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幕間 予言の書とその解釈②

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IX章:3つの終末の書と新たな予言②


 フリーダの予言から350年後のPo.879年、また終末の書が世に出回る。教団でいうところの第二終末文書である。ところがこの第二終末文書については著者や成立経緯などが殆ど分かっておらず、執筆年とされる879年というのも文書の各都市への拡散を逆算して推定したものに過ぎない。これは350年経った時代でも人々が預言者フリーダの死を記憶していたことの何よりの証拠である。これは私の推測に過ぎないが、預言者に預言書を書かせたうえ、その身柄を秘匿し続けた組織がどこかにあったのだろう。念の為、いち司教として申し上げておくがそれは教団ではない。教団の大書院にはそのような記録は残されていない。

 この第二終末文書の特徴として、第一終末文書が雑多で曖昧な予言の詰め合わせだったことに比べ内容が非常に簡潔にまとまっている事が挙げられる。全部で羊皮紙20枚と預言書というにはあまりに短い内容で、その全てが終末、即ち魔族との戦争について挙げられている。加えて、戦争についての描写も大半においてフリーダの、即ち第一終末文書にて予言された事柄の補強でしかなく、この第二終末文書ではじめて明示される事柄はおおむね2つだけと言って良い。写本の当該箇所を現代語訳して抜粋すれば、

 ”「空の彼方より高く海の底よりも深い、はるかに遠い国より来る強力な魔法を備えたもの。そのものは卓越した魔法の技によって多くを従え、世界を灰に還そうとする。王都の白き城壁は炎で焼かれ、寺院は崩されるだろう。灌漑王トニスの作りし海の上の道は崩され、針の森でさえ枯れ果てる(灌漑王トニスとは出版時点の三代前の王で、海の上の道とは彼が最初の命令で作ったとされる街道で現在は所在不明。以下無関係の描写なので中略)。しかし、炎を逃れた人々はかの者に勝ち、神の御元へと達するだろう」”

 となり、以上の箇所から二つのことが分かる。一つは、第一終末文書ではただ漠然と来るとされていた魔族が、卓越した魔法技能を備えた指導者(=魔王)に従えられて帰還すること。もう一つはその戦争の最終的な結末である。この第二終末文書は王都を発端とし、数年のうちに北はヘリコン山の僧院から南はドナドの市まで広まった。ところが今度は教団がこの文書に疑問を投げかけた。
 これはあまり知られていない事だが、預言者を自称する人間に実際に神託があったかどうかを確認する魔法が存在する。むろんこれは秘密ではなく、故によこしまな人々によって魔法をごまかすための魔法なども作られてきたという歴史的経緯もあるのだが、古くはフリーダの時代から今日に至るまで、預言者が本物かどうかは魔法によって完全に判定可能というのが教団および王国府の一致した見解である。教団の中枢で予言に関する研究を行う司教として告白するが、預言者を僭称するものは非常に多い。預言者を自称し魔法によって神託が確認されていたにも関わらず処刑されてしまったフリーダの時代ならともかく、王宮府が預言者の存在を認知し、なおかつ教団が終身の厚遇を与えることを明示したドレイコス以降はそれはもう大変な熱狂で、毎年のように偽物が現れていた時期もあったほどだ。偽物も年々手口が巧妙になっており、神託を確かめる魔法をごまかす魔法というのもその流れで登場・高度化していったものだ。そんな訳で、万全の備えと運が味方した偽物のうち何人かは、王宮府魔術院のウィザードをだまくらかすことに成功するものが出る。だが彼らが本物の預言者と認められるためには、もう一つの審査を経なくてはいけない。詳細は書けないのだが、王都の最奥にあり世俗と隔絶された聖地大寺院のさらに奥、至聖所という大きな部屋で審査が行われる。審査自体は何のことのない魔法によるものだが、これを通過できた偽物は一人もいなかった。また不幸なことに、預言者を僭称したものはこの審査の過程で殆ど命を落とすという。今の所11人がこの段階に進んで、9人はその場で亡くなっているそうだ。

 話が逸れたが、要するに教団は預言者を認めるうえで魔法による審査に非常に重きを置いているということだ。しかしながら第二終末文書の著者は何者かによってその身柄を秘匿されており、教団はおろか王宮府の魔術院関係者による検証すら行えなかった。慣例に従えば名乗りを挙げない預言者の言葉などは偽書として一片残さず回収し消し去ってしまうべきであり、文書が巷に広がり始めてから2年目のPo.881年までは教団および王国府は一致して第二終末文書の写本を禁書として回収して回っていた。転換点となったのは81年の冬、氷走の月に行われた国王会議の結果、王宮府は突如として方針を転換し第二終末文書を正式な予言の書と認めてしまう。梯子を外された形になった教団は当然王宮府に猛抗議したが、この頃の教団は王国のいち機関のような立ち位置であり今ほどの発言力もなかったため黙殺されてしまう。いち司教である私が参照できる記録からはこれ以上のことは分からないが、時の王都教区長だった枢機卿パヴィオルデンの当時の日記などには騎士団に対する批判が突然沸いて出ており、そこから察するに王宮府の見解が急転した背景も騎士団にあるのではないかと私は推測している(注:あくまで私の意見であり、教団を代表する見解ではない)。しかし、国王の私兵である騎士団が預言者を匿う理由などはおよそなく、第二終末文書を執筆した預言者を匿っていたのはまた別の組織で、その組織が騎士団を経由して王宮府に働きかけたというのが賢明な見立てだろう。騎士団と昵懇で国王会議の議題にのぼるほど重視されている集団など、街道騎士かスリヌス族くらいしか思いつかないが、辺境に住まい血なまぐさい仕事を生業とする両集団が本件に関わっているなどということがあろうか。結局、当時の教団首脳部も私と同じ気持ちを味わったかは知る由もないが、予言の出現から9年後のPo.888年に教団も王宮府の決定を追認することを決めたのだった。

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