴェムコットも同時に口にした。
「このゲームは、二段構えになっている」
「二段……」
「このポーカーは、次のゲームで使う資金を稼ぐ為の勝負だ。十三回戦し、終わった段階で次のゲームに進む。そこで決着がつかなければ、また資金稼ぎのボディポーカー。これを繰り返す。次のゲームでは、お互いが最初のゲームにそれぞれ決めた『切札』……それがなんだったのかを当てる」
ルールの意味を吟味しているリザナを、父のように見守りながら(それほどの年齢差はなかったが)、ヴェムコットは機を測ってから続ける。
「つまり、このボディポーカーでは、次のゲームで使われる為の、最初に自分が選んだ『切札』を隠しながらプレイする。資金を稼ぐよりも、むしろ本命をバレないように立ち回る必要がある」
「……その切札というのは、この六種の中から選ぶのですか?」
「そうだ」
「それと、追加ドローと、何か関係があるのですか」
「当然。隠したいものは、バレるものと相場が決まってる。……追加ドローをするための条件は二つ」
ヴェムコットは山札を切り直し、二つにカットし直した。その片方に指を置き、
「一つ、ショウダウンしたハンドの中に自分の『切札』を残し、その枚数が六枚を越えた時、一枚のドロー権利をプレイヤーは得る」
「……六枚」
その枚数にどこか重みを感じるのは、これまで戦ってきたリザナのボディに残る勝負の気配だったのかもしれない。もう一度、呟く。六枚、と。
「だから、たとえば頭部を切札に選んで、そのファイブカードをショウダウンしたとしても、一枚足りない。だから追加ドローが欲しければ、最低でも二回戦以上はショウダウンする必要がある」
「降りた時にハンドを公開したり、捨て札として切って切札を公開した場合は?」
「ドローカウントはされない。あくまで掛け金を乗せて、開けたカードに価値がある。それ以外は認めない」
「……どんな手を開けたのか、覚えておく必要がありますね。とても重要な、情報」
「それぐらい、ディーラーが答えてくれるさ。そこまで窮屈じゃない。だが、考えて使っていかなくちゃな。自分の開けた見せ札の中で、六枚以上あるのが一種類しかなければ、……切札はそれしかない」
「では、追加ドローなんて狙わない方が得策かもしれませんね」
「そうとも言えない。ポーカーで追加ドローできるというのは、これは暴力的な魅力だ。頭部五枚を開けられたって、こっちが右腕のシックス・カードや、全部位強奪のストレートをぶつければそれで全てひっくり返る」
「……次のゲームの資金になることを考えれば、たとえ本命を見抜かれる可能性があっても、潰しにかかった方が得な場合もある、と」
「そこが、駆け引きというやつになるらしいな。俺は、勝負事をしないからわからんが」医師は寂しげに笑い、それから表情を引き締めた。
「それに、ドローカウントを増やす方法はもう一つあるしな」
言って、ヴェムコットは五枚の札を山札から引き、その一枚を破り捨てた。リザナがじっとその挙動を見つめている。
「……何を?」
「手札の破棄だ」
ヴェムコットは千切ったカードを灰皿に流し込んだ。吸い殻は一本もない。
「たとえば自分がツーペアで、相手がワンペアだと確信している時。……そんな時があるのかどうか知らないが、手札から不要なカードを破り捨てたって構わないわけだ。そして、カードを破棄した状態でショウダウンした時、――勝敗にも、破棄したカードが切札かどうかも、どちらも関係なくドローカウントが加算される」
「……相手に、どのカードを破棄したのかバレずに?」
「バレずに」ヴェムコットは笑った。「ま、救済措置ってところだな。切札勝負だけじゃ、追加ドローできるかどうかの読みがあまりにも簡単すぎる。そこに不確定要素を混ぜるためのカード破棄だ」
「逆に、カードを破棄したせいで際どい勝負に敗れてしまうかもしれない……ですか」
「リスクからは逃げられない。俺には、このゲームを考えたやつがそう言ってるような気がする」
飲むか、と夢のようにどこかから出してきたホットミルクのカップを、ヴェムコットは患者に差し出した。彼女はそれを何かの儀式のような丁寧さで受け取り、口付ける。ふう、と温かい息をつく。それを見てヴェムコットは苦笑した。
「すまないな、毎回、長い話を聞かせて」
「いえ。ありがとうございます。とてもわかりやすかった。……話し慣れてるんですね」
「そうだな。君に何度、同じ説明をしたのか……俺も、忘れちまったよ」
白いミルクに、黒いパウダーをまぶし、軽く振ると水面が夜に近づいていく。白と黒の狭間を見つめながら、ヴェムコットは言った。
「なあ、リザナ。真嶋慶の欲しいもの、ってなんだろうな?」
「……さあ。生き返りたい、ただそれだけでは? ここにいても、いつか消えるだけですから」
「どうも、俺にはそれだけじゃないような気がするんだ。生きたい、確かにそれは凄く強い動機だと思う。息を止めて、時間を数えて、近づく死に面食らって慌てて息を吸うとき、俺達は思い出す。死にたくなんてないんだって」
ヴェムコットは、それがいつの記憶なのか、リザイングルナが戸惑いながら疑問に感じていることに気づかない。
「だから、生きていたいだけなのかもしれない。でも、俺にはどうしても、それだけの理由で、真嶋慶があの五人を倒せたとは思えない。セルディム、ノスヴァイス、ランキリフ、クォディーン、そして、ザルザロス。五人の領主を倒して、あいつは六時間後、おまえの前に来る。何かを手に入れるために。ほかにどうしようもなく、おまえの前に現れる」
ヴェムコットは、リザナを見た。
「真嶋慶が欲しいもの、それがどんなものにしろ、あいつが手にしていいものじゃない。死んだやつが生き返ったらルール違反だ。……だから君が止めろ。間違った願いを圧し折れ。それが終わったら、しばらく、何も考えるな。休息は必要だ。魂にこそ」
「……ヴェムコット」
リザナは微笑む。空になったカップを押し返しながら、ふいに視線を鋭利に磨く。剣のように。
「あなたに言われるまでもありません。挑んできたバラストグールを焼却処分する。それが、処刑人たる私の仕事です」
心配ですか、と呟くリザナに、ヴェムコットは顔を歪めた。共有できない痛みは、確かにどこかが軋むのだ。
「当たり前だ。もし負ければ……君は……」
「男の人は、みんなそうですね」
「え?」
「勝つか負けるか、努力すればどうにかなると思ってる。でも、私が女だからなのか、そんなことはありえないって感じるんです。こんなもの、どれほど頑張ったって……」
亡骸を見下ろす死神のような冷瞥がテーブルの上、カードの波に注がれる。
「ただの、裁きです。どうにでもなればいい。なぜ真嶋慶が勝ち残ってきたのか? いいでしょう。答えてあげます。賭博など、結局は綱渡りです。落ちればそれまで。何も残らない。男の人は強いとか、弱いとか、好きですね。でも、そんなもの、本当は存在しない。神に選ばれるか、見捨てられるか。少なくとも……私は選ばれて、ここにいる。だから負けたことがない。誰にも。一度も。これからも。どんなものにも」
「……リザナ」
「ただ、あなたの言っていることは正しいと思います。真嶋慶は死んでいる。何かを掴み取る手をもう彼は持っていない。だから、終わらせます。あの人の夢を、私が」
ふう、と息をつき、リザナは油断したような微笑を浮かべた。ヴェムコットが何も言えず凍結したことにも反応せず、
「ちょっと、眠ります。いつか、起こしてください」
それからまた、夢現に、覚醒と睡没を繰り返し、瞬きするたびに医師がいたりいなかったり、空のカップがあったりなかったり、どこまでが夢でどこまでが現実かわからぬまま、リザナはいつの間にか時計を見ていた。約束の時間まで、もう間もない。そろそろ行かなければ。立ち上がると、幼子に袖を引かれたようにふらついた。誰かに腕を掴まれて支えられる。ヴェムコットだった。
「ああ、……すみません、ありがとうございます」
「そろそろ時間だ。準備はいいか?」
「はい」覚醒の合間に、詳しいルールの復習や、テストゲームをしていたような気がする。
「大丈夫です」
「なら、行こうか」
「……あなたも来てくれるのですか?」
ヴェムコットは振り返って、何もかも理解している、悲しげな微笑を浮かべた。
「何を言ってるんだ、ディーラーは俺だぞ」